「――タバティエールさん、いらっしゃい」
「っ……ああ」
カフェの裏口を開けてくれて微笑んだケインの顔を見て、俺は息を呑んだ。
慌てて返した所為で無愛想な言葉になる。いつもよりも遅い時間まで、店に明かりを点けて待っていてくれたというのに。
仕事帰りにここへ寄って、彼と取り留めのない話をする。いつものように彼の店へ上げてもらいながら、いつもとは少し違っていた彼の横顔へ向けて、俺は思ったままを口にした。
「……モノクルしてないと、結構印象違うんだな」
裏口へ鍵を掛け直していたケインが、少し目を丸くして振り向いた。
いつもと違う。初めて見たケインの姿、だった。流石に少し遅かったから、うたた寝でもしていたのかもしれない。
そこまで考えて、謝ろうかなと思った、そのとき、
「そうでしょう?」
ケインが、ふふ、と照れたように、笑った。
綺麗な指で目許を気恥ずかしげに擦る。
「その……あなたにお話ししたことが、ありましたっけ」
相手に見縊られると莫大な不利を被るような場所に身を置いていたこともあるから、どうにか威厳を出すためにモノクルを掛けるようになった、というようなことを、彼は短く言った。
「元々の顔立ちが、その……あまり大人っぽくはないものですから。今でも、少しコンプレックスがあって」
お恥ずかしい話です、と呟くように言って、本当に恥ずかしがっているらしく赤らんだ頬を、ぎゅっと左手で押さえた。
その様が、あまりにも。
「……俺は好きだぜ」
口を突いた言葉が自分の耳へ入ってきてから、失敗したと思った。
俺が好きだからなんなんだ。このひとは俺のためにモノクルを掛けていたり素顔でいたりしているわけじゃない。失敗した。失敗した。人として失敗した。恥ずかしい。情けない。
……あまりにも幼く見えた。彼自身が吐露してくれたように。たしかに、可愛かった。いつもの大人らしい所作や気配りや、読めない表情も勿論大好きだ。全部愛してる。けれど、今、見せてくれているあからさまな表情、照れた笑顔、危なっかしいくらい素直に染まった頬もまた、この胸をどうしようもなく締め上げ、そのくせばくばくと酷く熱く脈打たせるのだ。
彼は俺の言葉に目を見張った。どう言い訳したものか、俺は頭が回らないまま目を逸らす。思わず口許を片手で覆ったけれども、既に隠しきれない部分まで顔が熱を持っている。「好きだ……」くぐもった声が聞こえた。考えるまでもなく俺の口から漏れ出たものだ。呆れた。もうだめだ。だめだだめだと思ってはいたが、俺はこんなにだめな奴だったのか。
「……本当、ですか? それなら、」
彼の声がして、はっと瞬きとともに目を開く。反射的に向き直ると、彼はなんとも茶目っ気のある笑みを浮かべていた。
「――あなたと会うときは、外していてもいいかもしれませんね?」
冗談めかした口調。それなのに、どうしようもなく心が揺さぶられる。だめだ、と思ったときにはたぶんもう遅くて、しかも極め付きには、ケインがそっと目を伏せたのだ。冗談である筈なのに、そう装おうとしているのに、まるで繕いきれなかったかのように、言葉の終わりに彼は一瞬、そっと、切なそうに目を伏せた。それを認めるか認めないかのうちに、俺はケインを抱き締めていた。
「っ……!」
見間違いだと思いたくはなかった。今更そんなふうに思いたくない。だってもう抱き締めてしまった。だめだ。今までも散々アプローチを試みてきたけれども、こんなに大胆なことをやらかしたのは初めてだった。
抱き締めた彼の身体からは、ふわりと紅茶の香りがした。けれども、そんなのじゃなくて。もっと、彼の、肌の、匂いが欲しい。欲しい、と感じるままに、俺は彼のこめかみの辺りに鼻先を触れた。涼やかな匂いを幽かに捉えると同時に、彼の身体が震える。思わず抱く腕をきつくしながら、俺はそのまま彼の耳許へ、先の言葉への返しを注ぎ込んだ。
「ああ、見せてくれ」
自分で吐いた息が驚くほど熱くて、衝動に任せた声は自分の耳を塞ぎたくなるほどに甘く掠れていて、俺はその辺をのたうち回りたくなった。もうだめだ。今日彼と会ってから既に何度繰り返したか分からない言葉がまた頭の中を回る。情けない。恥ずかしい。君を擦り切れそうなほど愛しているということ以外、君に伝えられる長所がない。
