二大護法善神

朋輩よ(愛別離に際して)

「いや。俺はここに残る」
 そう言うしかないと、思っていた。

 彼が次に進もうとしていることは感じられた。ただ、彼自身の口からそれを聞くことはなかった。俺にも黙って行動を起こそうとしている。その意味に、俺自身も向き合う時だった。
 俺は考えた。彼には劣る能力でも、考えることを諦めないという点においては、その彼からもお墨付きを貰えたと思う。そういう意味では自信を持てたから、俺は臆することなく思考に努めた。
 ――彼からは信頼されている、と思う。俺の賭けに乗り、共に阿修羅を救う道を拓いてくれたことは直近でのその何よりの証左だ。
 しかし、今回の彼の決断を、どうやら俺に隠されているらしいことは気にかかった。彼は、多分寺を離れるつもりなのだと思う。俺の決断には道連れになってくれる。けれども彼の決断には、俺を引き込んではくれないのだろうか。
 彼は強い。彼には力がある。己の道を己で進んで行けるだけの力が。
 それは彼自身も自分でよく心得ている筈だった。まあ、稀にやや過信気味なところもあるにせよ。実力と、何より失敗を発条に学ばんとする姿勢は、その短所を補って余りあった。
 にも関わらず、彼は何か懸念があるのか、踏ん切りが付かないようにいつまでもぐずぐずとして、寺の生活に留まり続けていた。まるで、この先もずっとこの暮らしを続けるつもりでいるかのように、そこから外れることなど頭にも無いかのように。
 彼は強い。力がある。
 そんな彼が、自らの行くべきと信じた道をとうに見付けているにも関わらず、それを実行に移さずいるということに、俺はずっと不安を感じていた。
 彼の行動を押し留めているものは、一体何なのだろう。何に対して遠慮、しているの、だろうか。
 俺を信頼してくれているのなら、打ち明けてほしかった。
 ――或いはそんなふうに思ってしまうところこそが、相談もしてもらえない所以だったのだろうか。
 俺はもう、彼とならできぬことなど無いような気がしていた。しかしそれは、驕りと紙一重だ。寧ろ表裏一体と言うべきか。彼となら進めると思うことは、彼とでなければ進めないという思いにいつか簡単に掏り替わってしまいそうで、今二人で共有しているある種の全能感は、その意味でまさに諸刃の剣ではあった。
 俺はその剣の構え方を、もしかしたらとっくに誤っていたのかもしれない。
 俺よりもずっと聡い彼はそのことに気付いていたのだろうか。
 だからこそ、敢えて俺を頼ろうとはしないのだろうか。
 ――或いは、俺こそが彼の枷になっているのかもしれない。
 そんな不安に、思考の末見えてきた可能性に、俺は向き合わねばならなかった。
 俺が心から信頼するかけがえのない彼にとって、信頼を置くに値する己である為に。彼の隣に在り続けた存在として、真に相応しい己である為に。何よりも、俺のことをそうと認めてくれた彼の心を、決して裏切りたくはないが為に。
 暗がりの獣道で散々惑いに惑った俺を、幾度も引っ張り戻しては小さな明かりを与え、これで己の道を探せと促してくれた。お前は俺にそうしてくれた。お前は、俺がお前にそうすることをは信じてくれぬのか。
 信じさせることが、俺はできなかったのか。
 ならば。せめて最後は。
 確かにこの手でお前の背中を押させてほしい。

