キボ王

ロボと味覚

「はー、今日はなに買おうかなぁー!」
 王馬が青い空に突き上げた腕をぐるんぐるんと回す。青い空。いつもの帰り道を照らす空はまだそんな色だった。肌をあまり晒さない彼の夏服の生地が、照って、少し眩しかった。
「チェリー? コーラ? 昨日はプリン。キー坊どっちがいいと思う?」
 彼が振り向いてこちらの目を覗く。益体ない言葉に悪意を塗り込めてさも無邪気なように投げ渡す。そんな台詞だと思った。
「……またチュッパチャプスですか。どっちでもいいんじゃないですか?」
「なんだよー。ついに怒った?」
 そのつもりだったのか。
「おこっ……て、は、ないですけど。どうせ……どんな味なのか訊いてもキミは教えてくれませんし……ボクには関係ないことじゃないですか」
 キーボは言い切って、思わずぎゅっと目を瞑った。心がざわめく気がする。意識したって意地悪な言葉というものを吐けない。それを悪いとは思わないけれど、ただ、いつもこちらに意地悪な彼に、同じやり方で少しでもやり返せないのが悔しくはあるのだった。
「んー。それ、聞こうと思ってたんだけどさ」
 場の挿話と休題とを意のままにする。キーボは彼にそういう才能を認めていた。目を開く。
「キー坊は、味分からないの?」
 落とされたのは今更な質問で、少しきょとんと間を置いた。結局、字面通りの意味だと取って答える。
「ボクは消化器官を持っていないので。食べることができないのに、味覚情報を認識する必要はありませんからね」
 返したそれは、我ながら的確で合理的な言葉だった。だが、王馬は訊ねておきながら、聞いているんだかいないんだかという相槌を打つ。挙句にこう言った。
「でもさぁ、味覚はなくても嗅覚は付いてるんじゃないの?」
 話はまだ見えない。
「精巧なアロマ判別機能は内臓済みです。それがどうしたんですか?」
 取り敢えずついていく。
「いやさ。〝味〟っていう感覚は、実は人体のどこで認識されてるものなのか科学的によく分かってないんだよ。今一番有力な説は鼻。もっと正確に言えば嗅覚」
「嗅覚……?」
 王馬は頷く。
「つまり、〝味覚〟って呼ばれてる感覚はその実殆ど嗅覚なんだよ。だから、飴なんかの味を変えるのには〝香料〟を使うでしょ」
「た、たしかに……!」
 もっとも、人間が味を感じるのに重要な匂いは、鼻から嗅ぐものというよりも喉から鼻に抜けるもののほうみたいだけど。そう添える王馬の声を聞き流さずに、キーボはふんふんと深く頷いていた。見張った目から鱗が零れ落ちる。雨粒に濡れた窓を開いて梅雨晴れを見た心地だった。
「そう……なんです、ね」
「うん」
「ボクには完全に理解しえない話、ではないんですね」
「うん。だから、キー坊の嗅覚の仕組みがどうなってるのか知らないけど、たとえば飴舐めたオレとちゅーでもすれば、あたかも飴を〝味わった〟かのような体験はできるんじゃない?」
「へっ……、」
 思考が止まる。空の青さに感じ入っていた思考が止まる。足も止まる。数秒してぼふっと頭部が茹る感覚を得た。
「へ、ぇ!? ぇ、あ、ちっ、ちゅ、……っ、て、え、え、」
「まぁ味覚と嗅覚とが完全にイコールだとは言えないと思うけどね。ドリアンなんかがたぶん良い例だし……って、あれ? キー坊に味覚が付いてないのって、ひょっとして不必要だからじゃなくて、味覚の仕組み自体が不明で再現不可能だったからなんじゃない?」
 大いに狼狽えているうちに王馬から随分引き離されてしまった。物理的にじゃない。話題と心の距離をだ。
 しかし、
「……はっ!? そ、そんなことありませんよ!!」
 それに気づくが先か、彼の最後の一言によって、キーボのほうもまんまとその距離を即座に詰め寄ってしまう。
「そんなことあるわけないじゃないですか! ボクを作った飯田橋博士ですよ!? 付けない機能はあれど付けられない機能なんてありえません!」
「うるさいなこの博士コンプレックスめ。声量を落としたまえよ」
「は、博士コンプレックス……!?」
「ハカコン。いや、語呂悪いな」
「おちょくらないでくださいよ! 敬愛と表現してくださいこれは」
「まぁしかし話を戻すけど」
 場の挿話と休題とを意のままにする。彼の才に流されまいとする努力は水泡に帰す。
「少なくとも、嗅覚が味の重要な構成要素だってのは言えると思うよ。実際、鼻詰まりの状態で何を食べたって甘いも苦いもあったもんじゃないし……ああ、〝辛さ〟だけは例外だけどね」
「……えっと、たしか辛さは痛覚なんですよね。それは聞いたことがあります」
「そーそー。よく知ってんじゃん」
 正当に褒められた。
「ところでキー坊、前にオレが頭殴ったとき『痛い』って言ってたけど、口の中にも痛覚あるの?」
「……はっ! あ、あ、あ、……あり、ま、せん、よ!」
