「う……──」
ぐらりと。
何の兆候も予感も無かった、わけではない。けれども、もう少し、あとほんの僅かだから。平穏な寺の中を歩くのくらいは何ともないと思っていた。いや、これしきは耐えられねば、ならなかったのに。
「──おい……、大丈夫か?」
俺は廊下を歩いていた筈で、しかし唐突に意識がぐらりと歪んだ気がしてからはまるで前後不覚に陥った。時間の感覚も心許ない。非常に長いことそうしていた気もするし、一瞬間気を失っただけかもしれなかった。視覚という感覚が、五感の範疇を飛び越える。俺の千里眼は、固より普遍的な人の視覚をは超越した能力を備えていたけれど、そんな己にとっての恒常的な感覚をも飛び越えて、莫大な〝視覚〟は今や俺の身体を、精神を、怒涛の如く圧し潰さんとしていた。
「おい、……広目天……!」
──聴覚。
これは、聴覚だ。
瞼を(恐らくは)閉じたまま、俺は極彩色の墨がのたうち回るような意識の中で、視覚以外の五感の一つを漸う思い出した。
声。そう、声が聞こえている。
「……私が分かるか──いや、いい。……帝釈天から聞いたことがある。また、千里眼の力が暴走しているのではないか? だったら、目は開けなくていい。閉じていろ、そのままでいい」
「っ……、……、……ぼ、んてん、か」
「……ああ」
どうにか、喉を震わせる。まさに振り絞るといった具合に、辛うじて声は発されたようだった。どろりぐにゃぐにゃと不規則な渦を巻く視覚の間を縫って、その振動は這い出てゆく。そう、梵天、だ、俺の目の前で先程からずっと声を掛けてくれている彼は──一呼吸、置いて、その柔らかで不器用そうな声は俺の呼び掛けを肯定した。
「──……薬師様を、お呼びして来る」
「っいや……」
硬く静かな声を、飛びつくように制する。俺は咄嗟に、恐らく左手を持ち上げてジェスチャーを加えたのだが、そういった筋肉の稼働する感覚すらも、過剰な視覚に溶けてあやふやにしか自覚されなかった。
「……、……休、め、ば、……おち、つ、……くん……だ……」
舌が引き攣っているのか喉が枯れているのか、言葉は一向に滑らかに紡がれない。
「……そうか」梵天の答えを、意識の狭間からゆっくりと捻って取り出すように聞く。その声を咀嚼し脳髄へ嚥下するのとまるで前後して、俺は左肩の辺りへ触感を得た。触感だ、と徐に理解するうち、今度は、その力が俺の身体を上方へ引き上げようと働きかけていることに気付いた。
やや混乱してから、ああなるほど、俺は今、多分地面へへたり込んでいるのだと思い当たる。きっと肩を貸してくれているのは梵天で、俺を立ち上がらせようとしているのだ。
「──ここへ置いていくわけには、いかないからな、…………立てる、か? …………部屋まで、送る…………ゆっくり、休め」
ぐらりぐらりと揺れる意識の中に、梵天の言葉がどうやら途切れ途切れに飛び込んでくる。これは一体、何分、何秒前に発せられた言葉なのだろう。彼は声を掛けずに人の身体に触れることはしないような気がしたから、俺は彼の言葉をかなりの時間差で受け取ってしまっているのかも知れない。
身体を起こす物理的な振動が加わっている所為なのか、ぐるりと一層大袈裟な角度で視界が回る。思わず肩を支えている相手に縋り付きたくなって、しかし腕の感覚がまたも覚束ない。頭痛、とはまた違う気持ちの悪いあの感覚が、何年か振りに俺の肉を、あろうことか左側から、梵天と触れている筈の左肩から、ぞわぞわと蝕む。俺は分からなくなる。梵天が何も喋っていないのか、はたまた俺がまたしても聴覚を忘れてしまったのか、何も聞こえなくなる。聴覚も触覚も今や失した。俺にあるのは極彩色の、或いは真っ黒の、若しくは一面の砂のような灰色の、ぞわぞわとした視覚。
視覚。
視覚──
──。
不意に、俺の視界の端に光が差した。
