タバケイ

シャスポーの休日

「……ねえ」
 やおらというか、やにわにというか。漸くというか、今更というか。
 カトラリーが口を開いた。
 僕らは、というか僕は、湖の畔にいた。最近になって気分転換というものを覚えたので、少し涼しい空気を吸おうと森の中を歩いていたのだ。そのうちここへ行き着いて、少し座ってぼんやりとしていた。そこに偶々彼が居合わせただけだった。
「僕に話し掛けているのか?」
 横目で見遣って、短く訊ねる。彼の目は、釣り糸を垂らした水面に張り付いている。さっき、最初に会ったときよりも、こちらとの距離が近くなっている。魚の動きを気にするふうを装いながら、じわじわと彼のほうから近寄ってきていたのだ。
 僕は今日はあまり考えないようにしようと決めていた。誰かさんに感化されたわけではけっしてないけれども、偶にすうっと頭を空にすること。これを実行した後には、思考も挙動も、それ以前と比べてより明晰になっている気がしていたから。
「……他に誰かいる?」
 彼は、ちょっと嫌そうな声を出した。ちらっと、漸く目線を、細く寄越す。下手な芝居を打ちながら近付いてきた分際で、果たしてとるに相応しい態度なのか。そう感じる胸の底を、意識して鎮める。僕は今日は、何も考えないのだ。
 考えないから、無駄なことの一つでもすることが許されている。
「用があるのならこそこそこちらを窺っていないで、早く声を掛けてくればよかったじゃないか。僕は、既に待ち草臥れているんだよ」
 彼の身体が、ぎくりと固まったのが分かる。基本的に愛想は悪いが、それなりに分かりやすい。僕は、無駄なことをしている。
「……あ、あのさ」
「うん」
 また目を伏せてしまった彼を見て、僕のほうも、応えながら湖へ視線を移した。
 日は緩やかに昇り詰めつつある。梢の影が、限りある体温を抱く存在を守って、蒼く落ちる。そこから眺める水面は、ちらちらと白く、また黄色く光を跳ねる。
 そこへ溶け込むように、隣の存在が身動ぎをして、息を吸った。彼の若草のような髪色が、僕の目の裏を過ぎった。
「……あのおっさんのこと、なんだけど」
「あのオッサン?」
 このレジスタンスには貴銃士を含め、所謂オッサンが何人も在籍している。しかし、わざわざ僕を選んでそう持ち出してくるということは、
「タバティエールのことか」
「……う……うん……」
 言い当てられたことに動揺したふうでは、勿論ない。ただ強いて言うならば、客観的にその名を聞かされることで、自身のこれから語ろうとする内容に改めて向き合わざるを得なくなり、一緒尻込みをした――そんなふうに読み取ることのできる声だった。
 要は、覚悟を決めかねているというか、もっと軽く言えばどことなく気恥ずかしさの窺える態度だということだ。そう、まるで――
 ……。
 待てよ。
「まさかとは思うけど。君も惚れているのか?」
「……は?」
 思わずじっと見詰めながら問い掛けると、沈黙を挟んでから、その横顔もまた勢いよくこちらを振り向いた。
 僕がそっちを向いているとは思わなかったのか、怯んだように軽く仰け反る。その様をも含めて尚も観察していると、彼は猫背気味に上体を戻して、しぱしぱと瞬いた。
「なんで……えっと、誰が誰に……何だって……?」
「口にしてもいいのかい?」
「誤解のあるまま話が進むと困るから! ここははっきりさせておかないとだめ!」
「誤解……?」
 僕としては一応、こんな小さなピストルに対しても、最低限の憐みを持って気遣ってやるつもりだったのだけれども。彼自身が言葉を秘めず明らかにすることを望むというのならばと、それを受け入れてやることにした。
「カトラリー、君が、タバティエールに惚れているんじゃないのかい」
「……な、」
 彼の顔が歪んだ。
 眉間に皺が寄って、でも眉尻はちょっと下がっているような、口の端は引き攣って、且つ僅かに開いて塞がらないような。そんな顔から、か細い声が流れ出た。
「なんでそうなるの……」
「……そういう話じゃなかったのか?」
 僕は少なからず驚いた。だって、まるで恋に煩ったかのような貌をして。さっきの彼の声の揺らぎは、まさしくそんなどうしようもない病人のそれだと直感させるものだったというのに……。
「ち、ちがっ……いや、〝そういう話〟ではあるんだけど、僕じゃなくって!」
「君ではなくて?」
「っ……」
 なんだやっぱりそういう話だったのかと、密かに安堵した僕が先を促すと、彼は呑み込む息とともに口を噤んだ。口を滑らせたとでも思っているらしい。
「誤解があるままに話を進めると困るんだろう? ぼかそうとせずにはっきりさせておきなよ」
