「うわぁあああああぁああ――‼」
* * *
今日は何やら予感がしますねぇ、と釈迦が朝から首を傾げていた。
だもので、俺は珍しく迦楼羅を供に、街へ煩悩退治に出掛けていた。釈迦がそのように言うということは二人のどちらかに関する予感なのだろうと思うが、あいにく梵天はここにはいないので、俺は帝釈天を連れて現世を回った。
予感というのは果たしてどういうものなのか、それが悪いものならば寧ろ常と違う行動を取らせない方が良いということもあるのかもしれない。それでも俺は、――否。
俺も、落ち着かなかったのだと思う。今日は、何やら。
しかしそんな俺のそわつきやら釈迦の予感やらはどこ吹く風、まるで何事も無く――煩悩に深く侵された個々の人間にとっては勿論〝何事も無く〟はないだろうが、ともあれ何事も然程〝大事には至らず〟――一日は過ぎ。
初秋の日暮れは過ぎた季節のそれよりも潔く、しかし爽やかに訪れた。
「また太ったなあ、迦楼羅」
「げふぅ……日がな一日極上ビュッフェに連れ回しておいてその言い草かよ……うぃぃ……満腹ぅ……」
今朝の五倍程度のサイズになったもちもちの腹をもちもちとしながら、俺は寺の周りをぶらぶら歩いた。
帝釈天ももう床に就いた頃だろうか。大方寝静まった梵納寺と、〝その他の世界〟との間を、曖昧な境界をゆっくりと撫でるように揺蕩う夜の粒子を密かに呼吸しながら、俺は餅を抱え、歩く。
「重いな、迦楼羅」
よっこいせと、餅もとい迦楼羅を地面に置いて、凝りそうな肩をぐいぐいと伸ばした。迦楼羅は文句を言う気力も無いのか、はたまた満腹で既に半分夢の中なのか、星明かりがちらちらと宿る土の上にされるがままむにゃむにゃと寝そべる。大きな丸い月。今宵はそれが空に一つ、俺の足許にももう一つできた。
「ううむ……伊予柑食べていい予感……ひょっとして今日の俺たちに足りなかったのは柑橘系か?」
関節のストレッチを繰り返しながら俺は考える。しまったな。街では帝釈天と迦楼羅にあんこ系の和スイーツばかり食べさせてしまった気がする。
スイーツ煩悩の詰まった月から、空の方の月へ視線を移す。予感。羊羹。いい羊羹でいい予感に、なると思ったのだがな。
「この際、映えそうなキラキラフルーツパフェに……む?」
胸の前で腕を組み、伸ばした左肘を右腕で押さえて肩の運動。
それをやりながら、俺は月を見上げていて。ふと、既視感に目を瞠った。
そう、それは既視感。違和感ではなく。
まごうかたなきデジャ・ヴュ。
「――ぁああぁあああああああああ‼」
ぽよ―ん。
足許の月が弾み、
「ぐぇっ………………」
餅の嘴から蛙の鳴き声が漏れた。
長い長い大絶叫と共に落ちて来た真っ白い影は、迦楼羅の腹に着地してぐったりと伸びた。
「ほう……月から降って来るとは、さてはかぐや姫か?」
思わずまじまじと覗き込む俺に、白い彼は顔を上げる。紫苑の瞳が二つぱっちりと咲いた、驚いたような、ばつの悪そうな、縋るような、それは猫のような。
懐かしい、けれども少し変わったような、ずっとずっと変わらないような、そんな表情に。
「――おかえり、梵天」
俺は漸く今日初めて、心から笑うことができた。
「……あ、……あ…………」
梵天は天の川のようにきらきらとした目を見開いたまま、はくはくと口を動かす。その震える声が、俺の言葉に応えるよりも先に呼んだのは、果たして。
「――梵天……⁉」
夜の塵を凛と割く声に振り向けば、ジャージ姿で息を弾ませている帝釈天の姿がある。
地上に落っこちたまんまるい月の上で、ぺたんと座り込んだまま、梵天の目はもう、息を切らして己を出迎えた彼の声に釘付けになっているのだった。
「…………た……」