 そう、考えていたから。
「私も……お前がいてくれたら、心強い」
 彼の口から思いもよらない言葉を渡されて、俺の心は大きく揺れてしまった。
 何よりもその声が、視線を伏せたその表情が、その言葉を含みも衒いもない真実そのものだと伝えてくるから。
 あれほどお前の背を押すのだと固く決めていた筈の心が、その一瞬、いとも簡単に揺れに揺れたのだ。
 ――しかし、だからこそ、今度こそ俺の心ははっきりと定まった。
 お前に情を向けられたからと。そんな理由で、お前の道中の枷となるかもしれないこの身をお前に添わせることはやはりすべきではない、と。
 自ら修行に出たいと望んで行動を決めたお前ほどの主体性は、この出立に関して言えば、無論俺の方には無い。畢竟、お前が誘ってくれたからついて行く、若しくはお前が友としての俺との情を頼って甘え甘やかしてくれたから共に在る、ということに、どうしてもなる。そして、それはそれで、魅力的だ。そうできたなら、それもいい。そうしたい、そう思う自分は、その時確かに俺の中で息巻いていた。
 ――けれども、だから、やっぱり俺はここでお前を見送るべきだ。
 お前との情に縋りたい俺を、俺との情に縋りたがってくれるお前を、お前の志や俺の主体性に優先させてしまうことは、俺たちの〝諸刃の剣〟の振るい方を誤らせることになるだろう。
 そうすれば俺は、俺を信じてくれたお前の信頼に足る、俺ではいられなくなってしまう。俺の信じたお前の隣に在るに相応しい、俺では在れなくなってしまう。
 それだけは嫌だったから。
 お前と紡ぎ上げてきた縁をふいにすることだけは、どれほど我儘だと謗られようとも、受け入れたくなどなかったから。
「――……いや。俺は、ここに残る」
 揺れに揺れた心を制してそう告げたとき、お前が驚いたように目を瞠って、それから本当に淋しそうに視線を伏せた姿を、俺は瞬きもせぬように具に見詰めていた。
「割と気に入ってるんだ、ここの暮らしが……」
 堪らずそう付け足した俺は、どんな顔をしていたのだろう。
 お前を気遣ったのだなどと思われぬよう、上手く笑えていただろうか。
 思ったことがすぐ口に出る、どこまでも楽観的な馬鹿だと、いつものように呆れてくれていたならよかった。

「……じゃあな」
「――ああ」

 最後にお前が真っ直ぐに、俺の目を見詰めていてくれたのが俺の一連の行動にとっての救いだった。
 俺もお前を見詰めていた。お前が目で語りかけてくれることに応えたくて、またお前にどれだけでも語りかけたくて、俺は、お前を。
 突き放すようではなかった視線、それを最後の最後まで往生際悪く絡め取って、いつか来る再会の時を待たずしてもお前の存在を勝手にいつでも隣に感じていてやるし感じさせてやるからと、もはや呪いのような縁を練り込んで、ぐしゃぐしゃに丸めて紫苑の瞳へ投げ返した。

 * * *

「お前も来ないか。天界に」
 私はどの道そう言うつもりだったのだと、思う。

 言えば決心が鈍ると思ったわけでもなく、ただ言う必要がないと思ったから、黙って行くつもりだった。
 私一人いなくとも、寺は安泰だ。なぜならば私たち二人がここへ呼ばれたのは、大日如来様の代わりをするためなどではないからだ。私たちが、二大護法善神として――否、一人の存在どうしとして、きちんと向き合うこと。釈迦如来様が計らってくださった機会によりそれを確と成し遂げた今、私たちがそれぞれ次の道へ進むことを躊躇する理由などあろう筈もなかった。
「帝釈天」
「ん?」
 私は何気なく彼の名を呼んで、そしてその時に及んで尚、自分が何を言うつもりでそうしたのかを分かっていはしなかった。
「――お前も来ないか、天界に」
 自分の唇が動き喉が震え、果てに耳からその音を聞いて漸く、成程自分は今そう言ったのだ、と思った。
 そうか……そうか、そう言ったのだな私は、と、思った。
 私は嬉しくなった。そうか、そう言うつもりだったのか。私は。彼にさえも何も告げない筈だった、気付かれていたなんて思いもしなかった、畢竟私は流れるように彼を置いて行く、それが何事でもありはしないかの如く平静に彼と離れる、あのままいけばそうなっていた筈だ。何よりも私自身が、そうなることを選んでいた筈だった。
 けれどもそれはよくよく考えてみれば不自然な話だったのだ。
 今の私が――もうこうなってしまった私が、他ならぬ彼を置いて一人行くなどと。そうすることに微塵も心揺らさずにいられるなどと! よく考えればそんな筈はなかった。そんなのはおかしな話だった。
 きっと私は、ずっと決めていたのだ。今、こうすることを。いつか来るその時には、彼を私の道へ誘うことを。無意識にもそのつもりでいたからこそ、私はこれまで平静であれたのだろう。
 私にとって、彼は。互いの道を違えることに、少しも心動かぬような存在などではなかった。黙って傍を離れて、それは何事でもありはしないかのように変わらぬ心地で暮らしてゆけるほどの存在ではなかった。もしかしたら、彼が私の思いに勘付いてくれていることすらも、私は予期していたのかもしれなかった。いや、それは願いだったのかもしれない。彼に見ていてほしい、私の変化に気付くくらいに、そうして気にかけてほしい、この先もこうして添っていてほしい。そういう願いを、私は彼との間の情に掛けていたのではなかったか。
 私は、自分で発した言葉によってそれらに気付いて、もうどうとも形容できぬくらいに嬉しくなった。今までのことは、ああ、間違いではなかったのだ。幻などでもなかったのだ。私にとって彼は、やはり、特別な朋であったのだ。自分の道の為に僅かにも後ろ髪引かれることなく別れてしまえる存在などではなく。この煩悩とも呼べる情を絡め合ってまさにそれこそを肯定し合えるような。二人紡ぎ上げてきた縁は、確かに、こういうもので間違いはなかったのだ。私にとってお前こそは、特別な。愛しい。恋しい。唯一の。
 お前がいてくれたら、心強い。
 精一杯の想いを一言に籠めて、そう告げた。
 お前が隣にいてくれたなら、私はもう本当にどんな困難であっても正面から打ち破ってゆける気がしていた。お前が隣にいてくれたなら、これからも、自分自身の弱さをもっとちゃんと見詰めてやれるような気がした。愚直なほど真っ直ぐで、諦めが悪くて、思ったことがすぐ口に出るくせに、とてつもなく優しいお前と。共に歩んで来れたことが、今までの私にとって、どんなに。どんなに。
 それを、お前に伝えたかった。

