帝梵

たぶん夜空とミルクの温度

「……寝れん」
 梵天は一人呟いて、ぱたりと布団を跳ね上げた。そのまま暫し黙考する。
 草木も眠る時分。恐らくそれくらいの時が経ってしまっただろうと思われる。暗闇にはとっくに目が慣れていて、自室の窓から薄ぼんやりと射す外界の光も、寺の廊下に続いている引き戸越しの音も、そのどれもが、今の自分に近しい存在が等しく寝静まっていることを示していた。
 なんとなく淋しい。
 そんな言葉がふっと胸中に湧いて、梵天は己のことながら目を瞠った。空気ががらんどうで寂しい、のではなく、自分一人なようで淋しい、のである。光景を表す客観の詞ではなく、感情を表す主観の詞。そんな言葉を、この自分が己のものとして自分で用いたことに、自分で驚いた。
 これまでの自分にはとんと馴染みのない言葉ではあったが、口にしてみれば不思議と、もう何百年もこの感情と共に自分の存在は在ったかのように、しっくりくるような感じが、全身にじんわりと染み渡る。
「……」
 小さな驚き、新鮮な感情を、梵天は即座に引き受けることにした。
 とはいえ自覚したところで持て余すその感情を慰められる当てもなく、誤魔化せるような知識も体力もなく、ただ明確な理由もなしに寝付けない漠然とした焦燥感、消耗を回復できない相応の疲労感に唆されて、梵天はふらりと起き上がると当てがわれた寝室を後にした。

