「腑抜けた面を晒しているなよ」
厭そうに顔を顰められた。
いや、実際にはその表情は見えていない。シャスポーは俺のベッドに腰掛けて、俺を見下している。俺は部屋の机に溶けるように突っ伏して、シャスポーに見下されている。突っ伏しているし、ベッドを背にしているから、彼の表情なんて見えない。けれども、分かる。手に取るように分かる。すごく厭そうな顔をされている。
「よもやマスターの前でもそんな顔を晒しているんじゃないだろうな。みっともない」
俺から見えないのだからお前にだってこっちの顔なんか見えないだろうに。まあでも、分かるか。俺、溶けてるし。この状態の人もとい銃を見て、何もないと判じるほうが無神経かもしれない。
シャスポーが俺を足蹴にするのはもっともで、ここは俺の部屋なのではなくて俺たちの部屋なのだから、一人で静かに休みたい彼にはここで溶けている俺のことが当然目障りなのだった。たしかに俺は俺の都合で溶けているけれども、それを言うならお前が俺を厭がるのだってお前の都合だ。
放っておいてくれ。そう言いたかったのに、俺は愈々脳味噌まで溶けてしまったのか、普段しないような口答えをしてしまう。
「俺にも悩む暇をくれよ……」
机に染み込ませるみたいにぼそぼそと、声は落ちていく。一字一句に深い意味はなかったけれども、悩む隙が欲しいというのは、口にしてから反芻してみればその実かなり切実な思いではあった。
同じ部屋にいながら、伝える気があるのか本人にさえも分からなくなってしまった言葉を、けれどもシャスポーは執拗く聞き拾う。
「幾らでも、そうやって苛まれていればいい。それで貴銃士としての高貴さが磨かれるのならな」
そしてやはり容赦がない。彼の言葉は、棘があるというよりも、なんというか、痛い。俺はとっくに、こいつのこういった、石みたいな物言いには慣れてしまっているけれども、ローレンツなんかが未だにこの態度に恐々としているのは……その感覚が、実感として今、ちょっとだけ分かった気がした。
それにしても、
「……高貴……高貴か」
シャスポーから投げつけられたその単語は、妙な粘性で俺の思考に絡みついた。
高貴……。彼の声と、自分の中でごちゃごちゃ淀んでいる感覚と、単語の意味、いろんなやつの口から今までに聞いてきたその単語の解釈、を捏ねくってみる。机に上体を溶かしながら。俺は溶けかけた頭から、熱いような冷えたような気のする胸のほうへと思考の主体を移す。
熱い。
「……やっぱり、高貴じゃ、ねえかな。……こんなの。汚い感情かな」
ぽつんと、俺は答えを出す。
〝笑顔〟が見たかった。それだけの筈だった。けれども、それは字面だけ見ればこそ美しいようにも錯覚できるものの、その実、最初からどこまでも身勝手な欲望だった。性的なものだった。今でも俺は独り善がりだし、いつまでも〝彼〟の気持ちは分からない。分からない……分かろうとしていない、かもしれなかった、俺は。俺にとって見たくないものが、もしもそこにあったら、怖ろしいから。
こんな感情は。
〝愛〟やら、或いはもっと青く〝恋〟と飾ってみたところで、どう転んだって「高貴」なものだとは喩えられそうもなかった。甘い夢を見たかったし、甘くしたかったし、甘くなりたかったし、何よりそんな我儘で、こいつの言うとおり、マスターちゃんやレジスタンスのやつらやほかの貴銃士たちに今まで迷惑を掛けていなかったとも限らない。「腑抜けた面」を、俺は自分で気づかないうちに、誰かに晒していなかったろうか。ひょっとして、お前は俺にそれを忠告してくれたのか……?
「な、……」
お前が息を詰めたような音を吐く。
二流を相手にたじろいだような仕草をとるのは、お前らしくないな。
「……そ、そこまでは、言っていないだろ」
らしくないのでどうしたのかと思ったら、なんとシャスポーはそんなことを仰せになったのだった。微かに不貞腐れたような、綻びから覗きそうになる柔らかさを必死に隠すような、繕いの見て取れる声音。
俺の頭は、今日は元々溶けていた。なんだか大人らしく自分の感情を反省してみようという気にもなりかけていたところだったのに、俺の感性は一瞬にして、微笑ましいような感動にそのぜんぶを持っていかれる。
「はは……やっぱお前、丸くなったなあ」
持っていかれたので、どうにも自然に笑いが出てしまった。
「なんだ? 耳を貸させておいて次は喧嘩を売る気か?」
不甲斐なさや遣りきれなさに今の今まで苛まれてぐずぐずになっていた胸が、ふっと息をする。
喧嘩腰なのはお前のほうだ。らしさが、多少変な方向へぶっ飛んだ感じで戻ってきている。
……なんかもう、いいか。らしくなく溶けたので疲れてしまった。美味いものでも食ってもう眠ってしまいたい。この部屋で。お前はテリーヌが好きなんだったよな。
「貸してくれてたのか……分かりにくいなあ」
「だから、」
「いやいや」
むっとした調子で食い下がろうとするシャスポーを、机に貼り付いたまま少し強めに制する。
「分かってたよ、勿論。……甘えちまった。悪かったな、……ありがとう、シャスポー」
「……は」
鼻で笑われたような、溜息を吐かれたような、……あるいはもう少しだけ、柔らかく受けとめてくれたような、そんな息を彼は短く吐いた。
そうして言う。
「腑抜けた面を晒しているなよ」
なんて。
「……見えてるのか?」
俺は、愈々聞いてみた。お前にはこれが、見えてるのか? ……俺はそんな面を、晒しているのか?
「見たくもない。けど、分かるんだ。……煩わしいから、早く治せ」
仰せのとおりに、って言いたいとこだ。
けど、な。
恋はするものじゃなくって落ちるもの、って言うだろ? 自分でどうにでもできるんなら、最初っから煩ってないんだわ。