「――いや。俺はここに残る」

 はっきりと目を見て、答えを渡された。

 ここの生活が気に入っているから……そんな声がどこか遠く聞こえていた。
 迷いの無い目を見ていられなくて、俯いた。彼は、私のように情に縋ってはくれなかった。
 私はお前に買い被られているのかな。お前が信じてくれるほど、私はもう〝強く〟はない。今の私は、以前の私の〝強さ〟よりも、今の私の〝弱さ〟の方を気に入っているのだけれど。こんな視方を教えてくれたお前の方は、それを分かってはくれないのかな。
 それとも、分かっていて、こんなふうに突き放すのだろうか。そうしてやっても、私ならば、弱さを持ったままにも、強く歩めるだろうと? だとしたら、それこそ買い被りだ。
 私は強くない。お前との愈々の別れを突き付けられて、もうこんなにも傷付いた。
 ……私が彼に渡そうとしていたのは、こんな痛みだったのか……。
 いや。彼は、こんなふうに傷付く筈はない。だって、今、こんなにも私のことを迷いなく突き放すのだから。
 突き放すほど強く、私の背を押す。
 私の道を開けるように、三歩、私から離れてゆく。
 泣けない。
 私にとって、お前は。たとえ己の行くべき道の為であっても、別れるのがこんなに苦しくて、つらくて、淋しくて、不安で、息ができなくなりそうに、今、立っているこの身がまるで自分のものではないみたいに、ただ稚拙に土を踏み締める足の感覚がぐらぐらと頼りなくなるのに。
 お前にとって、私は。
 私は……

「……じゃあな」
「……ああ」

 ――泣けない。
 泣くわけにはいかない。
 お前にとっての私が、〝強き朋輩〟であるのならば。私が心を預けたお前が、信じていてくれたのが、他ならぬそんな私の姿であったのならば。
 そう、あらねば。
 せめて、まだお前の目に映っているこの間だけは。お前が信じてくれた私のように在ろう。お前が認めてくれた姿の私でいよう。私が隣にいたいと強く想った、お前の隣に在るに相応しい私のまま、お前のその目に、映していてほしい。
 最後まで。

 ――。

 ふと、違和感を覚えた。それは小さな。
 私はそれを捉えようと本能のように目を瞠った。
 見詰め合う翠緑の中。ただただ強く実直なばかりだと思っていたその瞳の奥底から。何か……何か、激流が。
 最初僅かな萌しだったそれは瞬く間に大きな奔流となって私の目に飛び込んだ。
 彼の纏う雷のような、見る者の畏怖を煽るほどの愚直な気。
 そんな物を手加減無しに、たった一人私に向けて迷いもなく投げ付けてくる。そんなの、こんな物は、――
 ――もはや呪いだ!
 何のことはない、朴訥な貌の下で相変わらず苛烈だった激情を問答無用で心奥へ叩き付けられ、私は己の内から溢れ出る弱さに壊されるように破顔してしまって。
 帝釈天はみっともないほど照れ臭そうに、不恰好に、拗ねたような作り笑いをしてみせた。

 進んでいればいつか交わる。
 ――なんて、穏やかな境地に達する気すら端から無かったようなお前は。
 甘えたで愚直で気が触れそうなほどに優しくて、考えていることがすぐ顔に出る。
 私の信じたままの、ばかだな。

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