二大護法善神梵天

強さの由縁を何処に求めようか。

 お前は強いことだな、と思った。
 阿弥陀がわざわざ梵天を伴に選んだのは何かしらの考えがあってのことだろうとは思った。彼が具体的に何をどう梵天に伝えたのか、その頃寺で絶賛ヨガ教室開講中だった俺には知る由もないが、帰参した阿弥陀の顔を見れば、少なくとも彼自身が伝えるべきと心得た考えは梵天に抜かりなく伝達されたのだろうと察せた。
 梵天は強い。
 元々の由縁が人格神ではないから、なのだろうか。他の全ての俺達と同じように、人々からの語られ方によって姿を変え、在り方を変え、今ここに梵天として存在するようになった彼は――いわゆる肉を得て尚、その精神をおそらく俺達の中の誰よりも強くあらしめている。
 人っぽいところは多分にある。帝釈天とじゃれ合ったり、釈迦の言葉に目を輝かせたり、大日のご機嫌取りに奔走していたかと思えば不動や弥勒をも困惑させる突飛な行動に出たり。顔を赤くし青くし怒り笑い、真っ直ぐで豊かな表情は、いつでも生き生きとして鮮やかだ。
 しかし、同時にふとした瞬間、彼はその実どこまでも〝梵〟だった。
 今朝、彼が帝釈天の隣に座していたのは、きっとそれが通例なり慣例なりだからではなく、他ならぬ梵天自身が、帝釈天の隣に寄り添わんとする意志を持っていてのことだったろう。その意志が、添いたい、というものなのか、添わねば、というものなのかは俺の知るところではないが。事あのふたりに限っては、その二つの間に敢えて線を引くというのもおかしな話ではある気がする。
 いずれにせよ、あの状態の帝釈天に真っ直ぐに寄り添おうとすることそれ自体が、梵天の強さだった。少なくとも、俺の目にはそう映る。
 明らかに覇気がなく、上の空で、廊下などで見かける度に薬師が険しい顔をしていると思ったが、成程心を抉られた傷の方は全くどうにもなっていないのだろうと遠目にも分かる有様だった帝釈天。彼の傍を離れない梵天は、自覚してのことか否か、形振り構わずともいえる調子で一心に気を揉んでいた。
 そんな梵天の様子に、おそらく彼も思うところがあったのだろう。
 阿弥陀が梵天を指名したとき、俺はこっそり安堵した。梵天は強い。尚且つ弱い人間の感情をも知っている。そして何より、彼は、帝釈天の隣にいる。
 彼自身の意志でもって、梵天は己の隣を帝釈天と認め、帝釈天の隣で彼に発破を掛けるのもまた、誰でもない自分の為すべきことだと考えている。そうしたいのか、そうせねばなのか、どう思っているのかは、やっぱり俺があれこれ推量することではないにしても。
 強く聡い梵天に、一つの導を、おそらく阿弥陀は吹き込んだ。
 その手掛かりをどう使うのか。後は梵天自身が答えを出し、そして行動することだろう。帝釈天があんな目に遭った中で、俺も勿論知らぬ存ぜぬを決め込むつもりなど毛頭無いが、それでも……いや、だからこそ、ふらつく彼を引っ張り起こして再び道へ立たせてやるという役目は、他の誰でもなく梵天に任せるのが、最善且つ最速の手だろうと思えるのだ。
 梵天は強い。
 全ての理をその身に内包した彼の、受け容れる強さを、許す強さを、見つめる強さを、信じ愛する強さを、――
 ――俺達は皆、信じて託す。

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