帝梵阿修羅

ハロー、また会えたなら。

 世界は広いようで狭い。それは真理だが、その狭さというのはまさかアパートの一室を狭いと形容するのと同じ次元の話ではあり得まい。
 だのに、

「「……え?」」

 私たちは出会い、そうして二人間抜けに声を揃えていた。

 * * *

「まさか、お前とこんな所で出会うとはな」
「……ああ」
 阿修羅は静かに頷く。梵納寺を離れて今ここには私と彼以外おらず、他の方々への遠慮をする必要もなくなったのに、僅かにぎこちない。その態度が何か言いたげに見えて――ああ、そういえばこいつは、私があそこを離れたことを知らないのだ。
「お前……あれから、梵納寺には」
「一度だけ帰った」
 温かく迎えてもらった、と、一拍置いて続ける。滲み出るような微笑みを浮かべる顔に、ああよかったと自然に思った。彼が『帰った』という言葉を使ったことにも、それから、彼の帰省が皆ときちんと顔を合わせて再会を喜び合えるものであったことにも。
「……お前はどうなんだ、梵天。最後にあそこへ帰ったのは……」
「うん? ……暫くは顔を出していないな」
 具体的にいつかと聞かれると咄嗟に思い出せず、私は首を捻った。
「……俺がたった一度だけ帰ったとき――その三日前に、お前が定期視察を終えて天界へ戻ったところだと聞いた。……それこそ随分と前の話だ。俺がお前の後に寺へ帰ったことを知らないということは、梵天、お前はあれからずっと」
 なんだそうだったのか。阿修羅の話を聞いて私は、今更残念に思われるような、今となってはくすりと笑えるような、そんな不思議な感覚を抱いた。
「思い出した。そう、数日後に雨が降る予報だったんだ。晴れているうちに発とうと思って、それで、出立を少し早めて」
「俺が着いた日、まさに朝から雨が降りそうに曇っていた。けど、夕方にはすっかり晴れて、暫くは降り出さなかったんだ」
「なんだ! 当初の予定のまま待っていれば、お前とはもっと早くに顔を合わせられたのだな」
 私は笑った。たぶん今だから笑えた。
 だってもう、その彼は今、確かに私の目の前にいるのだから。
「お前は案外晴れ男か。そういえば、今朝も少し天気が怪しかっただろう」
 降り出さなかったのは、私の日頃の行いのためではなく。今日これから出会うことになる、お前の存在のためだったのかもしれないな。
 そんな冗談すら臆面なく言える。随分久し振りの、朋との再会というのは、人の心をしてこんな機微を抱かせるものなのかと、私は新たな実感を伴った発見に心踊るのをめいっぱいに感じていた。
「……もしそうなら、これで礼はできたことになるか?」
 きょとんと私を見ていた阿修羅が、俄かに、茶目っぽそうににやりと笑った。今度は私がぽかんとする番だ。
「礼?」
「――お前からの餞別で、現世の道行きが本当に助かった。梵天」
 ありがとう。
 穏やかな声と、黒曜石のような瞳とが、私に向けて真っ直ぐに、そう伝えてきた。
「道中を晴らすことで、俺もお前の旅行きを助けられたんなら……少しは返せたってことに、俺ん中ではしとくぜ」
 軽口のように冗談めかして彼は言うが、対する私は咄嗟に笑うこともできず、大真面目に首を振ってしまった。
「いいんだ。そもそも返礼を求めた物じゃない。私自身が、現世に来たばかりの頃に、文殊菩薩様から賜って随分と助けられた物だから、お前にも同じように役立つのではないかと思った。……お前は、現世を、人々を知ろうとするだろうと思ったから、そういう奴なのだろうと、思ったから……」
 何か大きなものが胸に閊えたように、上手く感情が纏まらず言葉にならない。首を振りながら途切れ途切れに想いを吐き出すと、ふ、と目の前から吐息の漏れるような音が聞こえて、私はおろおろと顔を上げた。
「――帝釈天のことバカにできねえな、お前も。……生真面目で、馬鹿正直」
 阿修羅が、にっと揶揄うように、それでいて柔らかく、笑っていた。

