キセカト

小さい折り紙の話

 三人で寝室を共有している。
 任務を拝命したらしいケインさんは、今夜、泊まり掛けで不在だった。
 僕も今日は作戦に出ていて、やっと今、落ち着いたところ。シャワー室から宿舎へ歩を進める。ふらふらと夜風に当たる。初夏。その筈、だけど……やっぱりこの世界は、少し涼しいんだと思う。ぴとりと頬に張りついた髪の毛から雫が伝って、その温度を感じるが早いか、くしゅんとくしゃみをしていた。
 宿舎の中は、流石に少し暖かい気がする。昼の間に蓄えられた気温もあるだろう。だけど……ここに棲んでるみんなの息遣い、体温、が、この空気を支えているんじゃないかって……そんな気が、するんだ。
 髪に残った湿気が、じんわりと熱を思い出していくのを感じていると、鎖骨の辺りが少しくすぐったくなってくる。
 廊下をてくてく、歩いてゆく。誰ともすれ違わない。混み合ったシャワー室を避けて、先に食事を摂っていたら、なんだかんだで結構な時刻になってしまったんだ……と思う。ちゃんと時計を見ていないから、分からないけど。明日は久しぶりに貰ったお休みだから、あんまり気にしなくていいやと思っていた。
 ――僕らの部屋。“Bizarre”、って書かれたドアプレートは、たしかに僕らのことだ、と思う。それぞれの銃についてだけでなく。僕らの縁も、僕らの関係も、ひょっとしたら会話も、触れ合いかたも、なんだかすごく、変なモノだ。
 指にしっとり吸いつく、ドアノプを引く。もう完全に肩の力も、お腹の力も抜けている。帰ってきたなあ、って、こんなにやわらかく感じるのが当たり前になる日が来るなんて、想像もしなかった。
「……あれ?」
 薄暗がりに微かに響いたのは、果たして、僕自身の声だ。
 今夜、たったひとりこの寝室にいる筈の、僕のルームメイトは……どうやら眠っていた。
 部屋の中にひとつだけ置いてある、小さな旧い机。机上灯は点いたままの、その上へ、こてんと突っ伏して。
「……」
 小さな机の上へ変な角度で背中を丸めて、短くない腕もせせこましく畳んでいるものだから、すごく、身体がつらそうだ。端から眠ろうとしていたひとが腰を掛ける場所ではないし、何か読んででもいたのだろうか。
 ……ひょっとしたら、僕を待っててくれたのかもしれない、なんて甘い考えが頭を過った、のは、帰る場所がこんなにもやわらかいので、気がゆるんだ所為だ。期待を絞めて殺す。たしかにこのひとは、いつもそんなふうに優しい、けど。それを端から期待するのは、僕の身勝手以外の何物でもない。
「……、……」
 そっと、丸まって骨の浮いた背中へ近づくと、やっぱりそこは深く上下していて、静かな寝息も聞き取れた。
 ほんとは、少し気が引ける。だけどもちろん、このまま放っておくほうが、優しくない。彼を起こそうとして、もう一歩、寄ったとき、僕の目は初めて、机の上の風景を認めた。
 すうっと気が奪われる。
 ――フラワーベッド。そう感じた。
 このあいだ彼に、〝千代紙〟っていうんだと教えてもらった、きれいな紙。それが、天板のがたついた木目が見えないくらいいっぱいに、たくさん、たくさん広げられていた。
 ……また、折ってたんだ。
 キセルは、折り紙が得意。偶にここでちまちまと折っているのを、ケインさんと一緒に見せてもらったり、折り上がったものを捨ててしまうと言うから、ふたりで半ば強引に引き取ったりしているのだけど。
 こんなに上等そうな紙で折っているのは、今まで見たことがなかった。千代紙なんてそもそも、この辺りのお店で行き当たりばったりに見つけられるものではないし、何よりキセル自身が、じぶんはそんなに上手くないからと言って、あんまり凝った紙を使うのを勿体ながるのだった。
 だから、その、千代紙が。彼が先まで、慕わしそうに見つめていただけだったものが。ここに、彼の手許に広げられているという事実に、僕は……僕は、唾を飲み込んでいた。