かすかにふるえ。
「…………帝釈、天」
天の月より還り来し輝夜がこの地で最初に呼んだのは、果たして彼の片割れ、翠緑の星。
* * *
「――……法力が途中で切れてしまって」
迦楼羅の腹を居心地悪そうに撫でながら、梵天はぽつりぽつりと話した。
真夜中の騒動に起きて来たのは帝釈天だけで、俺たち三人(と一羽)は梵天が落っこちてきた庭のその場所で、夜色の絵の具水に巻かれたまま膝を突き合わせていた。
昨日は眠れなかったのだと、俯き加減のまま梵天は彼らしくなくつっかえつっかえに言う。
「眠る時間が取れなかったのか? それとも、寝付けなかったのか」
「……こ、後者です」
震える声で答えて彼はさらに俯いた。今日帰って来ると決めていて、それに掛ける期待や不安など膨らむ感情に阻まれて眠ることができなかったのだろう。以前までの梵天であれば、それは確かに考えもつかないようなことだった。
「……なぜ戻って来たんだ」
帝釈天が口を開き、低い声で問うた。
帰って来た彼に、二言目に掛ける言葉がそれだった。
「帝釈天、――」
「わ、悪いのか⁉」
その言い方は誤解を生むぞと、俺が帝釈天を窘めるよりも先に、案の定梵天が高い声で噛み付いてしまった。
「私が、帰って来たいと――お前に会いたいと思ってしまったのは、そんなに悪いことなのか⁉」
まるで泣き出しそうな勢いを持った叫び声に、俺は動揺したし、帝釈天さえも、これは慣れたことではないらしく驚いたように目を瞠っていた。
「悪くなどない!」
帝釈天は叫んだ。
驚いたような顔のまま、見るからに反射的に、率直に叫び返していた。
「悪いわけがない。俺はただ、お前がどういう目的で戻って来たのかと、単純に疑問で。……責めるようなつもりはなかった。上手く伝えられなかったなら、すまない」
言葉を探すように視線を横へ流しながら、帝釈天は朴訥に謝った。
俺は安堵した。取り越し苦労に頬を掻きたくもなった。
梵天は言葉を失って固まっていたが、徐々に解けるように肩の力が抜けていくのが、傍目にも分かった。
「……ん……そう、か。いや、気にしていない」
「そうか」
「ああ。……」
月明かりのみに照らされた顔は色の判別もし難いが、陽の下にあればおそらくは紅色に染まって見えたであろう、そんな表情で梵天は頷く。
「――今回は、現世視察に参ったのです」
「ほう」
切り替えるように――おそらく今ので勇気付けられたので、それで――俺の方をぱっと振り仰ぐと、梵天ははっきりとそう話した。
「視察……?」
「いや、安心しろ。何か特別な事件があったというわけではない。天界で現世のことを教え歩いている身として、定期的に知識を更新していくのは大切なことだろ? 特に最近のこの国は、様々な面において情報の移り変わりが速いからな」
色めき立った帝釈天を堂々とした笑みで宥めてから、梵天ははきはきと己の信念を語る。
「ですから、今回は数日間――ひょっとしたら数週間、現世に留まりたいと考えています。それで、その……私には他に当てもないので、この梵納寺へ」
最後の言葉だけは、ちょっと照れたように、もごもごと口の中で蟠らせるようにした。思わず笑みの零れる俺が何も言わなくとも、帝釈天がこの心と同じような気持ちを声にして伝えてやってくれる。
「当然だ。ここはお前の帰って来る場所だ、梵天。遠慮を覚える必要などどこにもない。――ただ、帰って来る方法と時間についてはちょっと考えたほうがいいと思う」
「たっ、た、帝釈天に『考えろ』などと言われたくない!」
きっと真っ赤になっている顔で、梵天はぷりぷりと言い返している。
