「また、生理痛か?」
「……うん」
「学校自体、休んでもよかったのに」
「朝はなんともなかったから……」
そう言って、硬い丸椅子の上で膝を抱える。生物準備室の、窓から差す光の陰にひっそりと溶け込むようである。
「今日はもう授業もないし、こっちの陽の当たるとこにいなよ」
「……いい。眩しい」
抱えた膝へ、閉じた瞼を埋める。小柄な身体は、狭い椅子の上でそんなふうに器用に縮こまっている。
「なら、せめてもうちっとあったかい格好を……」
言ってはみるものの、この状態の生徒に上着を取りに階段を上がってこいとは流石に言えないし、自分が今羽織っている白衣を掛けてやるっていうのも、それはなんか違う。
結局ごにょごにょとした語尾になった。
「……」
「……いや、いいよ。体調悪いのに、いろいろ言って悪かったな。まあ、ゆっくり休んでけよ」
それは本心だし、正しい言葉だと思っていた。そうできる限り、穏やかな声になれるよう努めて伝えると、僅かに様子を窺うように持ち上がっていたまなざしが、ふっと緩んで、こっくり頷いた。
彼を心外に傷つけてしまうことにはならなかったようだ。
最終時限が体育っていうのは、全コマをフルで受けた後だと健康な身体でもまあまあきついんじゃないのかと思う。彼らよりも歳を食った自分の視点だから、そう感じるだけなのだろうか。
膝に口許までを埋めて、ぼーっと顕微鏡の陳列を見つめている、小さな身体を見る。当たり前だけど、平日に毎日実施される授業を全て受ける必要なんてない。けれど、この子は殆どそうしている。高校が大好きというわけでもないみたいだが、かなりこまめに登校してくるのであった。
その理由を勝手にあれこれ憶測するのは野暮であろうけども、本人との対話の中でそれを少しずつ見出していくというのは、ある程度は、大人である自分の責務のひとつなのではないかとも思う。
「……――お」
取り留めのない考え事をしながら水槽の世話をしていたら、終業のベルが鳴った。見ると彼も眠たそうな顔を上げて、壁時計のほうへ首を巡らしている。
「おはよう。寝てた?」
「うん……」
「その体勢でよく眠れるなあ。背中痛いだろ、節々とか」
「…………うん」
身体を少し伸ばしてみて初めてその痛みに気づいたようで、彼は少しむっとしたような、あるいはばつの悪そうな返事をした。それが可笑しくて、軽く笑ってしまう。それでも彼は、気分を害したふうはなかった。
「今日はここの掃除いいって言っとくから、まだ暫く休んでていいよ。俺もここで仕事してから帰るからさ」
「……わかった」
ブラッドオレンジのような色をした瞳が見上げてくる。今でも、捻くれた態度をとることは多いけれど、ほんとうに素直な子だ。自分より若い子はみんな可愛いと思っているけれど、この子については、特にこういうところが可愛い部分なのだった。
「とはいえ、あんまり遅くなると、この時季はもう大分冷えるからなあ……俺かフルサトが車で送ってってやってもいいけど」
女性保健医の名前も出して提案してみるが、彼は予想どおり、首を横に振った。
「だいじょうぶ……ありがとう」
小さく添えるのが、やはりいじらしい。
彼は言わなかったけれど、きっと“迎えが来る”のだろう。自分たちとしてはその“迎え”も含めて心配なわけだが、まああれだ、大人が子どもを見守るには、適度な距離を保っていることも必要不可欠なことなのだ。件の保健医も世話焼きの心配しいだが、肝心なところでは適切な距離を弁えている。
……まあ、流石に道が暗くなるようなら問答無用で車に詰め込んで帰るつもりだが。
「そっか。……んじゃ、俺はちょっと当番の子たち待ってくるわ。教室のすぐ外にいるから、なんかあったら呼べよ」
ブラッドオレンジがこくんと頷く。作らなくても浮かぶ笑みを浮かぶまま晒して、踵を返した。
この学校では、校舎や庭の殆ど全ての清掃を生徒と教員とで行う。当番制で、終業後、各々の担当箇所を掃除するという仕組みなのだ。
今日の生物教室担当者に清掃のパスを伝えるべく、廊下で待っていると、ふうっと、黒い頭髪が視界に現れた。消しているのかと思うほどに淡い気配。紛うことなく捉えて、壁へ凭れていた背を浮かせた。
生物教室は、本校舎の離れである特別教室棟の、長い廊下のさらにどん詰まりにある。よってこの教室の前を通るのは、別の場所への行きがかりではなく、この教室そのものに用がある者でしかありえない。
「よう、キセルくん」
「ぁ、た、タバティエールせんせ、……」
声を掛けると、びくりと生徒の肩が震えた。
長く垂らした黒い前髪。その奥に覗く黒い瞳は、おどおどとして、こちらの目とは平生合うことがない。
「君の友達なら、準備室のほうにいるよ」
笑顔で教室の扉を指し示すと、彼はおどおどしたまま、けれど少し安心したように頷いた。「あ、ありがとう……」
小さく頭を下げて、中へ入っていく。その、扉の静かな開け方、丁寧な閉め方に、ああ可愛いなあという思いが湧き上がる。
“迎え”が来たなら、一先ずは安心だ。再び壁へ寄り掛かって、流石に校舎の中では火を点けることのできないタバコのケースを弄びながら、掃除当番がやって来るのを待った。
護り

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