キセカト

護り

「ほら、カトラリーくん……! これ、当てて」
 掃除当番の子たちに用件を伝えて、ついでに少し談笑してから生物室に戻ると、キセルの切羽詰まったような声が聞こえてきた。
 見ると、さっきまでいた薄暗い準備室のほうではなく、併設の生物室のほうへカトラリーの姿が移動している。
 窓際のスチール椅子に、折り畳んだスポーツタオルが敷かれて、その上へちょこなんと座っている。下ろした膝へぎこちなく添えられていた手がおずおずと持ち上がり、キセルから手渡されたものを受け取った。
「あ、ありがと……」
 あれは、ポリ袋に包まれたホットタオルだ。大人しく下腹部へそれをあてがうカトラリーへ、キセルが感情の昂りへ着いていけず震えてしまっている声で言い募る。
「も、もう……! そんなとこに、直に座ってちゃ、冷えるでしょって、言ったのに……! 上着も、着てないし……こ、ここって、寒いんだよ? か、からだに、障るから、……だから……ね……?」
 泣いてしまいそうな顔で、カトラリーの目をじっと見つめている。カトラリーはそっと、首を竦めて聞いている。悪かった、とタバティエールも思って、肩を竦めてしまう。だって、君の言うことしか聞かないんだ、その子は。そういう意味で、同じ立場で叱ってくれる存在がいるっていうのはいいことなのだろうなと、いつも思う。
 キセルは丸椅子をもう一つ、カトラリーの真後ろへ、彼の椅子にくっつくくらいまで静かに引き寄せてくると、そこへじぶんで座った。両の足の間へ、カトラリーの身体を椅子ごと挟み込むようなかたちになると、彼の身体へ腕を回す。
 キセルは、背中側から抱きしめるような格好で、カトラリーの下腹部へと手を添えた。
 カトラリーの手から預かったホットタオル越しに、優しくあたためようとするように、じっと両手をあてがっている。カトラリーのほうはというと、そんなキセルの腕へやわく指を絡めて、安心しきったように背後へ体重を預けている。キセルは泣き出しそうな表情のまま、それをしっかりと抱き留める。
 すっかり見慣れた光景へと事態が落ち着いたことに安堵して、タバティエールは明日のための授業準備に取り掛かった。

「……先生、ありがとう」
「ありがと……さよなら」
 生物室の前でもういちどそう言って、ふたりは帰っていった。
「うん、どういたしまして。またな」
 タバティエールは、廊下に出てふたりを見送った。
 カトラリーは自分の荷物くらいは持てると言い張ったのだけれども、キセルのほうがどうしてもそれを聞かなくって、結局、ここへ来たときと同じように、キセルがふたり分のバッグを提げていた。その背中はもう振り返ることはなかったけれど、キセルがそっと差し出した手を、ややあってカトラリーが取った様は、見守るタバティエールの心を和ませた。
「……」
 廊下の角を曲がってふたりの姿が見えなくなってから、タバティエールは漸く生物室へ戻ってきた。
 カトラリーには、何か少しでも嫌な思いをしたり不安に感じることがあったりしたら、すぐに自分やフルサトへ報告するようにと、日頃から言い含めてある。キセルはほんとうに優しい子だし、彼を信頼していないというわけではないけれど。そういう心配は、やっぱりしておいてやる必要があると、考えている。
 キセルも、カトラリーも、ほんとうに優しい子だから。
 だから、余計にだ。
 優しくて、自信がなくて、遠慮しがちで、傷つきやすいから。ひょっとしたら、自分自身の心や身体よりも、相手の欲望のほうを優先させてしまうかもしれない。そうなれば、きっとお互いが深く傷ついてしまう。
 そんなことはぜったいに避けなくてはいけない。彼らがそんな、取り返しのつかない傷つき方をすることだけはあってはならないのだ。守らなくては。自分たちが守ってやらなくては。タバティエールは、ほんとうはずっと願っている。守れる限り守ってやりたい、可愛い子たちのことを。
「……せんせ」
 黙々と書類を整理していたタバティエールは、ぎょっとして顔を上げた。こつこつ、と音がして、見ると、教室の外から、キセルが控えめに窓を叩いていた。
 鍵のかかっていなかった窓をからからと押し開けて、カトラリーが首を覗ける。
「前言ってた小テストって、明日?」
 夕方のやわらかな金色をしょって、四つの瞳がぱちぱちと自分を見つめている。胸が不思議にぎゅっとするのを感じながら、タバティエールは答えた。
「ああ。君らのクラスは、明日だったか……けどまあ、大したもんじゃないし成績に大きく影響するわけでもねえから、受けなきゃマズイってことはないぞ。何なら一応、後日受け直す機会も作るけど」
「ふうん……僕らに問題解かせてる間、じぶんはラクできる、ってだけの話か」
「はは……べつに授業を面倒だと思ったことはねえんだが」
 邪推に苦笑を返すと、カトラリーは黙って頷いた。その目はもうこちらを見ておらず、窓の外のある箇所を指差してこう言う。
「あの茄子、もうかなり熟れてきてない?」
「ん? あーホントな……明日にでも、晴れたら収穫しとくか……」
「……手伝わないこともないけど?」
「はは、ありがとな。君の体調がよかったら、お願いしようかな。そのときは、キセルくんも一緒にね」
 振ると、キセルは一瞬びっくりしたように目を見開いて、それから嬉しげに頷いた。
 管理者の趣味によりほぼ畑と化しているビオトープには、これからが旬の野菜も幾つか育っている。明日でなくても、彼らに手伝いをお願いできる機会はまだあるだろう。
「まあ、無理はするなよ。君の身体がいちばん大事なんだから。……君らが元気で笑っててくれれば、先生はそれがいちばん嬉しいわけ」
 最後の一言は、冗談めかして言い切った。
「さ、冷え込む前に早く帰れよ。またなんか分からんことがあれば、メールでもしてくれればいいから」
 素直に頷いたカトラリーは、ふと、キセルにだけ荷物を持たせたままだったということに気づいたようで、ひどく慌てた。その慌てようを見て、キセルのほうも慌てた。タバティエールは声を上げて笑った。
「――ああ、それと! もし帰り道で何かあったり帰り着く前に暗くなったりしたら、俺かフルサト先生が迎えに行くから、そのときはやっぱり電話しろ!」
 自分で閉めかけた窓を慌てて開け直し、身を乗り出す勢いで言いつけると、遠ざかりかけていた背中が振り返って、空いているほうの手をひらひらと振った。小柄な彼のその所作は、要らない、と言っているようにも、ありがと、と照れているようにも、見えた。

 彼らが“恋”をしているのかは、分からない。所謂、そういう関係を結ぶことを望んでいるのかも、分からない。
 けれど、お互いをひどく大切に思い合っているのだということは、傍で見ているだけの自分にも分かった。
 カトラリーだけでなく、キセルにも勿論、何かあればどんなことでも遠慮せずに自分たちへ話すようにと伝えてある。
 ――君たちが心から笑えるのなら、それがいちばん。
 夕陽に照らされるふたりの擽ったそうな横顔を見送りながら、タバティエールは、それが確実に守られることを願っている。

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