弱い姿を見られるのが怖くて、不甲斐ないことを気取られるのが怖くて、だからきっと体調の優れない時にはそうでない時以上に気を張っている。そうしてますます消耗する。悪循環に陥ることはもはや自分の意志ではどうにもし難くて、私は寺の裏庭の茂みの陰で蹲って顔を伏せていた。
「──誰だ」
きっと気を張っていた。だから気付いた。
しかし、僅かに揺れた気配が愈々はっきりと私の前に姿を見せたとき、驚いたのは見付かった彼だけではない。見付けた私自身も驚いた。一瞬、本当に一瞬だけ、彼が誰だったか、記憶を探った。
「……金剛夜叉。こんな所に何の用だ。情けない私を嗤いにでも来たのか」
「……! ノーウェイ……」
口許は黒いマスクに隠れている。長い前髪の奥で、涼しげな目が大きく瞠いた。
「……これを」
「……何だそれは」
「見てのとおり、ジャパニーズグリーンティーだ……疲れているようだったから」
「……私に? ……だとしても、気配を消して後をつけて来る奴があるか」
眉を顰めずにはいられない。こんな姿を見られたこと自体に相当腹が立っているのだ。
金剛夜叉の手には、確かに小さな盆と、その上には律儀に茶托を敷いた湯飲みが、乗せられていた。
「オレの存在には気付かせずに、ティーだけ置いて来れば……お前に気を遣わせることもないだろうと思った」
「……いきなり土の上に出現した湯飲みになんて、怪しくて口を付ける気にもならんだろう」
「……!? オーノー……それにはハヴントノーティス……ソーリー……梵天……」
「……い、いや……気にしていない」
この男とこんなにきちんと、しかも仕事以外のことでこんなにしっかりと、話をできたのは初めてのような気がした。顔の大半は隠れている筈なのに、彼の目許は案外よく動いて、表情をそれなりに豊かに語った。静かで低い声は掴み所がないものの、語る中身は存外愛嬌があるのだということを知った。
「……ヒアユーアー……」
音もなく歩み寄って来て、金剛夜叉の手はそっと、土の上へ盆ごと茶を置いて寄越した。その際すっと屈み込んだことで、彼の気配が一気に近くなる。目線の高さが同じになる。その視線は彼自身の手許へ向けられていて交わることはなかったけれど──いや、だからこそ、私の方は彼の瞳を盗み見ていることができた。
恐ろしいほどに澄みきった黄色い、夜叉の瞳だった。
「……ありがとう。……頂く」
「マイプレジャー……。シュア……」
ぺたりと腰を下ろして湯飲みを持ち上げた私は、もう腹を立てている気も失せるほど、開き直っていた。
「……梵天は……皆に見えないところでベリーハードにワーキング……根を詰めずにリフレッシュがマスト……」
茶だけ寄越して消えるのかと思っていたが、私が彼に気付いてしまった時点で当初の筋書きは変更されたものらしい。金剛夜叉はそのまま私の隣へ膝を抱えてちんまりと座り込んだ。裏庭の影に溶け入るような姿が、声が、そんなことを言って寄越すので、私は腹こそ立たないものの非常に面倒に思った。
「……隠密が専門のお前に言われてもな」
「ノー、オレだからこそ、だ。オレは、ブラザー大日に認められた裏方のプロフェッショナル……だからこそ……誰かの〝影の努力〟にオレは気付いて、労わりたいと……思う」
「……」
「……難陀龍王も、よくお前のことを気にしている」
思いがけない名前が飛び出して、私はじっと飲みかけの水面へ貼り付けていた視線を跳ね上げた。
「……これは、言おうか迷ったが……ウェル……せっかくこんなふうに話せるチャンス……やはり伝えておこう……。彼は、お前の能力や人柄を高く評価しているが故に、自分もできるだけその助けをしたいと考えているようだ。……もっとも彼は、オレとはまた違った理由で、表には姿を見せずに力を貸していることが多いようだが」
「……まさか……」
唐突な、その上突拍子もない話に、私は言葉を失った。
難陀は確かにプライドが高い……もし誰かの力を認めていたとしても、それを相手自身に伝えるということは決してしないだろう。しかし、それにしても。
私自身は勿論、お釈迦様のために、お釈迦様の教えの道のため即ち衆生のために、どんな労をも惜しんではいないつもりだ。けれども、他でもない、その高いプライドに見合うだけの実力を持ち使い熟している、私とは遠く見据えるものは同じながら明らかに立つ道をは違えているような存在である、難陀から──そんな評価を貰えるほどの存在であれている、自信などは、なかった。
「梵天も、難陀も……そんなユアセルフを人に見せたがらない……バット……お前たちがお互いにそれをアンダースタンしているのなら……メイビーノープロブレム。……オレは、そう思った」
私は、夜叉の瞳を見詰めた。涼しげな黄色い光がちかりと瞬いて、小首を傾げるような角度で、隣に座る私を見た。
「……。エニウェイ……久しぶりに、こんなに長く誰かとチャッティング……」
「……私は殆どお前の話を聞かされていただけだがな」
「ウップス……! ……だが、オレにとってはリアリープレザントタイム。……サンキュー、梵天」
ふっと、手の中が軽くなった。
見ると、飲み干したまま抱えていた筈の湯飲みが忽然と消えていた。慌てて隣に視線を遣るも、盆も茶托も同じように消えている。
「──次は、お前の話を聞かせてくれ。今日のところはテイクアレスト……ゲットウェル……」
耳許でぽそりと低い声が聞こえて、辺りはまた静かになった。
そろりと視線を上げると、やはり、金剛夜叉の姿は無かった。
「……返事くらい聞いて行け」
独り言ちて、私はそっと目を閉じた。
「次……か。……上手く気付けると、いいのだが……」
目を開け、徐に立ち上がる。少し立ち眩みがする。歩けないほどではない。じっと立ち、引くのを待つ。呼吸をする……息を吐く毎に、温かい緑茶の香りがゆるりと胃の腑を巡っていく。
少し、風が吹いた気がする。柔らかい、涼しげな風。それに足許を守られ背中を押されるような心地で、私は独り、ゆっくりと歩き出す。
インザシェイド、ウィズザシャドウ