 とくり、と鼓動が跳ねた。
 足が止まる。
 完全に寝静まったとばかり思っていた寺の中、そうではない人影を見付けた。
 一人縁側に腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げている。その背中を認めた瞬間、いの一番に感じたのは嬉しさで、そのことに梵天は大いに戸惑った。
 誰かいる、と気付いたとき、覚えたのは確かに後ろめたいような緊張感であったのに、その人影が――彼だ、と分かった途端、身体が芯から解れるような、それでいて胸が苦しいほどに急くような、おかしな感覚に見舞われたのだ。
 近付きたいような、けれども彼がこちらを見るのが怖いような、随分妙な気持ちだった。
 廊下の中途半端なところへ佇んだまま、考えあぐねていると、視線の先のその横顔が振り向いた。
「――梵天?」
「……」
 戸惑ったように呼ぶ声へ、咄嗟に答えることができない。いつもの無表情を取り繕って、こうなっては仕方なく……仕方なく、ということにして、梵天は内心、大分いそいそと、彼の傍へ寄っていった。
「何してるんだ、こんな時間に」
「それは、……お前の方こそ」
「私は、読書をしていたら変に目が冴えてしまってな。眠れなくなった」
「……そうか」
 適当に嘘を言うと、帝釈天は茫漠と頷いて、また庭の方へ視線を転じた。梵天もちらりとそれに倣う。薄碧くざらついた粒子が草木の表面に万遍なく停滞する夜の色。代わり映えのしない景色から目線を上げ、空へ移す。月見に適しているとは思えない、朧な囓りかけの月がぽつんと浮かんでいた。
「……」
 隣に座りたい。けれど、そうしていいものかとても迷う。帝釈天の横顔を見るともなしに見ると、彼は気付いたように、そして寧ろ不思議そうにこちらを見上げてきた。……拒絶されてはいないようだった。梵天は彼の左隣に座った。肘が触れそうな距離。近すぎただろうか。けれど彼は何も言わなかった。梵天が横顔を見詰めていても、もうこちらを振り向くこともしなかった。
「……何か、話すことがあるのなら聞くぞ」
「……ん?」
「思い詰めたような顔をして。悩んでいることでもあるんだろう」
 梵天は彼の横顔をじっと見詰めたまま、そう切り出してみた。やや憂いを帯びたようだったまなざしが軽く見開いて、こちらに向けられる。彼と話をできるのなら、話題は何でもいいような気もしていた。けれど、彼の佇まいからその内側にある憂いを感じ取ったこと、そしてそれを自分が晴らしたいと思ったことは、決して偽りではなかった。
「……聞かせるような話では、ない、と思う」
「そんなことはないさ。私は、お前が私に話そうとしてくれることなら、何でも聞きたい」
「……どうして」
 何かを抑え付けるように伏せられていた瞼が、ふっと大きく瞠られる。きらきらした静かな瞳と正面から対峙して、けれども見詰め合ったまま話せるようなことでもないので、梵天は自然に目線を流した。
「もっと知りたいんだ、お前のこと」
「……俺、の……?」
 ぶらぶらと遊ばせている自分の爪先を眺めながら、梵天は頷く。「分かった気になっていると、そのうちまた思い違いをして、いろいろなことを履き違えて、きっと擦れ違ってしまうからな」自分の蒼白い足先が、砂のような夜闇を音もなく蹴り上げる。水遊びのような手応えも得られず、ただふらふらと空を裂いては退く。
「……話せるようになったら、――お前に渡せるような言葉にできる日が来たら、いずれ話す。……それより裸足じゃ寒くないか」
 つれない返事を右耳で聞いていると、不意に視界の隅へにょっきりと腕が生えた。
 帝釈天の左手はそのまま何の断りもなく梵天の足首を掴む。硬いけれど荒れてはいない、無骨だけれど横柄ではない手のひらが、ただただ素朴な所作で、ふらふらしていた右足を捕まえた。「お前だって裸足だろう!」梵天は流石に驚いて声を上げた。
「梵天は肌が白いから。……冷たそうに見えた」
「そんなことで……。見た目ほど冷えてはいないんだぞ」
 素朴な言い分に呆れつつ返すも、背を屈めたまま足の甲をそっと擦ってくる帝釈天の手の方が、確かになんだか自分の足よりも温かいような気がしてくる。「……足の温度なら足同士で比べないと不公平だろ」と、彼の袖をくいくい引っ張りながら、自分は足先を伸ばして、その踝を突っついた。
「別に競いたいわけではないが」
 帝釈天が困ったような声で言う。そんな声色を聞くのも、なぜだかとても楽しくて、梵天はさらに自分の足を彼の足へ擦り寄せた。踵。足の甲。土踏まず。親指、爪先。丁寧になぞる。どうにも釈然としない。「……が、やはりお前の方が少し体温が低いようだな」帝釈天の柔らかい声に、それはもう釈然としない。
「……手! 手で勝負だ」
 むむむ、と梵天の中の負けず嫌いが顔を出す。だから別に勝負はしていない……と応えつつも、帝釈天は梵天が求めるままに左手を寄越してきた。
 ぎゅっと無雑作に握り込むと、ああ、やっぱりなんだかちょっとばかり、いや結構、とても、温かいのではないか、これは。
 梵天は愕然とした。負けた、と、してもいない勝負の結果を察して憮然とした。途端、すっと冷静になる。冷静になると――別の情報が、勝敗に拘う過程では疎外されていた情報が、醒めた脳内へ俄かに流れ込んでくる。
(――帝釈天の、手、なのだ。これは)
 梵天は改めてまじまじと、今、自分の手の中にあるこの存在、を認識した。
 ……そういえば、手を繋ぐ、とか、手を握る、とか、どうやればいいのだろう。こんなに無雑作に手を取ってしまったけれど、ひょっとしたらこのやり方は、とても親しいひと、とても慕わしいひとにするには、無礼なものであったりするのじゃなかろうか。或いは、不相応に野暮なものであったりだとか。別に好意を伝えたくてとった行動ではないにせよ、自分の内に確かに在りはする好意が、もしも真反対にひっくり返って伝わるような仕草になってしまっているのだとしたら、これは自分と帝釈天にとっては大問題だ。
