「アリ・パシャさま……アリ・パシャ様」
コーヒーのポットと共に、何やら用件を引っ提げて来たらしい。煮立った脳を醒ますような香りと、淡々として物を刺激しない軟度の声とが、扉の隙間から滑り込んでくる。
俺様はペンを叩き付けるように置く。髪のあわいへ指を潜らせこめかみを摩りつつ振り向くと、エセンが少し首を竦めた。
「すみません……僕としたことが、タイミングを計り損ねてしまったようで」
「……いや」
別にそういうつもりではなかったので、端的にそう返す。何せたった今、ノックの音に『入れ』と返したのは俺様だ。身体の硬直を緩めて、エセンは僅かに首を解すように振る。白金の糸束がふるふると揺れる。
「こちらで?」
とエセンは訊く。俺様の背後にもう一つある小さな机を指している。「……そうだな」俺はいちど、自分の着いているほうの机を振り返って、その上へ山河の如く幅を利かせている書籍や紙類の有様を認めてから、再びエセンの指す方に目を遣り、頷いた。
「お疲れのようですね」
「もう少しで煮詰まる。息抜きをするには丁度いい頃合いだ」
「……ありがとうございます」
素直に働きを褒めると、卓上の支度を整えながらエセンは神妙そうな顔をした。そこで俺は確信する。休憩用の椅子へ移り、横顔に問う。
「用件は何だ」
「……ああ……」
一瞬、動きを止めて、エセンは脱力したようにコーヒーを注ぎ始めた。
「お疲れのようなら、と思ったのですが……」
「構わん。下手に隠されると却って気が散る」
「いいえ、隠していた、わけではなく……隠すようなことでもないのですが。本当に些末なことなので……ただ、お伝えすることで、アリ・パシャ様のお邪魔にはなるかと」
声音と表情だけは淡々としているが、やはりいつもより歯切れは悪く、妙に冗長だ。
はっきり伝えないということは、実務的な用件ではないのだろう。
「それは〝無駄な〟ことか?」
「……はい」
成程。
「興味がある」
「……えっ」
エセンの整えたテーブルの出来映えをさっと確認した俺は、カップの細いハンドルに指を掛け、その中の色と香りとをも確かめる。
「当ててやろうか。それは、エセン、お前自身の欲や望みに関することだな」
「……そう、ですね」
沈黙は短く、エセンは溜息を吐くようにしながらも潔く肯定した。俺は満足してカップを傾ける。黒い宝玉を舌で転がし嚥下する。
「アリ・パシャ様、推理小説もお書きになれるんじゃないですか」
「馬鹿を言え。あんなものは、大衆にちやほやされていい気になっている俗物へ書かせておけ。永久に」
カップから口を離して思わず顔を顰めると、エセンは少し笑った。
「大衆娯楽を書く気はないが……何が執筆のヒントとして咲く種になるかは、天才大河小説家の俺様にも予期できんからな。お前の話も、物の試しに聞かせてみろ」
まさかこの期に及んではぐらかす気などは無かったろうが、この際はっきりと言い付けた。
それを受けたエセンはといえば、緩く目を逸らしながら「……本当に、お話ししてもいいんですか……?」と小さく言う。
「そんなに疚しいことなのか?」
その様子に、思わずこちらが笑ってしまう。
「や、疚しい……と言いますか。その……き、聞くと仰ったからには、聞いていただきたく。僕も……言うと一旦決めたからには、言うつもりなので……それを、本当に、許してくださいます?」
「ああ」
言葉は聞きようによっては物騒だが、彼らしからぬ必死な念の押しようは却って幼い愛嬌と映った。
「話せ。聞いてやる」
テーブルを挟んだ斜向かいに佇む瞳を見詰めながら、俺は即答した。
「……では、」
静かに呟き、一旦、エセンは目を伏せる。
そして、
「あ、あの、」
と目を上げる。その声は上擦りそうなほどに生気が満ち満ちて、声量は常のようでありながら、成程これが〝弾んだ声音〟というやつか、と作家をして関心せしめるものだった。
──そして数秒後、俺はそれとは全く別種の驚きをもって言葉を失うこととなる。
「りょ、旅行がしたいです。取材旅行」
「何? ……そんなことなら今までのように、勝手に行ってくればいい。こちらのことは気にするな、お前が居着くようになる前は俺様一人でやっていた」
「違うんです。アリ・パシャさまと一緒になんです」
「…………は?」