さあ、と、まるで音を立てるように晴れてゆく。清浄な薄布をさあっと広げるように、俺の疎ましいばかりの視覚の中に、たしかに、心地のよい光が。
「どうかしたのか、梵天──広目天?」
ああ。
光が、たしかに音を、その声を連れてきた。
俺の意識は三度、聞くことを思い出した。そして記憶の中から、熱という感覚をも呼び起こした。それを手掛かりに、するすると手繰り寄せるように、隣で支えてくれる彼と触れ合っている肌の感覚も戻ってくる。
視界の中の光が熱を持つ。近付いて来るのが、分かった。
「……多、聞」
「──広目天」
光、の──彼の、名を呟いた俺に、彼の声は俺の名を呼び返すことで答えてくれた。
「……千里眼を酷使して倒れていた。通りがかったので、部屋まで連れて行って休ませようかと」
「そうだったか……」
梵天の端的な説明に、多聞の声が静かに応じる。俺の視界でのたくっていたおぞましい墨色は、燻るように脈打ちつつも先程までに比べれば随分と大人しくなってきていた。
「……よかった。多聞天、彼を連れて行ってやってくれ」
梵天が多聞に俺の介助を託そうとする言葉も、今は大分滑らかに拾えている筈だ。俺はそれを自覚し、少し安堵して、震える息を細く吐いた。
──その直後、だった。
「──私などに支えられるより、多聞天が連れて行ってくれた方がいいだろう」
梵天の、何気無さそうな口調が脳髄に響いた。
「……! っ、……!」
俺は咄嗟に目を見開いた。しかしその瞬間、当然雪崩れ込んでくる途方も無い視覚に一挙に打ちのめされ、声にならない呻きが漏れる。
動転し、竦んでしまった俺の腕の代わりに、ぱっと何かが視界を塞いだ。暴れる千里眼にはそれこそ気休めでしかないのだが、それにしてもたしかに、俺の心は、与えられたほんの微かな闇に安寧を見出した。
上がった呼吸を意識して鎮める何秒間かのうちに、俺の目を覆う何かがそっと、俺の瞼を下ろす。少しぎこちないその温もりは、多聞の手ではない。
「……すまない。勝手に、触れて」
「いや……あり、がとう。梵天」
含みの無い礼を口にすれば、梵天の手はそろりと離れて、俺のサングラスを慎重に掛け直してくれた。
「た、だ……〝お前など〟、と……俺、が、思うと、考えて、いるのなら……それ、は……それは、ちがう」
目を閉じたまま。俺は掠れる声を絞り上げて、不器用なその人に向けて必死に綴った。
「ありがとう、……梵天……」
「…………ああ」
小さく、それでも頷く声が、聞こえた。
「──広目天は俺が部屋へ連れて行こう。その代わりに、梵天。一つ頼まれてくれるか」
「……? なんだ」
やにわに、足許からがさがさと音がする。「──これを」と多聞の声がややあって続いたことで、彼が今、俺が倒れた際に落としていたのであろう物を拾い集めたのだと理解した。
「帝釈天から、纏めるように命じられていた書類だ。完成したから提出しに行く最中だったのだろう、広目天」
案の定だった多聞の推察に俺が頷けば、梵天が僅かに息を詰めたような気配がした。
「……奴に届けておけばよいのだな」
「ああ。頼む」
「……分かった」
やや拗ねたように聞こえはするが、その実、梵天は気分を害したというわけではないだろう。多聞の言わんとすること、ひいては俺の伝えたいことを、たしかに受け取ってくれたのに違いない。不器用なところがあるが、彼は細やかで優しいことを、俺は見て知っている。細やか、というところは彼特有の性質かも知れないが、後半の特性については、我が主と通じるものでもあった。
俺を助けること、の一端を請け負ってくれた彼に礼を言って、多聞は書類と引き換えに託された俺の肩へ腕を回した。
「──では行くか、広目天」
「ああ……頼む、多聞」
肌に添う熱へそっと縋る。その触覚を手掛かりに、地を踏む感覚を思い起こすように、ゆっくりと、俺は足を踏み出す。