「――ところで、お前、今夜の宿は決まっているのか。阿修羅」
「うん?」
 思いがけない問いでも受けたかのように、黒い瞳がぱちぱちと瞬く。
 ひとしきり他愛ない話に花を咲かせてから、傾き始めた日を見て、私の意識はふと現実を思い出したのだった。
「その反応。野宿でもするつもりだったのか」
「あー……まぁ、今回は」
「よかったら一緒に来ないか」
「……え」
 実は好都合だったその答えに、密かに安堵しながら持ち掛けると、阿修羅はより面食らったような顔をした。
「こんな小さな町にも、ビジネスホテルというものがあるんだぞ。……まぁここからだと多少便は悪いが。私は今夜そこに泊まる。お前もどうだ」
「……いや、しかし……」
「奢る」
「な、なぜ……⁉」
「取り引きをしたい」
「……取り引き?」
 私は淡々と言い切った。押し切れ。千載一遇、ここで会ったということは、確かに私たちの縁は繋がっている。切らすな。
「私がお前の宿代も世話してやる。……その代わり、いろいろと現世のことを教えてほしい」
「おし……える? ……俺が、お前に?」
 信じられない物を見たような顔で反芻する阿修羅は、確かに私のことを正しく理解している。
「お前は、現世のことを定期的に視察に来ているんだろう。今日だって、こうして。それに、……知識なら、お前が……俺が教えられるようなことなど……」
「いや。聞きたいんだ」
 私は尚も押した。ああ本当に、憎たらしいくらいに正しい理解。帝釈天の入れ知恵なのか、――いや、これは、あの時の。確かに、私と阿修羅とが私たち自身で紡ぎ上げた、その時こそがもたらし得る理解なのか。
「私が以前、視察の対象としていたのは……私自身の拠点である梵納寺を中心とした、特定の範囲内の衆生に限られていた。
 しかし、それではいけないと思ったんだ。衆生の世界は関東近郊で終わっているわけじゃない」
「ああ」
「お前などには、今更な話だと思うが。……私にとっては、それは漸く得ることのできた視点だった」
 阿修羅は少し、目を逸らす。そしてすぐにまた私を見詰める。気付くのが遅くても、視野が欠けていても、悔いる者でも、足りぬ者でも、決して見下さぬ。目の前の表情が、随分遠い記憶になってしまった相棒のそれと重なって、やはりそういうところが私には少し眩しかったのだと、今なら素直に、そう思えた。
「――せめて、仏の守護するこの国を、できる限り隈無く歩いてみたいと思ったんだ」
 決してこちらを嘲ることのない視線に、却って怯みそうになる。それを敢えて真正面から見詰め返すのは、己の弱い心を弱いまま、相手に自ら曝け出そうとすることと同義だった。
「……そうか」
 阿修羅はふっと、笑った。
 肩の力が抜けたような、あどけなくさえ見える笑みだった。
「それで、こんな〝辺鄙な〟ムラをふらついてたんだな。最近梵納寺に帰ってねえのも、その為ってわけか」
 私は、阿修羅の淡い笑みを力強く見詰めた。
「だから、教えてほしい。長く現世を旅し、衆生に間近で寄り添ってきた、お前の目から見えたものを。私の目で見たものとはきっと違う」
 私は膝を乗り出すようにして彼に迫った。
 阿修羅は真面目な顔をした。ふと、何かに気付いたように息を飲んで、少し視線を流し考え込む。そんな彼の表情の機微を余さず至近距離で捉えて、私はどきどきとしていた。
 ――そして。

「お前、〝嘘が下手〟だな、梵天」

 漸く発せられた彼の一言に、私は絶望した。
「いや、嘘ではねえんだろうけどな。本音はそこじゃないんだろ。お前は、」
「ま、……っ待て、言うなっ、」
「俺とこれっきりで離れるのが寂しいんだな」
 阿修羅がにやりと言い、私は自分の顔から火が出たと思った。
「ははっ。お前も帝釈天のこと言えねえくらい、案外淋しがり屋……痛っふぇえ‼」
 言葉によらず優しげに笑っていた阿修羅のほっぺたをむぎゅぎゅと摘んで、仕返しを果たした私はふんっと彼に背を向けた。
 そのままずんずんと歩き出す。
 成程、阿修羅は帝釈天ほど鈍くはない。そしてその分、帝釈天とは違った意味で、彼より余程心臓に悪い!
「何をぼさっとしてる、早く行くぞ! 後から泣きついてきても私の部屋には泊めてやらないからな!」
 一度だけ振り返って顔も見ずに吐きつける。
 一瞬の間。その間にも二人の距離はどんどんと開く。
「……へいへい、っと」
 気の無いような返事、呆れたような言葉。
 しかしその声が私の心に届くよりも三歩早く、阿修羅の足音は軽やかに私へ追いついてきて、そのまま半歩遅れの距離で隣に、並んだ。

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