帝梵

ふらふらぼんぼん

 戸を開けたら倒れてきた。

「――梵天……⁉」
 嗅ぎ覚えのある匂いと見慣れた頭髪に、一瞬膠着していた思考がするするとその人物を特定していく。
 どうした、と声を掛けながら肩に手を置くと、彼は俺の胸からがばりと面を上げた。
 ――今日初めて見るその顔は、酷い驚愕と混乱に満ちていた。
「……あっ、あ、……阿弥陀如来様……⁉」
 俺と目が合うや梵天は頓狂な声を上げ、狼狽えたように闇雲に後ずさる。そして、
「―ぅわ痛っっったっ‼」
 俺が止める間も無く、そのまま真後ろの柱にぶつかった。肉体を打ち付けたにしては結構な音が響いて、思わず飛び付く。
「ああ……! どこ打った? おー、よしよし……」
「も、もももも、申し訳ございません……‼」
 彼の身体を抱き起こすように肩を支え、どうやら打ち付けたらしい後ろ頭をさすってやる。俺の腕の中で只管に恐縮したような声を上げる梵天は、その態度自体は普段どおりであるものの、廊下を行き掛けに倒れ掛かってきたところからして無論いつもの彼だとは言い難かった。
「取り敢えず、座って休もう。梵天」
「だ、大丈夫ですっ、私は、ご迷惑をお掛けして本当に――」
「大丈夫、じゃないだろう。……力が入ってないぞ」
 最後の指摘は、せめてやや声を潜めて伝えてやった。梵天は言葉に詰まって身体を震わせている。愈々強引にでも休ませるべきだと、俺は判断した。
「ほら……掴まれ。一先ず、俺の部屋で休め」
 まるで足取りが覚束ないにも関わらず頑なにどこへも縋っていなかった梵天の手を、恥ずかしそうに覆い隠していたかんばせからそっと剥がして、こちらの腕へ縋らせる。
「あ、……阿弥陀如来様……こ、こんな」
「何も言うな」
 彼自身の内面の躊躇と身体的な具合とで、その両足は殆ど俺に引き摺られるようにしてしか進まない。
 彼の素足が傷付いてしまわなければいいがとも心配になりながら、俺は先程一人で潜ってきたばかりの戸の内へ、彼を連れ込んだ。

「無理しちゃ、だめ」
 薬師が彼の目を見詰めて言い切った。
 言われた梵天は、納得はしていなさそうな顔でそれでも一旦口を噤む。
 問診は薬師のその一言で一通り終わったものと見て、俺は口を挟んだ。
「梵天。お前が進んで帝釈天と行動を共にしてくれるようになったことは、正直有難いと思っている。釈迦も実は……まあ今だから言ってしまうが、お前たちの仲に度々気を揉んでいたものだ。
 だが、他者と共にあろうとするときには、己と相手との間に必ず存在する相違のことをも、絶えず意識していなければならない。分かるな」
「……はい」
 固より恐縮しきりだった梵天の身体がますます小さくなったように見えた。未だ本調子であろう筈もない相手に向けるのが、こんな叱りつけるような言葉では到底まずかったかと俺は悔いた。
「……帝釈天は……僕らの中でも、身体が丈夫な方だから……。彼について行こうとすれば……僕らの方が、先にへばっちゃうのは……当たり前」
 薬師の柔らかな声が、俺の至らぬ台詞をフォローする。声に違わぬ優しげな眼差しが、そっと梵天の表情を覗き込んだ。
「……薬師如来様……」
「打ったところは、大丈夫、みたいだから……安心して。それと……身体がふらつくのは、きっと過労。栄養剤だけ、あげておくから……それを飲んで……せめて今日一日、は、安静にしていて」
「ですが……」
「煩悩退治も、現世視察も。……今日は、お休み。家事も、僕らに任せて。今、梵天が一番にやるべきなのは……適切な休養を、しっかり取ること」
「……わかり、ました」
 漸く、ゆるゆると、梵天は頷いた。
 俺は知らず詰めていた息をほっと吐き出した。
「……阿弥陀。梵天のこと、このままこの部屋で、寝かせてあげて」
「―っいいいいいいいえ、いいえ‼ そそそっそんな失礼なことは! これ以上は‼」
 俺が答えるよりも先に、梵天が飛び上がるように立ち上がった。驚いて見上げる俺たちの視線の先で―案の定、梵天は足が立たずそのまま後ろに。
「――っと!」
 間一髪、俺は梵天の背中側へ回り込み、畳へ打ち付けられかけた身体をどうにか支えた。それでも軽く尻餅をつかせてしまった。
「……梵天……」
 安堵の息を吐く俺とは対照的に、薬師は名を呼びながらじっとりと睨むような視線を送ってくる。心底、彼の身を案じているのだ。
「……すみません……私はまた同じことを……」
「いいや、気にするな。疲れていれば頭が回らないのも仕方ない。……他人の部屋では気が張るだろう。送ってやるから、自分の部屋で、身も心もちゃんと休めるといい」
 梵天は頷くが、すぐに首を横に振った。
「一人で……戻れます」
「だめ」
 意固地な声の元を辿ると、薬師が殆どむすっとした顔で梵天を見詰めている。
「送ってもらって」
 俺は思わず気が抜けて笑ってしまった。
「ああ―俺も少し外へ出ようと思うから、どうせならそこまで一緒に行こうじゃないか。な、梵天」

