キセカト

翳り

「……」

 硬い丸椅子の上で膝を抱えている。日差しの陰に溶け込むような、小さな身体。
「……」
「……薬、効くか?」
「……」
 かろうじて頷いたように見える。それでもその顔には明らかに影が落ちていて、少し隈も浮いているように見えた。
 ここの時計はこんなに五月蝿かっただろうかと思うほど、秒針の音が大きく響いている。
 いつもと同じ筈の生物準備室で、いつもと同じように膝を抱えている筈の子に、けれどもいつもと同じようには、迎えは来なかった。
「……やっぱり、」
「……え?」
 嘲るような軽い笑声を、聞き咎めた。拾い上げる自分の耳のほうをどこまでも疑っていたいような、乾いた声。
「僕ね、……なんか、キセルに避けられてる、かも」
 きしきしと音がする。紡がれた言葉の一つ一つが、その内側に悲鳴を飲み込んでいるような。
「〝かも〟じゃないなあ。今ので確信しちゃった。……ごめんなさい。ほんとは、ここに来たときから、もしかしたらって分かってたけど。言えなかった、……怖くて」
 顔はすっかりと見えない。話しながらカトラリーは、抱え込んだ膝に前髪ごと額を埋めてしまっていた。
「変にお人好しじゃん、あんたも、フルサト先生も。いっつも来てくれるキセルが今日は来ないなんて、多分、心配するから……ああ違うなあ。……きっと僕が、嫌だったからだね。僕が、来てくれるかもって、この期に及んで思いたかった、から」
 最後は溺れるように溶けた。泡沫のように呼吸が弾んだ。それを聞き拾ってしまう自分の耳を、やっぱり疑っていたかった。

 正確には、キセルは来なかったのではない。来たけれど、すぐに一人で帰っていってしまっただけだ。
 それだけ。
 膝を抱えている肩には、そのときにキセルが持ってきた、カトラリーのコートがきちんと掛けられている。その足許には、同じく彼が持ってきたカトラリーの鞄。
 ――あったかくしてね、薬も飲んでね、無理しないで、せんせ、彼のこと送ってあげて、お願いします。
 ――じゃあ……お大事に。
 キセルが並べ立てたのは、いつものように、しつこいくらいに、カトラリーを労わる言葉だった。
 矢継ぎ早に言うなり踵を返そうとするキセルに、タバティエールは多少驚いた。今日は君は、と追い縋るように慌てて訊けば、彼の肩はびくついた。
 ――え、えっ……と……あの……ぅ、ちょっと、……あの、用が、あって……。
 目を合わせないどころではなく、完全に俯いたまま発せられた答えはあからさまに言い訳じみていて、タバティエールは流石に訝ったものの。

