昔見た、幼い姉弟の姿が思い出された。
現世のとある町で出会った光景だ。その二人はどんなときも固く手を繋ぎ合って立っていた。周囲の大人の各々勝手な言い分に揉まれながら、生まれた時代の土地の運命に強いられながら、一見か弱く吹けば飛ぶような人型ふたつは、どうして常に爛々と黒い目を光らせて、彼ら自身の意地を示すようにむんずと地を踏みしめていたのだ。
――今のふたりの有様は、まさに彼らの魂とそっくりではないか。
隙無くぴったりと寄り掛かり合って、それでようやっと一つの大樹であるかのように立っているくせに、そこには何の後ろめたさも、羞も、或いは慢心も見当たらない。互いを互いの根とし枝葉とすることは、ただひとえに彼らの在り方であるようだった。
「――みだ、……阿弥陀ぁ」
「……んん?」
呼ぶ声に振り向くと、瓦礫と化した厨の壁の向こうから、掴み所の無い笑みが覗いていた。
「駄洒落創作に思い詰めていた、という顔ではないのう」
「いや、お前も考えてみろ、虚空蔵。〝冷蔵庫〟で駄洒落。これは難度が高い」
「死ぬほど暇なときにでもやってみるわい」
へらへらと言う。ウナちゃんはうなうなと身を捩り、戯れていた俺の肩から主の許へと戻って行った。
「――あのきょうだいを見ていたときと、同じ顔をしておった」
竜胆色の目は俺を見ていない。隠れてずっと見ていたから、そろそろ見飽きたとでも言うのだろう。案外、死ぬほど暇そうな奴である。
「虚言は悪癖だぞ。俺があの土地にいたとき、お前はそこにいなかっただろう」
「それはそうじゃが。その子らの話は、お主から何度か聞いた。話す度に、お主は同じ表情をした」
「……ふむ」
そういうことを覚えていられるとなかなかに照れる。当時の自分の何気ない行いを、時を下ってから他者の口から語られるというのは。或いは無意識の癖をぽろりと指摘されるような、何とも言えない、決まり悪さというか気恥ずかしさというか。
「もじもじして見せるな。お主のそれは却って白々しい」
「はっはっは」
駄弁を閉じて、庭に目をくれる。
――帝釈天と梵天が、崩れ落ちた屋根瓦をそれぞれに抱えて、ひとところへ運んでいるところだった。
「可哀想じゃと思うておるのか、あいつらを?」
虚空蔵の目が、何の表情をも浮かべずに……強いて言うなれば限りない慈愛の熱のみを薄く湛えたまま、こちらを見ていた。咄嗟に答えかねた俺は、暫しその目の虚ろさを、脈絡無く観察していた。
「……あいつらも、いい大人だ」
「そうかのう」
「では、子どもだと思うか?」
「それはなかろ」
主の内面を体現するように、ウナちゃんは虚空蔵の身体をうなうなと這い巡った。
「お主も割に面倒臭いの……そんな顔であいつらを見ているくらいなら、あいつらに強いるのをよせばええことじゃろうに」
「強いている、つもりはない」
つもりだの、つもりじゃないだの……と、虚空蔵はぼやく。
その瞳は庭で並んで働くふたりへと向けられ、何を思うが為か、その首は緩く傾いだ。
「釈迦の伝言だ。それに従うことに、俺たちの中で異論を持つ者はいなかっただろう?」
「わしは覚えておる。あのふたりの戸惑った顔。異論とまでは言わんが。初めからずっと、戸惑っておる様子じゃった……ほれ、今も」
「だからと言って、」
平然とした声で畳み掛けられる言葉に、思わず身体ごと向き直ってしまった。虚空蔵の目が少しく見開いて、俺を振り向く。そこで俺は漸く、やってしまったと気付いた。
「――……未熟な戸惑いに任せ、その歩みを止めさせることこそが、正しいことだとは言えぬだろう。できる者がそれぞれにできることをする。その姿を見せれば、ふたりもきっと倣って、前を向き、行動することを覚える」
「……それは、お主自身の本心か?」
「俺の、今この状況において最善だと信ずる考えだ」
竜胆色の瞳は再び逸らされた。
『これこそが俺の信ずる考えだ』
……などと言い切ったものの。
もう白状しよう。俺はすっかり参ってしまった。
「……降参だ、虚空蔵! お前は強いな」
「なにぃ? わしは何を競っておったつもりもないが」
「ああ、分かっている。分かっているが……強いな。参った」
「そうか、そうか」
虚空蔵は虚ろな瞳の縁を引き下げて、淡い笑みを形づくった。
「称えられるのは、まぁ満更でもない」
「なぁ、俺はどうするべきだ? 今の皆のやり方も、正しさの一つだとは思っている。その考えに嘘はない。……ただ……、……だが、俺は、……」