 少し話をした。
 薬師が、栄養剤を出して、いろいろと念を押してから、俺の部屋を去った後のことだ。
「――ありがとうな、梵天」
「……え」
 俺は、先程言葉足らずに終わった思いをそう伝えた。
 梵天と帝釈天。二人は、互いに弱さを補い合い強みを支え合うと、本当に目覚ましいほどの力を発揮する。稀有な相性の良さを持っている。お前たちが自らそれを生かしてくれることは、非常に俺たちの助けになっている――そういうことを、伝えた。
「……皆様の、釈迦如来様のお力になれているのなら本望です」
「ああ。本当に、よくやってくれている……」
 そこで俺は言葉を区切り、むんずと彼の肩に手を置いた。
「だがなあ」
「はっ、はい……⁉」
「それでお前自身が倒れてしまってはな」
「……はい……」
 項垂れる梵天の肩を、ぽんぽんと宥めるように叩く。
「いやまったくだ。頑張った挙句に倒れてしまったお前が、なぜ一人だけ俺や薬師から説教を受けなければならない?」
「え……? い、いえ! 私はけして、お二人のお言葉をそんなふうには――」
「気を遣うな。……と、お前に強いるのも酷な話か」
 少し首を捻って見せるも、そんな俺の目前で梵天は慌てふためくばかりだ。いかん。
 これ以上心労を掛けては、俺が薬師から無言で詰られる羽目に。
「……後で」
「は、はいっ……」
「帝釈天にも、よく言い聞かせておく。懇々と説教をしておこう」
「……え……?」
 梵天の透き通った瞳がきょとんと瞬く。その様を見て俺は本当に、こいつによくよく目を掛けていてやらなかったことを反省した。それは、たとえ俺でなくとも。誰かがもう少し、口を出してやるべきだったのかもしれない。多少過保護だと云われるくらいのことが、ある部分では、こいつに対して必要なことだったのかもしれなかった。
「自分の容量を心得ず無茶をして身体を壊したのはお前だが、自分と相手との相違を弁えず、相手に自分と同じだけのことを強いて無茶をさせたのは帝釈天だ。
 お前が注意を受けるのならば、奴もまた同じくらいには叱られて然るべきだ。そうだろう?」
「……ふふ」
 梵天は。
 はにかむように、僅かに笑った。
「さあ、これは約束だ。俺の説教だけでは効かぬようなら、薬師にも頼むことにしよう。
 そういう訳だ。お前は何も憂うことなく、帝釈天にはざまあみろとでも内心思いながら、清々しい気持ちで少し眠るといい」
「あはは!」
 すっかり気分が解れたように、梵天は珍しく声を上げて、晴れやかに笑ってくれた。
 立ち上がるのに手を貸してやり、二人で廊下へ出る。本当に大した距離ではないが、それだけに却ってゆったりと、確かめるような梵天の歩みを見守りながら彼の部屋まで歩いた。