 大好きな友人の手を握るということ。距離に相応の振舞いをすること。一人で頭を捻ったところでその正しい方法など転がり出てくる筈もないので、梵天は取り敢えず、当てずっ砲な加減で引っ掴んでいた手の力を少し緩めてみた。
 するとどうだろう。緩めた側からまるでその隙を縫うかのように、帝釈天の方からこちらへするすると擦り寄ってきたのだ。梵天は驚いた。落としたまま身動ぎできない視線の先で、帝釈天の無骨な指が、ゆっくりと、梵天のそれに絡む。一本ずつ、帝釈天のと、梵天のと、交互になるように、指の間へ指を入れて、そして、ぎゅっと。
 全然、慣れているといったふうではなかった。
 それは、或いは彼の手先がただただ不器用な所為で、そう思われただけなのかも知れないけれども。それでもただともかく、あまりに辿々しく、ぎこちなく、そんな動きで帝釈天の手は梵天の指を絡め捕らえて、それから、ぎゅっと握り込んだのだ。手を、繋いでいる。そんなふうに、梵天の目にも確かに見えるほど、なんだかしっかりとしたひとつの形となって、二人の手はそこに現れ直していた。
「……」
 梵天は恐る恐る、己の指にもう一度、力を籠めてみる。一本ずつ、ぜんぶ、指の腹が、帝釈天の肌に触れる。硬い関節の間に触れる。骨を、腱を、小さくなぞってみる。擽ったそうに身動いで、帝釈天の親指が仕返しのように梵天の指の股や爪の先を何度も撫でてきた。温かい。固いけど、柔らかい。とてもやわらかい。ああ、すごく好きだ、大好きだという思いで、不意に胸がいっぱいになってしまった。
 ことんと、彼の肩に頭を預ける。帝釈天の身体はびっくりしたように跳ねて、息を呑んだ音が頭上から聞こえた。「……やっぱり、お前の方が温かいみたいだな。少し暖を取らせろ」あながち言い訳でもない口上を放てば、掠れた声が短く許容を示した。寒さなどは本当に今まで感じてはいなかったが、自分の体温よりも温かいものに直に触れると、その存外な心地よさに、実はこの身体は結構冷えていたのじゃないかと思えてくるから不思議だ。知らぬが仏ともいえるし、気付けたからこそ感じられる幸福でもある。……そうか、幸せか。これが、うん、そう、確かに、〝幸せ〟という感覚だろう。
「……なあ、梵天。聞いてくれるか」
「うん……?」
 梵天は心地よさに閉じていた目を開いた。勿論、帝釈天が自分に語ってくれることならば本当にどんなことでも聞きたいのだ。顔を上げようとすると、「そのままでいい」とやわらかく制される。少し惑ったような声だった。その所以は分からずとも、せめて彼の弱さに寄り添うように、梵天はゆるりと姿勢を戻した。ほわほわと半身に温もりが戻る。
「俺は……梵天、お前と、ただ一緒に時を過ごしたい。――さっき言いたかったことだ。その願いは、今、こうして叶ってしまったから、もう言ってしまおうと思う」
 帝釈天の声が降る。緑の葉から滴り落ちる、穏やかな雨雫のように降る。
 訥々とした声は、凪いだようでいて、しかしよく聞くと、いつも少し優しい。今は僅かに震えていて、梵天は繋いだ手を握り直しながら、そろりと帝釈天の顔を見上げた。
「お前と、丁度こんなふうに、何をするというわけでもなくただ過ごしていたかった。ふとそんなふうに思ってしまうと、どうにも眠れなくなって」
「そう……だったのか」
 梵天は視線を落としながら、ぱちぱちと瞬いた。とても、何というか身に余る言葉を貰ってしまった気がする。それに、『言いたかった』、らしい。言いたくないから口を閉ざしていたわけではなかった、それではなぜ言わなかったのか、そこに見える彼の誠実さにちょっとにやけてしまう。
「……つまり、寂しかったのか?」
「さびしい……」
 梵天が問うと、帝釈天は口の中で繰り返して少し首を傾げた。「……というよりも、」翡翠の瞳が真っ直ぐに梵天を見る。
「――多分、梵天が恋しかった」
 あ……と、曖昧な声が抜けて、梵天は暫し、平静な呼吸もままならないほど固まってしまった。帝釈天の目は相変わらず愚直なまでにこちらをまなざしていて、このまままばたきをするのにも負けたような心地になりそうだった。
(――こい、しい。……そうか。こいしい……恋しい。うん。そうだったのか)
 梵天は一人、胸中で言葉の咀嚼を繰り返す。何度も何度も。考えてたしかめる。ゆっくりと。待っている帝釈天の目を、やがて同じくらい真っ直ぐに捉え返すと、梵天は一つずつ、自分で形に拵え直した言葉を、取り出した。
「私は、淋しいんだと思っていた。自分のこの感情を。でも、お前が今してくれた話を聞いていると、どうもお前の心情と、私が感じたこととは、酷く似通っているようだ。
 ……そこでもう一度考えた。すると確かに、この感情は、お前の言うように『恋しい』と表すのが最も的を射ているように思われる。漠然と一人でいることが耐え難かったのではない、お前の隣に行きたくて仕方がないという感情だったんだ、これは。
 だから……『恋しい』。私は、お前が恋しい。帝釈天」
 今分かったよ、と呟いて、梵天は噛み締めるように翠の瞳を見詰め続けた。
 彼なりの驚きに瞠られていた目許が、徐々に優しく綻ぶ。それを見届けて、梵天はぽすっと、改めて彼の肩に身を凭れた。
「……温かいな」
「温かいのは、お前の方だろ」
「けど俺は、梵天の体温が好きだ」
「……うん」
 足首を引っ掛け合うように肌を擦り合わせて、指を絡めてぎゅっと手を繋いでいて、肩に凭れ合い頭を預け合って、そうっと寄り添っている。ああ、あたたかい。やわらかい。きゅう、と胸の奥深くが、まるで締め上げられたかのように痛んだ。隣にいる彼の見えない手に、多分この心が掴まれているからなのだと、梵天は思って、嬉しくて、小さく笑った。

 

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