だから、頼むから俺を選んでくれなんて、いつまで経っても言えない。
「……ふふ」
彼の笑い声。笑い声が聞こえた。俺ははっとした。
どうしようもない俺を嗤う声じゃない。やわらかくて、ささやかで……少し擽ったそう、に聞こえる声。俺はどうしても彼の表情を見たくなった。今、彼は、どんな顔で笑っているのだろう。一体どんなふうな笑顔から、こんな愛らしい声が奏でられているというのだろう。見たい。知りたい。身体を離してしまうのは正直ものすごく惜しかったけれども、それでもどうしてもたしかめたくて、俺はそうっと、ほんの少し、腕の力を緩めた。
そろりと覗き込んだ瞬間、鼓動がばくんと跳ねた。
彼の目も、こちらを見つめた。レンズ越しでない両のアッシュグリーンが、光の加減で蒼く透ける。こんなに近くで見つめ合うのは初めてだったけれど、彼のほうも真っ直ぐに俺の目を見てくれていた。真正面から、ひたむきに、けれども少し、小首を傾げた角度で。
照れる間もなく惹き付けられてしまった俺に、彼は。
「分かりました。……見ていてください、ね」
ふうわりと、はにかんだ様子を隠すこともなく、微笑んだ。
それは本当に、本当に、やわらかくて、泣きたくなるほどに慕わしい笑顔だった。砕けて地上に降り注いだ星明かりがそっと夜露に宿ったような、優しくて、密やかで、切ないくらいに甘い微笑み。こんな、そんな笑顔を、君は、どうして、他でもない俺の腕の中で。
頭の芯がくらくらとして、俺は熱に浮かされたみたいに頷いた。魔法にでもかけられてしまったように目を離せない。だめだ。だめだ。だめだけれど。もうだめでもいい、と思った。情けなくたって恥ずかしくたって、どんなにだめでも、もうなんでもいい。
「……ケイン」
君が、こんなふうに、俺に向かって笑いかけてくれるのなら。もう、なんでも。
掠れた声で呼ぶと、彼は頬をさっと染めて逃げるように目を閉じてしまった。やましい衝動が身体を突き動かしそうになるのは今度こそ抑え込む。
君が、こんな俺でも、こんなふうに近くにいることを許してくれると言うのなら。もし、もしも君が、こんな俺のことをこそ、愛してくれるなんてことがあるんだとしたら。
俺は、君に、優しく触れていたい。
少し強張っていた身体を、もう一度ぎゅっと抱き締める。どうか拒まないでほしい。怯えた気持ちが、回した腕に力を込めてしまう。
彼が身動ぐ。緊張で喉がつかえる。呼吸が苦しくなる。本当は、君に愛されたい。君を愛することを俺に許してほしいけれど、それと同じくらい、君に俺を選んでほしかったんだ。
どうか。どうか……。
「タバティエール……さん」
小さな声は、少し硬いように聞こえた。恐怖で胸の底が竦む。縋りたい。逃げ出したい。それでも待つことしかできない。
震えることすらできなくなっていた、俺の背中に、何かが触れた。
ぎゅ、とそのまま服を握り込まれる。そこからあたたかい温度が伝わってくることに、徐々に気付く。
「タバティエールさん」
もう一度繰り返された声は、今度ははっきりと届いた。頼って寄り掛かってくれているような、それでいて、泣いているみたいにいじらしい声音。それが幻聴でないことだけを、咄嗟に必死で祈った。
ケインの手だった。ケインが、俺の、俺の名前を呼んで、俺の背中にまるでしがみ付くみたいに両腕を回して、抱き締めてくれている。こんな俺のことを。君を泣きたいほど恋い慕っているだけの俺のことを。
名前を呼び返したいと思ったけれど、今、口を開いたら嗚咽が漏れてしまいそうだった。それは、あまりにもだめだ。情けない。恥ずかしい。
……ああ、でも、でも。だめでも、よかったんだったか。
少し怖いし、やっぱり恥ずかしい。でも。それでも、君は、こんな情けない俺の隣で、笑って、くれるだろうか。
「……ケイ、ン」
「ふふ……はい、タバティエールさん」
茶化すみたいに笑った彼の声も、少し、濡れているような気がした。