 * * *

「――阿弥陀如来様!」
 涼しい内にと庭の草抜きをしていると、縁側を渡ってゆく鼻歌に気が付いた。
 顔を上げたところに丁度声を掛けられて、笑顔を返す。
「ああ、梵天。すっかり回復したようだな」
「ええ、お陰様で!」
 にこにこと生気に満ちて笑う梵天の許で少し語らおうと、俺は作業の手を止めた。
「阿弥陀如来様。此の度は、その……いろいろと助けていただいて、ありがとうございました」
「どういたしまして。くれぐれも無理はしないように、今日からまたよろしく頼むぞ、梵天」
「はい!」
 梵天は意気揚々と、両腕の中の木桶を抱え直した。
「……ところで、梵天。それは?」
 珍しい物を持っているなと気にはなっていたのだが、俺はその桶を指して訊ねる。
 梵天はよくぞ訊いてくれたという顔で、俺へ向けてその中身がよく見えるようにした。
「『看病セット』です!」
「かんびょう……?」
 覗き込むと、確かにタオルやら冷却シートやら薬包やら、果てはペットボトル入りの水やらプラスチックコップやらゼリー飲料までもが、一つの桶の中にきっちりと収められていた。成程『看病セット』だ。
「今朝、薬師如来様にもお礼を申し上げに参りまして。少しく話し込んで戻ってきたのですが、いつもの時間を過ぎているのに、どういう訳か、奴の姿が見当たらず」
「……ほう」
「気に掛かったので部屋へ様子を見に行ってみると―なんと、夏風邪を引いていやがったのです! 帝釈天の奴‼」
「――……あっはっはっは!」
 俺は堪らず噴き出してしまった。
 不憫な帝釈天にではない。言った梵天の、それはそれは楽しそうな顔についつられてしまったのだ。
 大きな桶をわざわざ器用に片手で抱え直して、びしっ! と俺の顔へ人差し指を突き付けて。何を滔々と愉しげに情感たっぷりに語り始めたのかと思ったら、お前は……。
 これは、冗談なんかではなく案外本当に、あの日「ざまあみろ」と舌を出しながら眠りについていたのではなかろうか、こいつめ。
「あっはっは……それで、お前はそんなに嬉しそうなのか?」
「だって、帝釈天が体調を崩したのですよ? 奴でも、身体を壊すんです。しかも私とほぼ同じタイミングで」
 梵天は嬉しそうに、片腕を大きく広げて笑って見せた。
「つまり、私の体力が奴と比べて特別に劣っている訳ではなかったんです!」
 俺は少し絶句した。ややあって、吐く息に混じりながら笑声が漏れた。
「……そうか、そうか。
 いやしかし、帝釈天には可哀想なことをしてしまったなぁ……奴には既に、お前との約束どおり俺たち二人からお説教済みなんだが。ああ、或いは、奴はそのことを気に病んで……?」
「まさか!」
 梵天は最早気持ちのいいほどばっさりと、俺の心配を切って捨てた。
「それに、体力は私と変わらなかったとしても、結局、奴も自分の容量を弁えずに倒れているのですから。いずれにせよ、私と同じ意味でのお叱りは受けるべきでした」
 梵天はきりりと真面目な顔をする。抱え直した桶の中、汗を掻き始めたペットボトルを気にするように、ラベルをちょっと指で拭った。
「――可哀想、という点についても。
 私がこれから全力で看病してやるのですから、少なくとも奴の口からそんなことは言わせません」
 高らかに言い切って、胸を張る。
 初夏の光の加減の所為なのだろうか。瑞々しい眩しさを感じて、俺は薄く目を細めた。
「なるほど。それは、確かに頼もしいことだ」
「ええ。奴が永劫私に頭が上がらなくなるほど献身的に尽くして見せましょう」
「あっはは!」
 最後のそれは茶目っ気たっぷりに発せられたので、明らかに冗談だと分かって俺は心底安堵してしまった。お前は、果たしてどこまで分かっているのだろう。
「――梵天」
「はい?」
 行きかけた梵天が、背中越しにこちらを振り返る。
「お前も、根を詰めすぎて移されないように気をつけるんだぞ。風邪」
「……はい!」
 淡く柔らかく、梵天は微笑みを浮かべた。
 そして、ありがとうございます、と照れくさそうに呟くと、手を上げて見送る俺を背に、軽やかな足取りで歩いて行った。

「さてと……」
 腰を伸ばしながら庭を振り向くと、日陰の位置がやや変わっていた。本当に夏だ。日の動きが早い。
「……」
 俺はちりとりを引き摺って場所を変え、誰かが朝飯の時間を知らせに来てくれるまで、もう少し庭の手入れに勤しむことにした。

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