帝梵

ばかぢから

「……」

 梵天がよく抱きついてくるようになった。
 ある日を境に、という言葉がぴったりなほど、それは突然に始まった。
 とは言えきっかけとして何か特別な出来事があったような記憶も無いのだが、それでも確かに、決して徐々にではなく、〝ある日を境に〟全く突如として、それは日に何度も行われるようになったのだ。
「……」
 そんなときの彼は、決まって無言だ。言葉に依らず何かを示そうとして、黙って身体を凭れてくる。
 それが何なのか、大抵の場合俺に汲み取ることはできない。身体を離すときに梵天が言葉にして教えてくれることもあれば、そのまま暫くひっついていて結局無言のまま離れていくこともある。どの場合であっても、次に会ったとき彼はけろりとしているから、俺に真意を伝えることが目的ではないのかも知れない。よく分からない。
「……梵天」
「……ん」
 名前を呼べば、短くも返りがあることが多い。
 人目を憚るということもなく、梵天は基本的にどこでも誰の前でも抱きついてきた。俺も始めのうちは驚いたものの、当人にどうやら全く悪意は無さそうなので、次第に意に介さなくなった。
 ただ、まさか釈迦如来様の御前でですら同じように行動してくるとは思いもしなかったのだ。あのとき、流石に俺は肝を潰して、熱など調べるために奴の顔中をその場で撫で回してしまった。奴はそれに驚いたような――照れたような表情を浮かべていた。どうやら体調を崩して倒れ掛かってきたというわけではないようだと知り、俺がどれほど深く安堵の息を吐き出したことか。
 多分、それからだったと思う。梵天は黙ったまま俺の傍を離れるときであっても呼び掛ければ必ず、応えるようになった。
「梵天」
「うん……聞こえている」
 むずかるような声を吐いて、梵天は俺の胸許に額を擦り付けた。
 今回は、偶々周囲に誰もいない。梵天は俺の正面から両腕を回してきた。俺の部屋。畳の上にふたり座り込んで向き合う形になっている。彼の羽衣が頬を掠めて、花のような香りが幽かに鼻腔に触れた。
「――今日はどうした、こんなところまでついて来て……俺と離れるのが淋しかったのか?」
 声を潜めて、囁くように揶揄う。奴が俺を抱き締める腕があんまりにも穏やかにぬくいので、思わず俺も絆されるように、彼の頬を両手で包み込んで自らの顔を寄せてしまう。
「淋しい? まさか。ある筈もない。
 ……だが……」
 顔を上げて俺に白い目を向けた梵天はしかし、なぜか一旦、そう言って言葉を濁した。
「だが……もし、そのとおりだと。淋しいからだと、私が言ったのだとしたら――どう思う、お前」
「あ……?」
 問う梵天はいつもの真顔である。照れているということもなさそうで、どうやら本当にただの仮定の話だろうか。
 普段の彼ならば寧ろ無駄だと言って嫌いそうなその問いに、俺は面食らい、だができる限り真面目に、考えるだけ考えてみることにする。
「……お前がそんなふうに言う姿は、想像がつかない……しかし、もしもそれで、他でもないこの俺をお前が頼って来てくれるのだとすれば……それは多分、相当嬉しいことだろうと、思う」
 答えて、目を見詰めると、梵天は少し俺の言葉を咀嚼し吟味するような間を空けた。
「……ふむ」
「ああ」
「なるほど?」
「そうだ」
「ふむ……」
 首を傾げていた梵天は、何かに納得したのか、やがてうんと一つ頷いた。
 そして、
「では、そうする」
 と自信満々といった態で呟いたのだ。
「……何を?」
「そういうことにする。私は淋しくてこうしているのだということに、今からする。今、決めた。嬉しいだろう、帝釈天」
「……いや……そんな真正面から心にも無いことを言われても」
「ふふ。そうだろうな」
「ああ……」
 訳も分からず肯定していると、再び俺の胸へ頬を預けた梵天が、腕に籠める力を強くした。
 俺はふと思い立って、行き場を失くした自分の両腕を梵天の背中へと回してみる。思い返せば、抱きついてくる梵天を俺の方から抱き返したことはなかった。それは、特段そうする理由も無かったからなのだが。
「どうした、珍しい……私が離れてしまうと淋しいのはお前の方なんじゃないのか?」
「そんな訳があるか」
 そろりと頭を撫でてみると、梵天は応えるように俺の首許へ顔を擦り寄せてきた。
「まったく……そんなに淋しがるなら安易にひとりでふらつくんじゃない。お前の独断で、後々迷惑を被るのは結局私や他の方々なんだ。今日は奇跡的に都合の良い方向へ転がったとはいえ、それは運が良かっただけの話、それとあの後のあの態度、あれは何だ! お前が口下手なのも嘘が吐けんのも承知だがそろそろ言っていいこととまずいことの区別くらいつけろ、今朝だって同じようなことで私が注意してやったばかりでそれを学ばないのはもはやお前が端から私の言葉に聞く耳を持っていないのだとしか思えんしそれで思い出したが貴様昨日の――」
「お、おい待て!」
 流石に慌てて遮った。梵天は胡乱な顔で睨んでくるが、何が起こったのか理解できないし納得もできよう筈がないのはこちらの方だ。
 だんだんと堅くなっていく梵天の声に、僅かな不安をは覚えたものの。まさか本当にこの距離で本気の説教を浴びることになるとは。青天の霹靂と言い表しても大袈裟ではない。
「梵天、……最初から小言を言うつもりで来たのか? やはりお前だな。可愛くない」
「は。可愛げなど無くて結構。――そんなもの無くても、お前の隣にはいられるのだからな」
「……は……?」
 呼吸を忘れた。
「……なんだ、それは……」
 一瞬間。不意打ちを食らって止まる。
 呼気混じりに吐き出せば、梵天の美しい目が呆れたような色を乗せて向けられた。
「勘違いするなよ、帝釈天。……まぁ少し自惚れるくらいならば許すが」
 だから、何なんだそれは。
「――お前に道を誤られては困るんだ。お前と私は同じ途を目指しているのだから。そこは勘違いするな。
 だが、……私がそうと認めているのは、他の誰でもないお前だからだ、帝釈天。そこは、自惚れるなり勝手にしろ」
 静かに言って、梵天は目を閉じた。徐に俺の肩へ頭を凭れる。疲れたように息を鎮めた彼の、僅かに上下する胸、その動きを意識せざるを得ず、自分がどの速度で呼吸していたのか俺は俄かに分からなくなる。
「……ふふん」
「……なんだ」
「照れているのか」
「馬鹿を言え。……びっくりしただけだ」
「お前は案外可愛いな、帝釈天」
「五月蝿い。黙れ。……黙って抱かれてろ」
「ふふふ」
 自棄になって力を籠めれば、腕の中で梵天は、俺のことを茶化すように軽やかに、楽しげに笑った。

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