ソニ狛七狛日狛眼狛

西陽に冷茶グラス。

「ほ、ほ、ほーたる、こい」
「こい」
 七海の小さな歌声に、少し低い声が被さった。ちょっと照れて振り向く。七海の背後からひょいと横へ回り込んだ狛枝が、淡い笑顔で橋の欄干へ手を突いた。
「蛍、いる?」
「……いないよね」
「だよねえ」
 流石にボクの幸運でも生かせないか、と続けて、彼はさっきまで七海の眺めていた薄昏い川を見ている。ふう、と橋の下から上がった風が襟足の間を掻いたから、思わず首を竦めた。
「……冷えるね」
 声がして、急に視界が暗くなったかと思うと、七海の背中に垂れていたカーディガンのフードを被せて、狛枝が離れた。
「帰ろうか」
 言って、目を合わせぬままゆるりと歩き出す、彼のほの柔い髪へ九月の風が揺れた。

(七狛『それは寒い夜だった。』)

  * * *

「日向クン」
「んだよ、狛え――」
 だ、という音は殆ど吐息に霞んだ。振り向いた彼の首へ抱き付いて、震えそうになる腕を奮わせて、きつく抱き付いて、
「お、願い……目を瞑ってよ。見逃して」
 囁いた。
 少し、すこしだけだから。
 一秒、二秒、……三秒。
 腕を緩め、首許へ埋めた頬を離す。そうやって漸く、ゆるゆると戻ってきそうだった呼吸は、けれども思いがけずぐいと背を引き戻してきた腕と、耳朶へかけられた息との熱さで、また詰まってしまった。

(日狛『目を閉じて、三秒』)

 * * *

「ボクはキミじゃないんだよ」
「分かっている」
「……キミはボクじゃないし」
「分かっている」
「世界は一つじゃない」
「その通りだ」
「けど、この世は一つだ」
「そうだろうとも」
「でも、その一つっきりの箱の中で、ボクはボクのことしか考えない。ボクはボクの世界しか守らないよ」
「分かっている。
 どうでもいいんだ、そんなことは全部」

(眼狛『どうでもいいよ、そんなこと』)

 * * *

 ずるずるずるずる。
 これは、救難信号。
 分かっている。ひどい浅ましい感情にじぶんで気が付いている。
「――見つけました、ヘンゼル!」
 明るい声に背なを打たれてぎょっと振り返った。海風が、少女の睫毛に光の粒を載せてゆく。
 後ろめたくも、視線を外すことはできなくて、目の前の花のようなそれには到底及ばないながら狛枝はのろのろと笑顔を作った。
「何だろう、ソニアさん」
「ええ、あなたの作ってゆくそれが、パン屑か光る石のように見えたものですから――」
 少女は視線を落とし、それ、を示した。
 ……狛枝が当てもなく歩きながら、ずっと引き擦ってきた長い木の枝が、砂浜にずるずると不恰好な線を書いていた。
「お菓子の家へ向かうのですね? ですが、ひとりでは魔女に食べられてしまいます。ご一緒しましょう」
 ヘンゼル。そう微笑んで、隣に並ぶ。
 隣に並ぶ。
 狛枝は、歩き出した彼女に遅れないよう足を動かすのに必死で、だから、もういっそう崩れてしまった笑顔も繕う余裕なんてなくなってしまった。
 さみしい森を、ならんでくれるひとに、置いて行かれないように。そう必死で。

(ソニ凪『迷子のお知らせ』)

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