目の前のエセンが駆け寄ってくる。「アリ・パシャさま、コーヒーが」腕へ触れる感触にはっとして見ると、エセンが片手をコーヒーカップに添え片手で俺の腕を支えていた。呆然とするあまりにカップを取り落としそうになっていたらしい。
……本当に、よく気が付くというのに。
「……エセン」
「滴は散っていないみたいですね……あ、はい」
傍に膝を突いたまま見上げてくるエセンの声が、なぜかこめかみを刺激する。舐められているわけではけっしてないと思っていたのだが。
「……俺様は先月、取材旅行から戻った」
「はい。存じています」
いつものそつなく明瞭な受け応えである。
「俺様はその取材で、今回の作品に当面必要だと思われる資料を粗方集め終えた」
「そのようにお聞きしました。収集された資料へは僕も大雑把にですが目を通し、参照や整頓の際のお役に立てるようにしています」
「そうだった」
「そうですね」
……。
俺は黙る。なんとエセンも黙っている。俺の疲れた発言を肯定したきり、俺の次の言葉を待つように、カップを支えたそのままの位置で俺を見上げてじっとしている。
已む無く俺は再び口を開いた。
「……今、俺は執筆期間に入っている。当分抜けることはない」
「ええ」
「……必要がないので、取材旅行は当分しない」
「そのおつもりでしょうね」
……。
「おいエセン」
「はい、アリ・パシャさま」
「お前が分からないわけはないな?」
「分かってます。やっぱり、お邪魔だったでしょう?」
「なっ……」
思わず面食らった。エセンは、ふっと笑った。
「思っただけです。マフムト編集長が、今なら日本の、どこでしたっけ……伊豆、は、紅葉がとても綺麗だと仰っていたので。それを聞いて、ふと、思っただけなんです」
推理小説の犯人役が縷々と語る種明かしのように、エセンはその緩やかな声を紡ぐ。
「本当にただの思い付きだったのですが……なぜだかすごく、お話ししてしまいたくなって。そうしたら、アリ・パシャさまは聞いてくださると仰るし、僕も……なんだか躍起になってしまいまして……言うと宣言させていただいた以上は、そのとおりに」
そこまで淡々と言いきったエセンは、少し照れたように、或いはばつが悪そうに、首筋を摩った。
「聞いてくださるのではとは思いましたが、同時に、多少お邪魔になることも承知の上でした。お疲れのところ、稚拙な言葉遊びにお付き合いいただき、ありがとうございました。……コーヒー、冷めてしまいましたかね」
「いや、問題ない。それに、〝言葉遊び〟のほうも。息抜きとして悪くなかった」
「……ありがとうございます」
温度のまろくなった宝玉を啜り口角を上げてみせた俺の言葉が、皮肉ではないことを汲み取ったか。エセンはいっとき目を見開き、それから小さく頭を下げた。
「ああ、〝息抜き〟としては悪くない。……おいエセン」
「はい。なんでしょう」
空気を変えるように立ち上がった彼を呼べば、常のとおりの機敏な応えが変える。
そこへ俺様は、常のとおりの口調で確かめる。
「俺様を誘った以上、無論既に二人分の旅支度は整えてあるんだろうな」
俺様は見誤っていたようだ。先ほどのエセンは目を見開いていたのではない。何せ今この瞬間の奴の瞳のほうが、余程丸くまた大きいのだ。
「……えっ? ですからあれは──」
俄かに慌てだす奴の顔を睨め上げ、俺様は勝ち誇る思いで笑ってやる。
「はっ、〝遊び〟だと? 俺様も舐められたものだな。伊豆だったか。マフムトには伝があるんだろう、繋いでこい」
「え、い、いま、ですか」
「今すぐにだ。明日には発つ。お前もそのつもりだったのではないのか」
「えっ、と、ちょっと……ちょっと待って、ください、アリ・パシャ様、その、執筆は……締切は」
「俺様が締切に追われることなどない。締切が俺様に従うのだ」
「また、マフムト様を言い包めるおつもりですね……」
「お前の仕事が一つ増えたな。エセン、この展開が不満なら、金輪際俺相手にあんな真似をしようなどと思わないことだ」
俺様は今やとうに調子を取り戻していた。当然だ。〝弟子〟に一杯も二杯も喰わされたままで、この俺が終わるわけがない。仕掛けられたのが、たとえ稚拙な遊びであろうとも。たとえ、無邪気な夢想であろうとも。
「……すみません」
「……本当に不満があるのか?」
しかし何やら思った以上にエセンが悄気たような様子で謝罪するので、俺様も即興のシナリオを狂わされ、率直に訊いてしまった。