「……う」
 不服そうに膝を抱え込む。一向に引かれなかった釣り糸をぷいと地上へ上げて釣り竿を傍らに横たえると、彼は空いた両腕で自身の脚を抱き締めた。
「……ぜったいに、ぜったいに、茶化したり――嗤ったり、失礼なこと言ったりしないで、ね」
「……ふん」
 僕は正直、考え込む。それは相手にもよる気がするし、どんな言葉が所謂失礼に当たるのか、明らかな判断基準を持てない気がした。それに何よりも、一方的に話題を持ち出しておきながらそれを聞く条件をも一方的に提示してくるという態度は、なんとなく気に食わない。
 僕は彼の横顔を見た。抱えた膝に顔を半分方埋めて、水面か、それよりももっと近いところ、或いはもっと遥かに遠い場所を見詰めている。この話は長くなるのだろうか。きっとそうなるだろう。その小さな身体の内に一体何が渦巻いているというのか、不思議と聞いてみたいような気がした。
「善処しよう」
「……」
 一瞬、何やら胡乱げな瞳を寄越す。けれどもすぐに、その色は縋るものを求める迷子のように揺らめいた。
 縋られても困る、と思ったけれども、もう遅い。
「……け」
「……何?」
「……ケイン、さん。その……その、彼を愛してるの。ケインさんなの」
 殆ど波に濡れたような声で絞り出しながら、殆ど溺れるように膝へ額まで埋まった。
 泣いているのか、いないのか、顔を上げようとしない旋毛をぼんやりと見る。
「……」
 僕は考えてしまう。考えるといっても、無駄なことをだ。無駄な思考だから、思考の内には入らない。暇潰しのパズルを解くみたいに、きっとこれはこれで有意義な息抜きになるのだと言い聞かせていた。
「ケインってあの、杖の仕込み銃だよな」
「……そこから?」
 湿度の中に険を湛えた声がじっとりと鼓膜を刺す。少し赤い気がしないでもない目が、膝の間から覗いて僕を睨んだ。
 そこで、微かに違和感を覚えた。
「勿論、同じ基地にいる貴銃士の情報くらい把握しているよ。だけど……君がなんで彼のことを気にするのか、それを疑問に思っただけだ」
 同じ隠し銃だからか? なんて適当なことを訊きながら彼を見ていて、愈々僕は驚かされた。
「っそ……それは……だって、」
 狼狽えたように肩を跳ねさせて、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
 濡れた瞳。
「……し……心配、だか、ら……」
 消え入りそうな声を聞き届けて、僕は絶句した。
「――野暮なことだとは分かってる。一つ訊くのを許せよ」
「……ん」
「君は、タバティエールに惚れているわけではないと言ったよな。じゃあ、ケインには」
「違う」
 彼は分かっていたみたいに、はっきりと即答した。
「す、……す、すき、だ、けど……そういうんじゃ、ないから」
 それだけを口にするのに、このピストルは身体中のエネルギーを全て使い果たしてしまったように見える。大分発熱しているように見える。そんなスペックで生きていくのはさぞや大変だろうなと思った。
 しかし、そんなことよりも何よりも、僕はやっぱり驚いてしまったのだ。
「君たちにはそんな情があったんだな」
「……は……⁉」
 彼はがばりと顔を上げて、見開いた目をこちらへ向けた。信じられないというような、微かに一種の絶望さえもが見て取れるような目。僕はその所以を測りかねた。
「……僕のこと悪く言うのは別に、いいよ。大体ほんとのことだし、しょうがないし、慣れてるし。
 で、でも、でも――」
 見開いた眼光を細く砥いでゆきながら、彼は告げた。
「――ケインさんと、キセルのことは、だめ。傷付けるのも、失礼なこと言うのも、許さない」
 毅然とした声。いや、弱いものが弱いものを守ろうとする声だった。
 戦場で聞いた声……。
 あの、愛しい、故郷でも。
「……」
 僕の中で何かがざわめいた。波立った思考の底にあるものは、一体何なのだろう。僕は首を振った。
「……何か誤解をさせたみたいだ」
 湿気は嫌いだった。
「君たち三人は隠し銃であるという共通の性質から、作戦でも一緒に組んでいることが多いよね。基地でよく三人でいるのも、その延長線上にあることなんだと思っていた。
 だから、例えば君がケインを好意ゆえに心配してるように――君たちが、情緒的な結び付きを持っているんだということが、僕には意外だったんだ。〝情があったのか〟って言ったのは、そういう意味だよ。……その、〝失礼なこと〟を言ったのなら、悪かった」
 内心動揺しながらも、口では縷々言葉を紡げるのは我ながら流石だ。
 そう、さっきからの、違和感の正体。それを言葉にして、明らかにして、僕はこっそりと息を吐いた。
