ふわ、と、風、……のような、気配、が、掠る。
瞼を下ろす。
風、が、瞬間、潮味に薫る。靴底を絡める砂、肌をじわりと刺す陽射しの熱が、たしかにそこへ立ち現れる。そして、
「……、」
「……――」
キミ。
触れてしまう前に目を開ける。
無味無臭のコンクリートの街が広がる。
(七狛『目を閉じて、三秒』)
* * *
「――見つかってしまいました」
「……えっ」
凪斗は目をしばしばさせて、そちらを見た。豊かな麦色の髪房を湛えて、少女が微笑んだ。
「あなたの幸運に、捕まってしまいましたね」
目を見開く。――どうして、こんなところで、出会ったのだろう。
「ずるいです」
「……」
「あなたの幸運は、ずるいですね」
くすくすと、頬が震える度に、光の粒がぱっと弾けている。柔らかな笑顔に咲いた青い瞳が、ひたむきに凪斗を見詰めていた。
「……素敵です」
「……」
「お久しぶり、ですね」
「……」
細い手が頬に触れる。……その指先がやがて蒼く濡れた。
(ソニ狛『運命という罠』)
* * *
「日向クンは、コーヒー、ブラックなの」
頭の斜め上あたりで声がして、振り返る――までもなく、ふらりと日向の視界に狛枝が現れた。
「ちょっとカッコよく見えるよね」
「別に見栄張ってるわけじゃないぞ……」
愛想のいい独特の笑顔に憮然と言い返す。日本茶の渋みが好きだから、コーヒーにおいても苦味自体は実際受け入れているのだけれど、「好きなの?」「美味いかどうかは、分からん」と、そう思っている。
「ボクはねえ」
狛枝は日向の前に回り込んで、椅子を引いて、向かいに腰掛けた。
「実を言うと、あんまり好きじゃないんだぁ」
語尾を吐息に溶かす彼の喋り方だ。
へえ。意外だな。
お前こそ、起き抜けにブラックコーヒー啜るのなんかを日課にしてそうな印象だけど。
――日向の感想は、浮かびはすれど声にはならないまま沈んでいった。
「……」
狛枝の手が、テーブルの上のミルクピッチャーを取り上げた。
「……」
右手にミルクピッチャーを、テーブルの端に寄せてあったそれを、取るときの身体の傾きのついでに、左手には日向のコーヒーを。
「……」
自分の真正面にソーサーごとコーヒーカップを置いて、空いた左手には中身の残った熱いコーヒーポットを持っている。
「……――」
そして、大きな陶器の白い器から、しろいしろい牛乳が零れる。ガラスを透かして黒い器から、くろいくろいコーヒーが流れる。
「――」
掲げられた二つの器から、真ん中へ置かれたカップの中へ、二本の綺麗な棒状になった、それぞれの色が注ぎ込む。
二つの水流はぐるぐると、物言わず見る日向の目前で混ざり合った。カップの内側を削り取るように、切り立った縁をなどるように、まるで見せつけるかのようにゆっくりと、まるでそうゆっくりと、二本の対立する水流が、分かち合えない水流が、分かり合えない水流は、小さなカップでぐるぐると。
ぐるぐるぐるぐる回りながら、二つの色が混ざり合う。くろとしろ。くろとしろ。混ざっていって――。
混ざっていって――。
――……。
混ざってしまったら――!
「……」
顔色が悪いね、と静かな声がした。日向には何も見えない。分からない。
狛枝がそのときずっとどんな顔をしていたのかが見えなかったのに、まいて彼が何を思っていたのか、何を考えていたのかをなんて、分かる筈もなかったのだ。
(日狛『大人の定義』)