「ただ今戻りました」
夕飯前、てくてくと梵天が帰参した。何となく顔を見に出ると、確かに観音菩薩様や文殊菩薩様と一緒だが、買い出しだったという割には三人とも荷物らしい荷物を提げていないようだった。
「テレビを買いに行ったんですよ。ついでに、暑くなる前にエアコンの新調を」
出迎えた勢至菩薩様と戯れながら、観音菩薩様が仰る。彼が唯一提げていた袋は、弟君への手土産だったらしい。
「おれが行けば、テレビくらい抱えて帰れたのにー……」
「抱えてもらうだけならいいですが、帰りはそのまま電車に乗らないといけませんし……状況によっては荷物が増えることもありえたので。勢至に煩悩退治を担当してもらえたお陰で、安心して買い物ができましたよ」
「えへへー……!」
花畑を展開する兄弟の横で、文殊菩薩様が俺を見た。
「帝釈天も、煩悩退治ご苦労様でした」
「はい。……あの、文殊菩薩様……テレビ、というのはやはり」
「ああ、気にしないでいいんですよ。形あるもの、いずれは壊れます」
「申し訳ありません……」
「いいえ。あなたたちに適当なことを吹き込んだ普賢が悪いんです」
やれやれといった調子で吐かれる深い溜息に、俺は思わず梵天と目を見交わしてそっと首を竦めた。
「おー、帰って来てんじゃん、テレビ……じゃなくてメガネ」
「噂をすれば……」
廊下をのんびりと歩いて登場した普賢菩薩様に、文殊菩薩様は詰問するような目を向けた。
「あなた、今日は当番でしょう? 夕飯の支度はもう終わったんですか?」
「大丈夫大丈夫。今、不動ちゃんと弥勒くんが頑張ってるから」
「最低な答えですね」
己に向けられる圧を物ともせず欠伸を嚙み殺すような仕草を見せた普賢菩薩様は、こちらに向けてひらひらと手を振る。
「おかえりー、梵天。災難だったねぇ、いきなり家電の買い替えになんて連れ出されて……オレそういうの、めんどくせーから超苦手」
「ですから! 元はと言えばあなたがふたりに間違ったことを教えたからこんなことになったんでしょうが!」
文殊菩薩様が眉を上げた。
「すみません、文殊菩薩様。普賢菩薩様の言うことなどを真に受けた自分と梵天の責任です」
「帝釈天……‼ 言葉に‼ 気を付けろと‼」
いきなり左耳が痛んだ。梵天が俺の真横で吠え立てたからである。
「……? あの後、文殊菩薩様からもきつく言われただろう。金輪際、普賢菩薩様の言うことは真に受けないようにと」
「帝釈天‼」
乱心か、梵天がいきなり俺の胸座を掴み上げて前後にがくがくと揺さぶった。訳が分からないし、こんなときばかり彼は馬鹿力である。
「ひでーよ文殊……陰でオレのことそんなふうに言ってたなんて……ぐすっ」
「何をいけしゃあしゃあと……」
可哀想なのは梵天と帝釈天ですよ、という文殊菩薩様の言葉に、梵天が俺の襟を絞め上げたままぶんぶんと首を横に振った。
「オレはただ……オレの可愛い可愛い帝釈天と梵天が頼ってきてくれたから、どーしても力になってやりたくて……っ」
「いいですか、もう一度言いますけど、『叩けば直る』のは昭和のテレビまでなんですからね」
あとあなたのじゃないでしょう多分、と仰る。多分ではなく正にそのとおりです、と俺は思うが声には出ない。
「昭和も令和も一緒だろ、たった一文字違いじゃん」
「理解がガサツすぎます」
文殊菩薩様は、もう一つ溜息で、普賢菩薩様とのやりとりを切り上げた。
そして半身で振り向いた彼は、
「梵天、どうどう」
手のひらをこちらへ向けて二回前後に動かす仕草。
「―はっ⁉」
あろうことか一瞬ぽかんとした梵天は、弾かれたように声を上げてばっと自分の手を開いた。
漸く理不尽な拘束から解放された俺は、軽く噎せる。
「とにかく。テレビは明日には配送してもらえるそうですから、この件はこれでお終い。ふたりはもう気に病むことはありませんし、強いて言うなら、次からは家電絡みの困りごとは僕か地蔵に相談するように」
「はい……」
隣から弱々しく点頭する梵天の声が聞こえた。
次いで、「弥勒と不動を手伝いに行きますよ」「オレが下手に手ぇ出さない方がいいって」などと言い合いながら台所の方へ遠ざかっていくおふたりの声。
「……」
その場にふたりきりになっても暫く、梵天は俺の背中を緩やかにさすり続けていた。
「……梵天」
「ん……もう平気か?」
呼ぶと、梵天は手を止めてこちらを覗き込んできた。
「地蔵菩薩様から、伝言を聞いた」
「ああ! お伝えくださったのだな。後でお礼を言わねば」
梵天の顔がきらきらと綻ぶ。俺に向けられた笑顔ではないけれども、間近で見せられると、少し、目が痛くなった。
「……妙なことを言付けるなと思ったが、〝心配するな〟とはテレビのことだったのか」
「……? いいや? 私のことをだ」
「……⁇」
思わず食い入るように見詰めてしまう。笑みは既になく、そこにあるのはきょとんとした間抜け面なのに、これは一体なぜなのか、俺の目にはやはり彼の表情が少し眩しく見えるのだ。
「お前、心配するだろう? 私を」
「……心配、というか」
まだ、酸素が回りきっていないのだろうか。なんだか頭がぼんやりと、熱い、気がした。
「地蔵菩薩様に、帰ってすぐお声掛け頂けなかったら……探し回っていたと思う、梵天を。俺は、延々と」
「ふふ……そうだろうな。私も、もしも逆の立場だったらそうしている。きっと」
梵天が微かに笑う。密やかに。珍しく飲んで少し酔ったときのような、おかしなことを心持ち上機嫌そうに言うものだと思った。
「心配ではないが、気に掛かる。お前が私の目の届くところにいないと――今日の浄化は滞りなく終わったか、帝釈天」
「あ……ああ。何せ勢至菩薩様がおられた。何も問題は無かった」
「そうか」
「だが」
梵天が顔を上げて俺の目を見る。
いつしか俺の胸へ寄せていたそのかんばせを。
俺の背中へ両腕を回して、そっと抱き着いていた身体を、少し離して、梵天は俺の言葉を待った。
「……やはり梵天とが、いちばんいい。……気兼ねが無いから」
「ふふ。……うん。そうだな」
流石に嗤われる、と思えば伝える声はぼそりと低くなった。けれども梵天は、この声を聞き取るや可笑しそうに噴き出して。柔らかく緩めた眦を、ふんわりと、あたたかな色に染め上げたのだ。