 彼はきょときょとと瞬いている。その目には既に険はないけれども、かといって僕の謝罪に応えを返すでもない。結んだままの唇を、彼はまた、膝の陰へゆっくりと仕舞い込んだ。
「……シャスポーって、意外と優しい?」
「は?」
 作り損ねた声が、やや裏返る。胸中で舌打ちする。僕は、こいつがタバティエールによく構われているということを今になって改めて思い出していた。
 ――丸くなったなあ。
 誰かさんの声が耳の底に蘇る。
「あんたがマスター以外に謝るの、初めて聞いた」
「っ、うるさいな! ただ、さっき〝失礼なことを言わない〟と約束したから。君の話を聞き始めてしまった以上は、最初に同意した条件に従う。それだけのことだ」
 くすりと、彼が初めて笑った。
 誰かさんといい、これだから嫌なんだ。僕自身よりも僕のことを見透かしているかのような態度が、本当に腹立たしい。
「……うん。約束守ってくれて、ありがと。大丈夫、あんたの言いたいことは伝わったから……そう、だね。少なくとも僕は、ケインさんとキセルのこと、好きで、一緒にいるよ」
 ついさっきあんなに口にするのを躊躇っていたのと同じようなことを、今は薄く笑みさえ浮かべて流暢に語る。完全に舐められた。胸中で舌打ちが止まない。
「……そうかい」
 観念して、一度溜息を吐き、吐いた分冷たい空気を吸い込んだ。一回半の深呼吸を終えると、無事に冷静さが戻ってくる。滞りなく喋ってくれるようになったということは、こちらからすればそれだけ話をテンポよく聞くことができるようになったということだ。こっちにとっても身内の絡む話題なものだから、中途半端に聞き逃すようなことはなるべく避けたかった。
「それより……さっきさ。あんた、僕〝も〟惚れてるのか、って訊いたよね。あれ、どういうこと? タバティエールには、その、他に相手がいるの……?」
 薄い笑みを割合すぐに引っ込めて、彼はしょんぼりと訊ねた。僕の機嫌を窺うかのような上目遣いをされても、あいつに相手がいるのかどうかは僕の一存で決まるものではない。
「そんな言い方をしたかな」
「うん。それで僕、聞きながら引っ掛かったんだもん。もっととんでもないこと言われたから、先にそっちに突っ込んじゃったけど」
「とんでもないって。あんな悩ましそうな顔で誰かの名前を告げられたら、そりゃそいつに惚れてるんだろうなって思うだろう、普通」
「ふ、普通? そんなこと……大体なんで、僕があんなのに」
「人の小間使いを捕まえて〝あんなの〟呼ばわりとは、随分とマナーのなっていることだね」
「えっ? ご、ごめん……? ……あ」
 何かに気付いたように、カトラリーが語尾で息を詰めた。何やら嫌な予感が背筋を駆け抜ける。僕は本能的に身構えた。
「ひ、ひょっとして……タバティエールの相手って、シャス――」
「違う」
 即答。
 カトラリーは、尚も蒼褪めた顔でこちらを窺っている。
「ほ、ほんとに……? もし、そうなら、こんな相談して、ごめんなさ――」
「本当に違う! 大体、なんで僕があんなのに」
 眉を顰めた僕の言い方に、漸く安心したらしく、彼はまた少しだけ、笑った。
「そっか。……そうだよね」
 だから、人の相方を貶す台詞に対して〝そうだよね〟と言って憚らないのはどうなんだ。
「じゃあ、あの人の相手って……?」
「相手、かどうかは知らないけれど。僕が想定していたのは、まさに君が心配している彼のことだよ」
「……えっ?」
 彼の目は、それは丸く見張られた。
「ケイン、さん……?」
「ああ。……もっとも、僕はタバティエールのほうが一方的に入れ込んでいるんだと思っていたんだけどな」
 そうなのだ。
 あいつが煩っている相手。どうしようもない病気の根源。当然、僕は気付いていた。この自分の片腕が、それも平生あれほど大人ぶっている男が、想いの一つでここまで不格好を晒すようになってしまうものかと。まなざす我が目すらも疑わずにはいられないほどに、奴の態度はあからさまだった。
「だから、君からケインのことを聞いて、驚いた」
「そんな……」
 カトラリーは僕の言葉の真偽を測るように、丸い瞳をじっとこちらへ向けた後、力の抜けたそれをおもむろに伏せた。
「……だって……ケインさん、あんなに苦しそうなのに。あいつといるとき、あんなにはしゃいでるのに……あいつは、全然そんなふうじゃなくて。全く、いつもどおりで、へらへらしてて……だから、だからケインさん、ずっと、一人で溜息吐いてるから、僕、もう見てられなくって、だから、だから……」
 そういうことだったのか。彼がそもそも一連の話を切り出してきたわけを把握する。