それを受けたエセンはさらにはっとしたように、勢いよく頭を振る。
「いえ! 不満は……不満をお持ちだとしたら、それは無論、アリ・パシャ様のほうで」
「弟子のささやかな望みに一々腹を立てて堪るか。俺様を誰だと思っている」
「……アリ・パシャさま。僕のついて行くべき、唯一の御方です」
「……ふん」
エセンはそこで漸く腹を決めたらしい。ついでにコーヒーを淹れ直すと言って銀盆を抱えると、マフムトへ連絡を付けるべく書斎を出て行った。
「……お前はそう言って、一体どんな腹づもりで俺様について来るんだか」
足を組み、椅子に深く座り直す。背凭れの固さに顔を顰める。エセンの書くものは、詩だ。
俺様の手掛けるような大長編純文学ではないどころか、所謂小説という括りのものですらない。ほんの数行の短いものもあるが、一編が数十連にも及ぶようなかなり長いものもある。それでもそれらは、どれをとっても、圧倒的に〝詩〟なのだった。
人の内に存する〝感情〟と呼ばれる類の感覚を、一切捨て去ったような、徹底的な風景描写の詩。
彼自身の手による修正の跡が幾重にも重ねられたそれを最初に目にしたとき、俺は真っ先に思ったものだ──なぜだ、と。それは忘れもしない、彼が俺のファンだと言ってこの家に押し掛けて来たときの記憶だ。馬鹿であり馬鹿の付くお人好しであるマフムトが、最初は編集社へ訪ねて行ったらしいエセンの話を聞き、善意のつもりで俺の所へ連れて来たのだった。
弟子にしてほしい、何なら小間使いで構わない。そう妙に淡々とした声で頼んできた彼へ、俺は当然、先ず貴様の書いたものを見せろと要求した。彼はなぜか、いっとき、渋った。感情的に恥じらったというよりも、明確な意図に基づいて躊躇ったように見えた。だがそれでは道理に合わないということもまた重々承知していたのだろう、彼は漸く、表紙の縒れた厚いノートを一冊、こちらへ差し出した。その手付きが既に今と変わらず、作法を身に付けたものだったことを覚えている。
他人の綴ったものを読んで、目の覚めるような一種の感動を覚えたのは、随分久々のことだった。
一切の感情を捨て去った、徹底的な風景描写の詩。それは確かに詩であり、当時の俺様が思いがけず目を見張ったほどに繊細であり、直接間接の感情描写を排しているにも関わらず、その並外れた繊細さの故に、それ自体が書き手の〝心〟そのものであるに違いないという妄信的ともいうべき確信を、鮮烈にこちらの胸裏へ焼き付ける詩だった。
『……なぜだ』
なぜなのだ。俺は心のままに問うていた。それが俺の作家としての……或いは俺という一個の存在としての、弱みを晒すことになろうとも。そのときの俺は、それを鑑みる余裕を、失っていた。
『ええと……失礼ですが、何についてのご質問でしょうか』
『なぜ、こんな言葉の紡ぎ方をするお前のような者が、ああいった小説を書く俺に、師事したいなどと』
彼が当てずっ砲に俺を頼んできたようには思われなかった。それまでの長くない会話で、彼が俺の小説をよく読み込んでいることは、誰よりも著者であるこの俺自身に痛いほど伝わっていた。
『それは……』
彼はそっと、己の首筋を摩った。渋っているのではない。返答に窮しているようでもなかった。それは、
『──あなたしかいない、そう思ったからです。アリ・パシャ様。あなたに、ついて行かせてください』
決意を固めるように伏せた目を真っ直ぐに上げて、エセンは俺に、そう言った。
「……ふ」
ごくごく静かに階段を上がってくる気配がする。新しいコーヒーの匂いがする。
旧い回想を打ち止めて、俺様は気怠く息を吐く。何度思い返してみても、俺様にとっての一番の謎は今日も解けることがない。天才大河小説家にも、分からないことは二つある。
『彼はあなたに甘えているね』
いつだったかマフムトが俺に言った声が蘇る。回想を切り上げた先から鬱陶しい奴め。胸中で毒突くも、忌々しいレコードは勝手に回り続ける。
『あれはそんな奴ではない』
『おや、すまない。けっして、悪い意味ではないよ。……エセンは、あなたを十分に頼っているようだ。それは、アリ・パシャ、あなたがあの子を十分に信頼しているのと同じように』
「──すみません、アリ・パシャ様。お待たせしました」
『あの子がここへ来て、よかったようだね』
「……ああ」
「入れ、エセン」