帰る場所がある、と思える、ことが。
こんなにも心に安らぎを与えるものなのだということを、俺は初めて知った。
道をただ進むということは――まして実体のない、絶対的な正解もない、概念としてのそれを貫くということは――一度当て所を見失ってしまえば、途端に、今立っている道さえも分からなくなる、そういう危うさと常に共にある。
以前の俺は、自分がそういう状況に立っているのだということ自体、自分で分からなかった。考えたこともなかった。
自分の身などはどうなってもいいと、思っていたことも確かだ。けれど、事はそういう単純なものではなかったのだ。
ただただ、前へ進み続ける。それは、誤った道も、迷った道も、自分の辿った軌跡の全てを常にリアルタイムで受け入れ続けなければならないということだ。己の生は今ここにしかなく、したがって己の目も今ここをしか見詰めることはできない。己の拠点は今ここにいる己の身、己の想い一つでしかあり得ない……。
……今となっては、自分でも危うい橋を渡り続けていたものだと思う。しかし確かに、だからこそ、そんな生き方を迷いも憂いもなく続けられるのは〝強固な己〟を持つ者でなければあり得なかっただろうとも、思う。
とはいえ、今の俺が昔と比べて弱くなったと思っているわけではない。今の俺は……今のこの俺が信じた正義のためには、昔の俺のようなやり方は適さないと、そう考えたのだ。
帰る場所がある。そう信じることのできた上で、進むということ。
それは、ある意味で道の〝やり直し〟が利くということなのだ。分からなくなれば、戻ればいい。疲れたなら、帰ればいい。そこに信じられる朋が待っていてくれるのならば、持ち帰った土産話を肴にでもして、縺れた想いはリセットすることがきっとできるだろう。今の俺は、そう思っている。そう信じられる場所が、今の俺にはあるから。
その日は穏やかな曇り空だった。道沿いに咲き始めた紫陽花の花が、雨雲のより重たくなるのをじっと待ち望んでいるように身を寄せ合っている。
俺は、途方もなく長い生の中で初めての――家に帰る、という経験に、緊張などしていないと言えば大嘘になった。移ろいの速い現世の町並みを見ながら歩くにつけて、らしくなく小さな不安などが、幾度も幾度も胸の底に湧いた。
帰り着くと、何かに勘付いていたのかそれともただの偶然なのか、庭先にいた釈迦如来に出迎えられた。
彼をはじめ寺の皆は、俺の不安を顔を合わせる度に一瞬で晴らしてくれた。大日如来と不動も、バケーションとやらを一旦は終えたらしく、変わらぬ笑顔とおかしな渾名呼びとで迎えてくれた。
俺の親友もいい意味で相変わらずで。
ただそこには、梵天だけがいなかった。
夕飯の後、帝釈天からゆっくりと話を聞いた。俺は最初、梵天はこいつの隣にいてやらなかったのか、と肺の底をちくちくと刺されるような感じを抱いた。けれどもどうやらそういうことではないらしい。
聞けば、彼からの同行の誘いを断ったのは帝釈天の方だそうだ。俺は正直、俄かにはそのことが信じられなかった。思わず隣に座る彼の横顔をまじまじと見詰めてしまい、「……分かるぞ。今すごく失礼なことを考えているな」と真正面から言い返された。いや、俺は何も言ってはいねえんだけど。
ともあれ、俺はここでまたも新たな目を啓かされることとなった。相変わらずに見えた朋友も、しかし時の中で変わってゆく。そして、変化は必ずしも劣化や悪化をは意味しない。俺の場合がそうであるように、彼のその変化もまた、彼が彼の信念に沿って進むための最善な進歩なのだろうと思えた。
「……お前や梵天に、頼っていた――いや、縋っていたと言っても過言ではないほど寄り掛かっていた時期があること。自覚はしているし、忘れてもいない」
そしてその事実を自分で否定する気もさらさらない。そう、帝釈天は言った。
「言うほど甘えっぱなしってわけでもなかったけどな、お前。現に俺も……多分梵天も、お前の筋金入りの馬鹿さに、何度も、救われた」
「……お前と梵天の間でそれは流行ってるのか? 人の顔を見る度に馬鹿馬鹿と……」
帝釈天が珍しくむっとした顔をするので、俺は噴き出しながらも素直に詫びた。
俺の帰省したつい三日ほど前、梵天は寺を後にしたそうだ。
現世視察とは、成程賢明なことだと思う。帝釈天の話を聞きながら、俺はゆっくりと、頭の中であの辞典の表紙をなどった。餞別を贈るという厚意そのものに価値などを付けるつもりは毛頭無いが、奴の寄越した『現代用語辞典』は俺にとって正に実用性に長けた逸品だった。本当に現世の道行きを助けられた、その礼を、いつか会えたなら言いたいと思っていた。
「視察は定期的に実施する……などと言ってはいるが、天界での修行もなかなかそう一筋縄にはいかないようでな」
「そりゃあな。逆に一筋縄でいく修行って何だよ」
「それもそうだ」
ふっと笑って、帝釈天は夜空を見上げた。
俺も何とは無しにそれへ倣う。今宵は白い、丸い、大きな月が浮かんでいた。
「――お前が発った前の夜も、こんな月が出ていたな」
静かに、何やらしおらしいことを言う。詩情なんて俺たちの間にはあまりにも似付かわしくないと思っていたから、変に面映くて、恍けることで流そうとした。
「梵天が初めて帰ってきたのも、こんな月夜だったんだ。……だからだろうか」
帝釈天が俺を見る。それが分かって、俺も奴の顔を見た。面映いというのも今更おかしな話だ。愚直なほどに真っ直ぐな視線を受け止めて、俺は奴の目を見返しながら、ただその言葉の続きを待った。
「暫くは感傷に浸るようにしか見上げられなかった月が――最近はだんだんと、美しく、見れば心が安らぐようなものに変わってきたんだ。
……今宵は阿修羅、お前がいる。何度道を違えてもまたこうして隣で語らえる、お前という朋が。今夜の、この記憶があれば、俺はいつかまたお前と別れてもきっと、今までよりもさらに心強い気持ちで、一人の夜にも月を見上げることができるだろう」