キセカト

翳り

「――フルサトせんせ」
「アラ! タバティエールちゃん」
 保健室の扉をからからと開けると、回転椅子を丁寧に向き直らせて、フルサトがゆったりと微笑んだ。
「今、あんた一人かい?」
「ええ。ベッドを使ってるコもいないワヨ。……どうしたの?」
 薄々察しているのだろうが、ゆるく首を傾げて訊いてくれる。まだ緊張していた胸がとくとくと溶け出してゆくのを感じながら、半分も開けなかった扉の陰を、ちらっと目で示した。
「一人、話を聞いてやってもらえねえかな」

「――マア! カトラリーちゃん……!」
 部屋に入ったカトラリーが上着のフードを持ち上げるなり、フルサトは跳ねるように立ち上がって彼の頬へ飛びついた。
「まあ、まあ、こんなになるまで、ツラかったワネ……ああ、でも、おっきなおめめが溶けちゃわなくって、よかったワ……」
 フルサトは躊躇いもなく、カトラリーの顔へ挟み込むように両手を触れて、真っ赤に泣き腫らした瞼や涙の跡の残るほっぺたを労わるように揉むように撫でている。カトラリーは最初こそぴくりと肩を跳ねたが、普段から彼のスキンシップを嫌ってはいないので、特に止めはしなくて大丈夫だろう。
 カトラリーの頬が泣き腫らしたのとは別の理由で桃色に染まってくると、フルサトは最後にぎゅっとそこを包み込んでから、優しく手を離した。
「明日に残っちゃうかもしれないから、冷やしておきましょうか。……ああ! 明日無理に学校へ来なきゃイケナイって意味じゃナイワヨ! 朝起きて、鏡に昨日のツライ記憶が映ってたら、それだけでチョット落ち込んじゃうじゃナイ?」
 部屋の隅に備えてある冷凍庫へ向かいながら、忙しなく振り向き振り向き付け足すものだから、転んだりぶつけたりしやしないかとひやひやする。俺がやろうか? と堪らず申し出ると、タバティ先生はお茶の用意をシテ〜! と振り向きもせずに返された。
「カトラリーちゃん、バニラとチョコレート、どっちがイイ?」
「えっ? え、ええと……」
「フルサトせんせ、この子今、生理痛でつらがってるから、アイスクリームはちょっと」
 なぜか保冷剤のそばに場所を取っているファミリーパックの箱に、気の抜けた溜息が出た。
「マア、それはいけなかったワ。じゃあ、こんど一緒に食べましょうネ……今日はえーっと、たしかこの辺に、小豆もなかが……おっととと?」
「おおおおい馬鹿!!」
 仕切り板へ足を掛けて本棚の上を漁ろうとしたフルサトに、嫌な予感がして駆け寄ってよかった。バランスを崩した彼の肩を間一髪で支え、ここにはいない彼の息子の代わりに小言を言い含めながらお茶を用意する。広いスチール机の上に急須と三つの湯吞、無事に見つかった小豆もなかが並んだ。
「……」
 コンロの上でやかんがしゅんしゅんと沸いて、噴いた湯気が窓硝子を曇らせる。すっかり暗くなった窓に、白い色がくっきりと映えた。
 やかんを火にかけてから急須へお湯を注ぐまで、カトラリーはパイプ椅子に座り、タオル地に包まれた保冷剤を静かに瞼へ当てていた。
「お茶が沸いたわねえ」
 フルサトがのほほんと声を上げる。カトラリーは両手で持った保冷剤をほっぺたの位置まで下ろしてきて、露わになった目で、タバティエールの淹れるお茶の色をじっと見つめた。
「カトラリーちゃんは、淹れてすぐのお茶、飲めるのネ」
 自身もお茶を啜りながら、フルサトがなんだか感心したみたいに言う。なんだそりゃと苦笑していると、カトラリーがぽつりと言った。
「……キセルは、ちょっと猫舌……」
 はっとして見ると、彼は湯呑みを両手で包んで、緑色の水面へ沈み込むように目を落としていた。
「そう……カトラリーちゃんは、キセルちゃんのこと、とってもよく見てるのネ」
 何かを察したのだろう、フルサトの声が、朗らかなまま、すっと深くなる。項垂れてしまった顔を覗き込もうとするような、けれどもけっして、強いることはしない声。
 オレンジ色へ張った滴が、瞬きに耐えられずに、落ちた。
「……みてる……見てたかった、けど……それだけじゃ、だめだったんだ……」
 見る間に睫毛が濡れそぼり、ぱたぱたと腿の上へ染みが広がる。
「せんせ、……せんせい、」
 震える右手が湯呑から離れて、自身の目許を拭う。
「なみだって、どうやったら、とまりますか……?」

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