 矢継ぎ早に拙い単語を発する声がまたしても湿り気を帯びてきて、思わず僕は遮るように言葉を挟んだ。
「僕から見ると、タバティエールばかり浮ついているようだったよ。いつもいつも……そのくせ、僕と二人きりになると黴でも生えたようにめそめそとして鬱陶しい。みっともないから、せめて人前でそんな面を晒すなと注意しているんだけれどね」
「う、嘘……それって、いつも?」
「僕が見る限り、いつもだよ。君のとこの杖と顔を合わせているときは、いつも」
「いつ、から?」
「……うーん、どうだったかな。もう随分経つ。早く治せと言っているけれど、もう殆ど持病みたいになってしまったね」
「……」
 小さなピストルは、黙りこくる。その身体の内に巡っているであろう想いに仮託して、僕も自分の中の情報を整理してゆく。
「――僕が、見掛けるのは……いつもと違う笑い方、してるケインさんと、いつもとおんなじ、へらへらしてるだけのあのおっさん……もう、ずっとだよ。ずっとずっと……最近じゃ、僕らが部屋にいるときでも、なんていうか……思わず零れた、っていうみたいに、溜息吐いてる。……淋しそう、なんだ」
「……面倒くさいな」
 思わず零すと、案外、カトラリーのほうも躊躇いがちながら頷いた。
「……でも、よかった。……そうなんだ」
 くす、と膝の陰で喉が鳴る。
「ねえ、ほんとにほんとなんだよね? ケインさんだけが、本気なわけじゃないんだよね……?」
 念を押すような台詞は、その実、プレゼントやお出掛けの約束を何度もたしかめる子どもの声のように響いた。
「逆に、君の目にはタバティエールのあの挙動が平生どおりに映っているというのが僕には信じられないよ。対して君のとこの杖は、いつもの食えなさそうな笑顔を崩さないし」
「そんなことないって。あいつと話すとき、すごく嬉しそうだもん……シャスポーには、ほんとにそう見えないの?」
「見えない。君の愛が重いんじゃないのか」
「なっ……! そ、その台詞、そっくりそのまま自分に返ってくるって分かってる⁉」
「……僕のは愛じゃない。自分で飼ってる召使いの真意くらい測れなきゃ困るだろ」
 彼にとっての本題は大方解決したようであるし、僕にとっては面白くない風向きになってきたのでそっぽを向いた。彼がずっとそうしていたみたいに、自分の両膝を胸へ引き付けて掻き抱いてみる。この体勢をとると、この世界に自分がぽっかりと一人、どうしようもなくちっぽけな存在としているという実感がより鮮明になるようだった。誇り高き軍用銃がとっていていい姿勢じゃない。
 陽の注ぐ角度は、大分変わったようだった。木陰の青はよりくっきりとして、相変わらず僕らを守っている。
 光の粒が舞う湖面に、ぱしゃんと、何かが跳ねた。
「あっ……!」
 風に紛れてずっと僕のことを笑っていたカトラリーが、慌てたように自身の傍らを手で探る。釣り竿を掴んで腰を浮かせ、漸く姿を現した小魚の行方にじっと目を凝らす。
 やがて彼はきょろきょろと湖面を眺め、岸を見回し、……そして膝を抱えたままの僕の方をちらちらと窺うと、また元の場所へ座り直した。
 ……なんなんだお前は。
「た、タバティエールって」
 口を開きながら、彼は結局またここへ釣り針を投げ入れた。
「ケインさんの気持ち、気付いてないん、だよね。……もっと、その、近付きたいとか、思わないのかな……?」
「……はあ」
 そんなことを僕に訊かれても知ったこっちゃないぞ。
 どうやらまだ続くらしい他人事の恋愛相談の、見えない行く末をぼんやりと想って釣り糸を見る。魚釣りが得意なのだと人伝てに聞いたことがあると思ったけれども、今日はそう仕組まれてでもいるかのように、一向に糸は引かれない。
「思うには思っているんだろうな。部屋では、あんなに恋い煩っている様子なんだから」
「……そっか」
 カトラリーが釣り竿をふらふらと揺らす。糸から伝わった動きが、水面にのろのろ不規則な波紋を作る。
「……大人の恋、ってさ。もっとスマートなのかと思ってた」
 ぽつんと呟いたカトラリーの横顔の神妙さを嗤いたかったけれども、それは僕自身の考えをも同時に嗤うことだと分かっていたので、僕は黙った。
 代わりに一つ、湖に向かって溜息を吐く。
 気分転換のためのパズルにしては面倒で、そして難解なものに手を着けてしまった。あんな奴らのために思い煩ってやるのなんて真っ平御免なのに。
 ……ましてや愛しいだなんて、思ってやりはしないのだから。

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