「ただっ……今日はちょっと、上手くいかなかっただけだ……! 私だってこんな、真夜中に―眠れなくて――体力がもたなくて――こんなふうに、惨めで、それに加えて迷惑千万な帰り方をするなんて……そんな、つもりでは……」
肩の前で握り締めた両拳が震え、梵天はぎゅっと唇を噛み締めて視線を落とした。
俺は新鮮なものを見たようで、それでいて懐かしいような気持ちで、弟子の成長を見守るというのはこんな気持ちだったようなと取り留めもなく思いながら、その顔を見た。
「迷惑だなどとは、少なくとも俺は思っていないぞ、梵天」
「……阿弥陀如来、様」
「俺も阿弥陀如来様と同じ気持ちだ。……すまん。日の出ているうちに帰って来れば、皆様からの歓迎も受けられたのにと思うと、……だが意地の悪い冗談になってしまったな。お前はお前なりの事情の許で、一生懸命に帰って来たのだったな……お疲れ、梵天」
「……ん。うん」
帝釈天はそっと手を差し出し、梵天ははにかんだように小さく頷きながらも、その手を取った。ようやく親愛の握手が交わされたことで繋がった、二人の間の結び目を見て、俺は一人うんと頷いた。
梵天の手の下からそっと迦楼羅を奪い取って立ち上がる。
気絶――もとい眠っているお月様をもちもちと抱えて、面食らったような紫苑をにっこりと見下ろす。
俺の横顔へ注がれていた翡翠の視線が、心得たように頷き逸らされるのを感じた。
「――うわっ……⁉ 帝釈天?」
突然ぐいと引っ張られて、梵天が慌てた声を上げる。
帝釈天は梵天と掌を結び合ったまま勢いよく立ち上がっていた。
そして、
「おかえり。梵天」
真っ直ぐに梵天の瞳を見下ろして、確かに、そう告げた。
「あ……。……うん……うん」
放心していた梵天は、ゆっくりと噛み締めるように何回も頷きながら、帝釈天の手を頼りに、立ち上がった。
「ただいま、帝釈天。阿弥陀如来様も」
「ああ」
律儀に、二人の目を順番に見詰めてくれた梵天に、俺も応える。梵天のその言葉は、俺の腕の中で眠っている迦楼羅には明日の朝、皆と揃って伝えられることだろう。
「――さて。休む前に風呂に入るか? 梵天。夕飯の残りでよければ簡単な飯も用意しよう」
「い、いえ! お構いな――……。……いえ……えっと、やっぱり、頂きます」
逡巡の挙句、気恥ずかしそうに申し出た梵天に、俺は笑みを返す。
「……背中、流すか」
「はあ? ……お前はもう入ったのだろう?」
「ああ。しかし、法力を切らして落っこちて来るような状態の奴を、一人で風呂に入れるのはな」
「お、お前に介助されなくちゃならないほどじゃない」
「…………そうか」
「……なんだ。一緒に入りたいのなら素直にそう言え」
「……」
「いや何か言え!」
敢えてゆっくりすぎるほどゆっくりと前を歩く俺の歩調に、不満の一つも、いや不審の一つも覚えていないように、二人はきゃっきゃとはしゃぎ続けている。
「――どうするにせよ、先ずは着替えてくるといい。お前の部屋も阿修羅の部屋も、お前たちが旅立ったときのままにしてあるからな」
「お前たちがいつ帰って来てもいいようにと、去年のあの日から毎日、皆様も交代で掃除してくださっている」
後ろを振り返ってのんびりと投げた俺の言葉を、帝釈天が淀みなく継ぐ。梵天は少し言葉を詰まらせて、その喉で閊えた声が目でもって己を表そうとしているかのように、瞼がふうと持ち上がった。
ぱちり、とその目が瞬き、そして。
「――ありがとう、ございます」
梵天はくしゃりと、やわらかく笑った。
俺が再び背中を向けた後。ありがとう、と小さな声が聞こえた。敢えてそうしているのかはたまた離すことをすっかり忘れてしまっているのか、未だ繋ぎ合ったままだった彼らの手は、いま暫くはそのままであるのだろうなあと、何となく感じた。