 嫌な予感が背筋に閃いて大仰に否定する。必死だ。ロボだけれども、痛みを感じるから、痛いのはいやだ。
「あっははぁ。キー坊嘘吐くの下手くそだよねぇ」
 キーボは思わず固まった。
「下手くそだし、嘘吐くの気まずいと思っちゃって仕方がないんでしょ。分かるよ。分かりやすいしね」
「う、ぐぅ……」
 キーボは二重の意味で呻いた。一つは図星を突かれたために。もう一つは、……彼が近いために。
 王馬の身体が近い。吐息が、近い。彼はキーボの真正面からぎゅっと身を寄せてきた。伸べられた腕、指先が、そっ、と、頬に触れ、耳許まで辿ると、首に巻きつく。キーボは突き放すことも、まして抱き返すことも思いつかなくて、熱の再び昇った頬を、優しく撫でられているしかなかった。
「でも、吐いちゃうんだね。……可愛いなー。オレはね。お前のそういうところが、本当に、嫌いじゃない」
 自分が彼の目を見ているのだか分からなくなった。それこそが呑み込まれてしまった瞬間だったのかもしれない。
 キーボは王馬を見ていた。王馬はキーボを。見ていてくれた筈だ、と感じる。煮溶けた視線の先にいる表情は、浮ついた脳髄にうまく届かないけれど。キーボは王馬を見ていた。キーボは、王馬の言葉を、嬉しいと思っ――
「――っていうのは嘘だけどー!」
「……え、ぇ」
 ぱ、と離れていった王馬は、綺麗に空になった両手を、彼のちっちゃな頬の横で開いてにぱにぱしている。かと思えば、キーボが放心した頭で漸うそれを認識したときには、くるりと既に背を向けて、スキップの亜種みたいな足踏みをその場でしきりに跳び始めた。
「ど、どれが、嘘ですか……?」
「さーてね」
 ぴょこぴょこ。背を向けたまましかし歩きださない彼の地団駄が、もしかして自分を待ってのものではないかと思う。その予測が外れている、という可能性の予測がいやで、でもいずれは踏み出さなければいけないので、キーボは殆どおそるおそる、足を踏み出した。
 彼の背に追いつく。……彼は、待っていたように歩き始めた。それだけで、無い涙腺を欲したくなった。
「……お、」
 安心したついでに、出ない涙の代わりに、言葉が漏れる。
「王馬、クン」
「さーて飴ちゃんと一味唐辛子ちゃんをお迎えして帰るぞー! おー!」
「い、一味!?」
さっき背筋を這い上ったいやな予感とはこれだ。逆上せた胸を一気に冷やされて、キーボは鼻白んだ。
「何に使うんですかそんなもの! いえたぶん分かってるので言わなくていいですけど!」
「別にこじ開けたキー坊の口に無理矢理注ぎ込んでやろうとなんてしてないって」
「思ったとおりじゃないですか! いやですよ!!」
「えぇー。じゃあ最大公約数としてオレのちゅーを付けてやるから。オレが先に唐辛子をしこたま食べて、そのままお前にべろちゅーでもすればいいかな。さっき話した飴のと要領は一緒だね。痛み分け、痛み分け」
「いっ、……い、いやです! 飴はともかく唐辛子はぜったいにやりません!! ……と、い、うか、えっと、あ、あの」
 微妙な失言を取り繕おうとして、却って墓穴に手をかけてしまう。気後れから語尾が萎む。足が減速する。
けれども王馬はそんなこちらを振り返ることなく……こちらを振り返りはしないのに、合わせるように、歩を緩めていた。
 嬉しくなった。でも却って緊張に喉が詰まる。慎重に解きほぐすように、キーボは、声を絞り出した。
「――味を知るためとか、匂いとか痛みとか、そういうのは関係なしに……ふ、ふつうに、ちゅーしませんか……」
「えー」
 聞いてくれるにはくれたが、間髪を入れずに返されたのは容易に否定と取れる嘆詞だった。キーボはすっかり力が抜けて、その場に足を留めてしまった。びっくりするほど歩けない。充電、と思った。したのに、と思った。不安が襲う。
 ……王馬の背中が近づいてきた。弱く首を傾げてそれを見つめる。たしかに近づいていた。王馬は振り向かないまま。そのまま後ろ向きに歩いてきて、キーボの半歩手前でぴたりと止まったのだ。
「……キー坊のほうからしてくれたら、拒絶はしない、かもよ」
「……えっ」
 じわ、と四肢の硬直がほぐれる。喉があたたまる。ああ、動ける。安堵しかけた瞬間、左手に圧がかかって肩が跳ねた。
 王馬がその姿勢のまま、右腕だけをこちらへ伸ばしていた。キーボの左手をぎゅっと握っていた。
 そのまま引かれる。踏鞴を踏むように前に出てしまう。半歩の距離がすぐ埋まる。おずおずと左を見る。王馬がこちらをたしかに向いた。目が合った。
「いつでもいいよ」
 王馬は言う。ゆっくりと歩きながら言う。キーボを見て、明るく笑いながら言った。……キーボは彼のことが、好きだった。

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