 好きだった。
 上手くないなんて、そんなことはなかった。僕は折り紙を知らなかったけど、それでも、キセルの作ったものはどれもきれいだったし、愛らしかったし、これが上手くないのなら、折り紙には上手さなんて要らないのだろうと思った。彼が、何かを好きだと言っている姿が好きだった。根暗な彼が、小さな紙切れと丁寧に向き合っている姿が好きだった。……好き、だった。
 だから。だから、……だから、こんなに、落ち着いていた筈の鼓動が速くなってる。
 彼の背中を揺すろうとしていた手は、どこにもぶつからないようにそっと引っ込めた。半歩、横へずれて。雫が落ちたりしないよう、髪の房を慎重に後ろへ流してから、僕は机上を、まじまじと覗き込んだ。
 彼は今日、非番だった筈だ。以前、僕が彼本人から〝千代紙〟を教わった、あの店へ……足を運んできたのだろうか、ひとりで。
 厳かな、いや、痛いような気持ちを抱えながら、きれいな紙の模様を、ひとつひとつたしかめるみたいに、千代紙の水面へ視線を滑らせてゆく。折り目のない波間に、二筋とろりとした鈍色が光るのは、何事にも丁寧で繊細な彼には珍しく、開いたまま置き遣られた鋏の刃だ。
 そうして、その、傍に。彼の作業の成果らしきものが、ひとつだけ横たわっていた。
 ぐ、と、息を飲む。部屋を唯一照らす卓上ランプの明かりの中で、優しく眠っているようなそれは、……小さな、小さな、薔薇か何か……八重咲きの花、みたいだった。
 直視した瞬間、そのほかの一切が、目の前から消えてしまう。
 奥深くあるのに、それでいてどこまでも透き通るような青地。そこへ、銀や竜胆色やで、儚げな模様が浮かべられている。
 その、神経質そうな色……!
 胸が締め上げられるような、激しく突かれるような、甘い焦燥が僕の中を掻き回す。
 僕は花を、二本の指で、そうっ、と、摘み上げてしまっ、た。
 ランプの明かりから僅かに離れたために、やや彩度が落ち着いたものの、この手に取り上げた薔薇は、やっぱり、とんでもなくうつくしいものに見えた。
 ふと、気持ちの悪くない違和感を覚えて、花の裏側を覗き込む。そこでやっと、この萼からは、細い茎が伸びていたのだと気づいた。
 だけど、この茎は茎というには奇妙な形をしているということも、同時に分かった。それは両端を有さなかったのだ。
 つまりこの花は、花被の後ろへ、小さな輪っかをくっつけているのだった。輪っか……そう、ちょうど、人の手指にぴったり嵌りそうな大きさの。
 ……指輪。
 なのだろうか。
 輪っかの部分も、やっぱり、和紙で作られていた。折られているというよりは織られているといったほうがいいような、目の細かさで、その緻密な造りを形にしえた作業の繊細さを思うと、くらりと耳の奥が揺れる。
 ふらふら、誘われるように、導かれるように、僕は床へと膝をついていた。携えたままだった着替えやタオルなんか放り落として、自由になった片手を、傅くように、薔薇の根元へと添える。
 そうして両腕を天板の上へ突き出して、ランプの明かりへ、恭しい手つきでもって、指輪を、翳した。
 うつくしいのは色だけではなかった。丁寧で複雑な折り目には、迷った跡がない。それなのにこれを為したひとが、ほかでもないあの――この、今ここですよすよと眠っている、このひとなんだ、ということ! 一見ちぐはぐなパーツが、けれどもたしかに符合することに、それらが矛盾なく符合することを、僕自身が知りえているということに、どうしようもなく、ほの暗く、心臓が唄いだすように跳ねる。
 喉の奥がぎゅっと竦んで、息が上手くできなくなる。ばくばくと流れる全身の血に突き動かされるみたいに、僕は、震える手で、指輪の角度を変えて抓みなおす。
 そうして、……同じく震えているもう片方の手、その、指を、そうっと、そうっと……緻密で繊細な、輪っかの中へ、差し入れた。

