「仏は恋をしない」、らしい。
理屈の上ではそりゃそうだろう。
何せ恋っつうとあれだ―端的に言えば愛の一種。釈迦の教えじゃそれこそ捨つべき最大の煩悩なのだから。
に、しても。
あんな目をしながらよくそんなことが言えたものだよなあとも思う。
誰よりもあいつ自身が、衆生くさい感情に振り回されたような顔を年中見せているというのに。
今更、己が内に煩悩が無いなどと、いやはや、よくもまあ。
「―ま、そういうところも可愛げっちゃそうなんだけどな」
「…………マジだ……地蔵が壊れてる……」
「マジだ、って何がだ不動」
隣で狼狽えたような顔を見せる童の姿に溜息が漏れた。
「こないだ、弥勒から聞いたんだよ……その、地蔵が疲れて頭おかしくなってる、って」
「……。心配するな、俺は壊れてねぇし疲れてねぇ」
不動はなおも不安げな表情のまま口を噤んだ。俺の隣にちょこなんと座って、湯呑みを抱えているのである。
「―欲望を抱くこと自体は悪いことじゃねぇ」
「……? おう」
煎餅を咥えたまま一瞬間きょとんとした後、不動は頷いた。
「欲望があるから、怒ったり悲しんだり、嫉妬したり、がむしゃらになったり、絶望から這い上がったり、何かを夢想したり、築き上げたり、する」
「……おう」
「腹が減るのも欲望だ。――今日の菓子美味いか、不動」
「え? ……うん、美味い。いつものと違うよな?」
「おう。こないだ街で情報収集がてら、阿閦と一緒に買い物してきた。衆生の流行りなんだと。……後で弥勒にもやってくれ」
「あ……。ありがとな」
少しはにかんだように笑う。とてもいい表情だと、思う。
「……衆生の流行りは恋なんだよなあ」
「……は?」
「流行りじゃ善悪は測れんが」
「そりゃそうだろ」
琥珀色の瞳は、訝しげな声を吐きつつもじっとこちらを見て離れない。とりとめのない話を聞かせてしまっているのはこちらだから、煎餅くらいじゃ本当は、俺の気持ち的には少なくとも、駄賃としては足りないだろうとは思いつつ。
「――けど、俺は……あいつになら、恋、できるんじゃねぇかと思うんだよな。もし本当に、仏は恋をしないんだとしても。あいつなら、なんか、しそうな気がしなくもない」
「……梵天が?」
「おお……よく分かったな。なんで、俺が梵天の話をしてると?」
少なからず興味深くて、笑みつつ覗き込むと、
「弥勒が言ってた。地蔵が梵天と帝釈天の心配してたって。そんで、こっからはオレの、勝手な勘だけど――帝釈天は、どっちかというと、しそうにない。恋」
思わず噴き出した。自分でも半ば笑いどころのつもりだったらしく、不動もくつくつと笑った。
「いやまぁ確かに、なんつうか、鈍そうではあるんだよなぁ……あいつ。そこが可愛げだけどな」
「……お前の言う、その〝可愛げ〟って何なんだ?」
不動がううむといった面持ちで首を傾げる。
俺は三秒、考え込んだ。
「……俺が俺であるための煩悩、かねぇ」
「なんだそれ……?」
不動の顔はなおも真剣そのものである。本当に、悪いことをしちまったなぁ。煎餅や柏餅くらいで純真な存在の時間を買おうだなんて、まったく怪しからんことを考える大人がいるもんだ。どこのどいつだろうな、地獄へ落としてやるぞ。
「……おお、噂をすれば何とやら」
不動の目も、俺の視線を追いかける。
帝釈天と並んで歩いてきた梵天が、彼の言葉を受ける度に――怒り困り笑い、はにかみ、と、なんとも目紛しく表情を変える姿。
「……煩悩があるから、生き生きとするんだ。生きとし生けるもの、恐らく全て」
「……おぉ……」
何やら頬に刺さるものを感じて振り向くと、不動が少しく輝きを増した瞳で、俺の顔を見つめていた。
「なんか今の、かっこいい!」
「やめろやめろ、めんどくせぇ」
いなすようにひらひらと手を振って見せれば、不動はにっとあどけなく笑う。
横目に見る二人の姿は、付かず離れず。ただ、ひたむきに帝釈天へ食らいついている梵天の声に、帝釈天もまた、ほんの僅かながらにも、彼なりにさまざまに表情を移ろわせているのだった。