 ……どうしたものだろうか。
 微動だにしない背中を見る。コートに覆われた背中では、呼吸をしているのかどうかさえ定かでない。秒針の音が五月蝿い。タバティエールは鼻白んだ。
 見るからに沈んでいるカトラリーのことも可哀想だが、キセルのことも気になった。彼が他ならないカトラリーのことを後回しにして行かなければならないなんて、よっぽどのことなのだろうと考える。それも、あんなふうに隠さなければいけないことだなんて。彼の家は金銭的にあまり余裕があるほうではないのだと聞いている。また、彼自身もああ気が弱い子だ。何か大変なことに巻き込まれているとかではないといいのだけれど。
 そこまで想像が及んでしまうとどうにも不安で、早いとこ彼の腕でも首根っこでも捕まえてきて根掘り葉掘り事情を聞いてやってしまいたくなる。けれどもそれは自分自身の情動でしかないと分かっているから、タバコを深く吸い込んだときのように、ふうっと息を吐き出した。
「……ごめんなさい……」
「……え」
 くぐもった謝罪が聞こえて、タバティエールは混乱した。ぽかんとして、一瞬後、自分の吐いた息が盛大な溜息と聞こえ得たことに思い至った。
「違うよ、俺も混乱しちまって……深呼吸ってやつだ」
 こんなとき、ほんとならタバコ吸いながら考えるんだけどさ、ほら、校舎の中じゃそうもいかないだろ?
 そう付け加える。冗長なくらいでいい。
 カトラリーは少し笑った。あんたいつもタバコくさいから吸ってもべつに変わんないよ、などと。
「……ほんとはね、分かってるんだ」
「……何がだい?」
 努めてやわらかく相槌を打つと、カトラリーは漸うゆるく顔を上げた。けれども、少し眩しそうにして、またことんと伏せてしまった。
「毎回毎回、付き合わせて……荷物まで持たせて、のろのろ歩いて帰って、しかもそれが毎月だし。
 ……キセル、すごくひとに気を遣うから、それだけで相当疲れる筈なんだよね。体調のいいときでも、一緒にいてくれるし。僕なんかと、ごはんまで一緒に食べてくれた。ずっと一緒にいてくれて、お喋りしたりしなかったりして、手、握ってくれて、あったかくて……そんなにいろいろしてくれたのに、ぼくは、キセルになんにも、してあげられなかったから」
 かたん、かたんと器用に丸椅子を揺らす。そのまま小さな身体が転んでしまいそうで、見かねて手を伸ばす。
「だから、うーんと、キセルが嫌になるのは当たり前なんだよねって、分かってるんだ」
 かったん。愈々バランスが崩れて、ずるりと椅子の脚が床を滑る。生徒の身体には不必要に触れないようにしているけれど、これは流石にノーカンだ。後ろ向きに落っこちそうになった身体を抱きとめて、そのまんまぺたんとふたりで床に座り込んだ。
「……椅子、すごい音したな。身体打ってないか?」
 カトラリーは目を丸くして、タバティエールの顔を振り仰いだ。
「……うん、大丈夫……」
「そっか、よかった。……ほら、身体冷やすなって、また泣かれちまうぞ」
 ずり落ちてしまったコートを引っ張り上げて、肩へ掛け直してやると、カトラリーはその合わせをそろそろと握って、小首を傾げた。
「もう、僕のことなんかどうでもいいんだから、泣かないよ」
「どうでもよかったら、こんなふうに上着掛けてってくれたりしなかっただろ」
「……けど、掛けてくれた後……なんか、すぐ離れてったんだ、その、なんか嫌なものに、触ったみたいに」
「それは……気を遣ったんじゃないのか。ひとの身体にみだりに触れちゃ失礼だと思って」
「先生が今、僕に気を遣ってるよね。……まあ当たり前か」
 カトラリーはふるふると頭を振った。春草色の癖毛がやわらかく跳ねて、それから元のところへ落ち着いた。
「うーん……なんか、夢でも見てたみたい。椅子から落っこちたら、もう、どうでもよくなっちゃった」
 そんなふうに呟いて、誰もいない生物室のほうへと、ぼんやりと視線を投げる。
 やっぱり薄く隈ができていて、その声も、どこか乾いていた。
「……、」
 何を言うべきか、少し惑う。カトラリーが言うように、キセルは、ひとにとても気を遣う子だ。それにひどく根が優しい。元気のない子の世話を焼いているうちに、普通の人間がそうなる以上に相手の空気に引きずられてしまっていたのだとは十分考えられる。それで、彼自身が消耗してしまっているのかもしれない。
 だとすれば、キセルを責めることなぞは勿論できないし、またそれと同じくらいに、例えば彼は君といるのが嫌になったわけではないだろうなどとカトラリーに向けて無責任な言葉を掛けることも、とてもできなかった。
「……カトラリーくん、今日、お兄さんの車がいい? それともお姉さん?」
 ふは、と、小さな唇から空気が漏れた。
「おっさんとおばあちゃんでしょ」
「はは。年の功をばかにするなよ〜」
「ばかになんかしてないよ。……ありがと」
 カトラリーは床の上で、また身体を折り畳もうとするように、膝を抱えた。
「けど、もうちょっと、動けないかも……最近、調子よかったのに……またひどくなってきちゃった」
 片手を脚と胴の間に捻じ込んで、ぎゅっと腹を押さえる。
「なんか、変……なんかずっと頭も痛くて、変だな、もう大丈夫だと思ったのに……おかしい……お、おかしいよ、やっぱり、僕……」
 乾ききっていた筈の声が俄かに湿ってきて、あっと思ったときには、ぼろりとブラッドオレンジの球体から滴が溶け出した。
「な、何、これ……あ……変、ねぇ、ど、どう、しよ、」
 軽くパニックになったようにぐしゃぐしゃと目許をこすりだす。
 どうしよう。彼の問いを思わず自分の胸で復唱するほどに、タバティエールも静かに慌てている。白衣のポケットを探るとハンドタオルが触ったけれど、昼間これで薬品を拭いてしまったような気もするから、差し出すことができない。
「き、せる……」
 喉を擦り切るようなか細い悲鳴が落ちた。
「たっ、……たすけ、て……、……せんせ、」
 縋られて、はっとする。
 目の前の子どもは、まるで自分の存在を擦り潰そうとするみたいに、やみくもに顔をこすり続けている。
「たすけて」
 ああ。
 もう大丈夫。なんにも心配することなんかないよ。先生がぜったいに助けてやるから。

 ――何の根拠もなくそう口走って、シャツの胸ポケットで生き残っていたハンカチを手渡した。

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