「……きれい……」

 思わず、声にならない息が、漏れた。

「――っ、あ、」
「……え」
 焦ったような声が聞こえた。
 夢見心地で半分のぼせていた僕の脳みそは、けれどもその音へ、耳聡く噛りついた。まるで、極上の砂糖菓子へ、目の色を変えて飛びつく子どもみたいに。
 幽かだけど、優しい声。どんな表情を載せていたって、いつだってやわらかい。ふにゃふにゃって、融けてしまいそうな、大好きな。
 振り仰げば、縮こめていた背中をほんの少しだけ伸ばして、キセルが真っ黒い瞳を曝していた。
 やわらかい光が、寝起きのそこへ刺さるのか、しきりにぱしぱしと瞬いている。拙げなそんな仕草を見つめていられるのが、ほんとうに夢みたいで、部屋を同じにしてもらえてよかったって、いきなり叫びだしたいくらいに思った。
 オレンジ色の明かりが、その表面でちろちろと反射している。彼の滑らかな、飴玉みたいな黒目は、なんだか懸命な様子で、こちらを見つめていた。
 僕を。
 僕の、手許を――
「……あっ! ご、ごめん、勝手に、手に取ったりなんかして……!」
 漸く僕は気がついた。
 そのとき今更に、冷水のような空気が背骨をしとどに伝い下りてきて、胃の底までを、一気にざあっと凍らせたんだ。
 ――僕が勝手に夢を見ていたのは、これは、僕のものじゃない!
 こんな、繊細な作品を、完成させるや堪らず眠り込んでしまうほどの想いの塊を、黙って盗り上げて、彼の目にはきっと、僕がほんの戯れにこれを弄んでいるように映っている。何も見ずに、何も感じ取ろうとせずに、ただ自分にとって取るに足らないものである花壇を、気まぐれで無頓着に踏み荒らしたように。実際、僕はおんなじだ。傍目にはそれとおんなじだ。等しく、最低に不躾だ。君に惹かれていたって、君を歯牙にも掛けていなくたって、やったことは、おんなじなのだから。
 怒涛のように感覚が渦巻いて、それなのに、思考は、泡のように割れて喉許で消えていく。
 今更動かしえないこの光景の前では、どんな言葉も、空虚で……それでいて、彼を踏み躙るのに十分なだけの質量をは備えているっていう、最悪の言い訳にしかならなかった。
 けど、僕は……僕は。そうとしか思えなくても、いや、そうとしか思えないからこそ、何かを言わなくちゃいけなかったし、その何かっていうのは、ただ、僕にとっての真実であるしかなかった。
 みっともなく渇いた声ででも。ただ愚直に、僕にとっての真実を、述べるしかなかった。
 なけなしの誠実だった。ほんとうにくだらない。こんなの、霞んで、なかったことになる……。
「あんまり、きれい、だったから……つい、……ごめん。ほんとうに、ごめんなさい」
「えっ……? ……え、えと……」
 指から外すために改めて触れることすら、もう無礼以外の何物でもない気がして、僕は片腕を宙ぶらりんに机の中空へ投げ出したまま、審判が下るのを待っているしかなかった。なんだか視界が薄く煙っていて、今日っていう日の長さと、この夜は今日の朝とほんとうに接続しているんだろうかっていうことが、妙にうらうらと頭を過ってゆく。
 キセルは、困ったように、もしくは狼狽えたように、はくはく、曖昧な声を零した。
 やっぱり優しいなあって、僕は思っていた。それだけに、やっぱりやってはいけないことをやってしまったって、考える。こんなに優しい彼に、もし、許してもらえたとしても、一生惨めな気持ちを抱えていかなくちゃならないだけのような気がするのだ。
 ぼやけた景色の中で、彼の一挙手一投足、表情の機微、なんかは、スロウモーションみたいに、まるで甘ったるくはっきりと追いかけることができている。執着している、って、どうしようもなく自覚する。さっきまで薔薇へ釘付けになっていた視線を、こんどは彼自身へ張りつかせて、僕は何も懲りちゃいなかった。いっそ裂き殺してほしいとまで思う。それはもちろん、君のその歯で。
 幽かに吃音を漏らしながら惑っていた優しいひとは、やがて、何かが漸う腑に落ちたように、少し、顔を上げた。く、と息を吸い込む音が小さく聞こえて、耳を塞いでしまいたい気持ちにもなったけれど、それよりも、大好きな声をなんでもいいから聴き浸りたい、っていう貪欲さが頭を呑み込んだ。卑しいな。キセルの声を聴くために全身があって、肌がぜんぶ受信機になったみたいに、彼に触れられるのを焦がれている。
 茫然としている僕の、目の少し下あたりを見つめて、それから僕の、左手を――彼のものである薔薇を、そろりと見て。
 キセルは、ことんと、やわく首を傾いだ。
「……ううん……それはね、いいんだ。その、それ……君にあげたいと思って、作ったもの、だから」
「……え?」
 ……上手く理解ができない。ええと。先ず、〝それ〟って、なんだっけ? 何に対しての〝ううん〟だろう? ――僕はじぶんの中でじぶんの欲望と喧嘩することに必死すぎたから、ついさっき、じぶんが彼に対して、じぶんの口でどう弁明したかってことも、咄嗟に思い出せなかったんだ。情けなくって、けど今まで以上に必死になって、考えた。優しいキセルが、僕なんかの言葉に返事をくれたのだから。分からなくちゃ。ええと。ええと……。
「……ねえ、」
 甘い。こえが。
 もう、だめ。
 僕は、分からない。分からなくなってしまった。なにがなんだか。今、凍えてしまったと思っていたお腹が、どくどくと脈打っていて、なんだか、首から上が茹ったように熱くって、僕の腕は、また、震えて、膝から力が抜けたのか、いつのまにか床にへたり込んでいる。
 ああ、あの薔薇は無事だろうか。放り出したり、していない? 僕の目は彼の飴のような瞳から離れられなくって、けど、僕の指にしっくりと優しく吸いついているような触感を辿ることで、大丈夫、ちゃんとここにあるんだって、分かる。壊れてない。大丈夫。この、僕の盗んでしまった、彼の、薔薇は。ちゃんと。
 彼の……。
「カトラリーくん、」
 キセルは見るからにそわそわしている。
 僕らとも滅多に合わせようとしない視線が、脈絡なさげにうろうろしてる。僕はそれでもよかったのに、いつだってそれでもしあわせだったのに、なんでなんだろう、よりによって今、ふう、と、彼は僕の目を見た。
 だめ。
 キセルは、どうしようもなく滲み出るような、湿った熱を目許に湛えて、やわらかいそのまなざしで、ひたと僕に向かって。はちみつがとろけるみたいな、しゃくり上げたくなるくらいに甘くゆるんだ唇で、どこまでも優しくて、優しくて、やっぱり大好きな声で、小さく、小さく、囁いた。

「……貰って、くれる?」

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