藁にも縋る思いで、とうとう目の前の男へ思いの丈を吐きつけてしまう。まるで泣き言だ。実際ちょっと涙は出そうでもあった。助けてくれ。助けてほしかった。俺、俺は、……。
「……やはり、ふたりのあんな姿が、痛ましく見えてならない。それもまた、俺の切実な本心なんだ」
意地の体現のように、絡ませ合った根を土に張る様は強かだった。しかし、二人は二人きりではいられなかったのだ。子どもに限らず、人は世界に二人きりでは生きてはいけないであろうことも世の摂理ではあるが、強烈に支え合う二人だけではいられないからこそ、二人以外の様々な思惑や因縁によって引き裂かれてしまう想いがあることもまた、世の摂理であった。
あの幼いきょうだいが、あの後、どんな人生を辿ったのか――俺は、見届けることが叶わなかった。守ることも、添うことも、僅かな手助けをすることすらも、実のところ結局できなかったのだ。
謂わば通りすがりに見掛けただけの、あの姿を。しかし俺は虚空蔵の言ったとおり、折に触れて思い出してしまう。殊に彼らの姿が重なって見えてしまうのは、どうしたことか、このふたりなのだ。
梵天と帝釈天。ふたりは人ほど弱くはない筈で。片や天部一の智を、片や天部一の武を持つとまで謳われる存在であって。
それでもあいつらは、この寺であんな顔をする。皆の見せるあからさまな空元気に取り繕うことなく戸惑い、その振る舞いに同調することを躊躇い、同じ顔でいる互いを頼り合って、繋いだ手のように固く凭り合った想いを純直な根として張って、この庭へ立っている。
そのいじらしさを、見ぬ振りなどすることが、果たして本当に善いものなのだろうか。このようにあれと、型を差し出して鋳直してしまっていい表情なのだろうか。あれは、本当に?
俺は分からなくなっていた。梵納寺がこんな目に遭い、釈迦の無事も定かでないことから来る混乱も手伝っているのかもしれない。しかしそんな今だからこそ、俺自身がこんな事ではならぬとも思うのに。ああ、まるで煩悩だ。煩悩に邪魔立てされる凡夫のように、考えがまるですっきりとしないのだ、今の俺は。
「――……ふ……あっはっはっは! 子煩悩じゃのう、阿弥陀よ!」
「…………は?」
出し抜けに響いた虚空蔵の笑声。そして続けられた言葉に、俺はきっと今日一間抜けな声を出した。
「……なに……煩悩?」
「子煩悩じゃ、子煩悩。お主の今の有様は、愛子を突き放すべきか掻き抱くべきか懊悩しておる親のそれじゃあ、阿弥陀」
なんとも愉快そうな顔で笑っている。かの目の奥に慈愛の熱など見たと言ったのはどの節穴か、今やその竜胆には完全に他人を揶揄い茶化すことによる愉悦の色しか浮かんでいない。
「何を愚にもつかぬ事を……大体、さっきも言ったが、あいつらもとっくにいい大人で」
「いやいや。親にとっちゃあ子は幾つになっても子よ。のぅ、阿弥陀」
「ぐ、ぐぬぬ……!」
「――まぁ、そのポジションなら地蔵とええ勝負じゃろうて。お主もひとつ、奴を見習うて、あいつらと一緒に作業でもしてやったらどうじゃ?」
彼は追い立てるように、ウナちゃんを使って俺の背をぐりぐりと突っついてくる。
「こんな所で口ばかり動かしておらんで。手を動かして来い、のう」
「……お前もしっかり働くんだぞ、虚空蔵」
「なっはっは! 分かっちょる、分かっちょる」
台所の掃除は任せていいものと見えて、虚空蔵はのんびりとした動作で熊手を手に取った。
「まあ、阿弥陀では地蔵の最新DIY工具の魅力には勝てんじゃろうがの〜。お主はお主のやり方で頑張れ、パパさん」
「……誰がパパさんだ……」
今日は駄洒落の調子も悪いし、全体的に具合がおかしいらしい。
やはり、無理はよくないのだな。
俺は益体無い言葉しか吐かなくなった虚空蔵に背を向け、庭へぐるりと視線を巡らせる。
――少し身長差が目立つ、ジャージの後ろ姿。
ふたりは、阿閦の見せる明るい笑顔の前で、ぴったりと隙無く寄り添い合って立っていた。四本の足は支え合って、この土へありのままに根を張っている。
お前たちは、きっとそのままでいいのだ。
言葉にしてそう伝えることに、しかし、今はまだ迷いがある。
それでも。言葉にせずとも、何かを示せるよう。たとえばその根を腐らせたり、その枝葉の風雨に折られたりするのを、みすみす見逃すことはないように。
その実りを、俺も俺のやり方でさり気なく見守っていようじゃないか。
お前たちのその強かさは、いつかお前たちだけでなく、俺たちの強みになってくれる。