キセカト

語り

 ……せんせ。
 珍しい声から呼び止められた。
 昼休みが終わろうかという頃。午前中の授業では珍しく姿を見かけなかった彼が、廊下を歩いていたことに安心した。コートを羽織って、通学鞄を提げている。今、登校してきたのだろうか。
「おう、キセルくん」
 浮かぶままの笑みで名を呼ぶ。ちょうどよかった、と続けそうになった口は噤んだ。彼には聞きたいことが山ほどあった。カトラリーの泣き顔を見ることになったあの日から三日。タバティエールの心配は募るばかりだったけれど、なかなかキセルを捕まえることができなかったのだ。
 ほんとうはこのままどこかあたたかい部屋へ引っ張り込んで、こまごまと問い質したい。けれども、焦りは禁物だ。せめて、今、声を掛けてきてくれたその用件を、きちんと聞いてやらなくては。
「……ぁ、の……え、えと……」
 コートの合わせをぎゅっと握りしめる。内気な彼の癖だ。逸らされていた視線が、そろそろと持ち上がって、
 目が、合った。
「……話を、聞いて、もらえませんか……?」

 自分にきちんと相談しに来てくれたということだけで、なんかもう一生分くらい褒めちぎってやりたい。
 タバティエールは衝動的に大真面目にそう思った。
 午後の授業を中止した生物準備室。彼はぐすぐすと泣いていて、フルサトではないが、その真っ黒な球体が真っ黒な睫毛と一緒に溶けだしてしまいやしないかとひやひやする。
 漸く自分の速くなっている鼓動に気づいて、ゆっくりと深呼吸をした。呆れた溜息には聞こえないように。教訓を噛み締めて、吸って、吐く。目を閉じて、開く。彼は泣いている。膝を抱えている。目は、溶けだしていない。そしてここにいる。大丈夫。
「――先ずは、話してくれて、ありがとうな」
 ゆっくりと言う。音そのものに反応してだろう、キセルの肩がびくりと跳ね上がる。その様にまた軋みそうになる心臓を、意識して落ち着ける。敢えてゆっくりと言葉を選ぶ。どれから、一緒に話してゆこうか……。
「……〝暴力を振るうかも〟っていうのは……その感覚は、ずっとあるの? それとも、衝動的にふっと湧くことがある感じ?」
 確かめる順番がこれで合っているのかは分からない。けれど、とにかく、聞くつもりだということ、一緒に考えるつもりだということだけは、伝えたかった。
「ぅ、……え、と……」
 涙声が、しゃくりあげるみたいにちいさくひくつく。箱ティッシュを渡して、教訓を受け備えておくようになった綺麗なタオルを渡して、なんかもう渡すことしかできなくて申し訳がないけれども、氷の残るカップにあたたかいお茶を淹れ直した。
「ゆっくりでいいよ。何も急ぐ用事なんかないんだから」
「あ、あり、がと……」
 こちらの差し出したぜんぶを、おろおろと拙い手つきで受け取ったキセルは、落ち着いてきた頃、そろそろとお茶のカップを持ち上げた。
「せんせ、俺が猫舌なの、知ってたの……?」
 純粋な疑問。安心して隙だらけの表情に、こんな答えは、ほんとうは返してはいけないのかもしれないけれど。
「カトラリーくんが、そんなこと言ってたなあと思って」
「……、……」
 こちらが身構えたよりも、彼のダメージは少なかったように見えた。少しだけ息を詰めた後は、穏やかな呼吸に戻って、そろそろと下げた視線を、両手に包んだカップの水面へと落とす。保健室で見た、あの子の姿が重なる。
「……カトラリーくん、……俺のこと、話すの……?」
「ん……まあ時々、な」
「……俺のこと、嫌がってる、みたい?」
 そう言ったとき、声が湿っぽく溶けた。思わず、その顔を覗き込むように見つめる。
「そんなことはないよ」
「……そっか」
 信用していない言い方で、ちいさく笑った。
「……ずっと、かなぁ……初めて会った頃は、今までは、そんなことなかったのに……最近は、もう、ずっと」
 何が、と聞き返しそうになってしまい、すんでのところで思いとどまった。答えだ。先ほど自分が問うた、その答えを、彼はじっと考え続けてくれていたのだ。
「けど……そう、衝動的、に……不意に強くなることも、ある」
「……そっか」
「せんせ……」
 眦の下がった視線が、そろりとこちらを見つめる。
「なんで、優しくしてくれるの……?
 俺、カトラリーくんにひどいこと考えてる……怒られても、どんな罰を受けても、当然なのに……」
「だって君は、ひどいことを実際にしたわけじゃないだろ。ひどいこと考えてる、って段階で俺に話してくれるってことは、カトラリーくんのこと、ほんとうは傷つけたくないって思ってるんじゃないのか」
 そんな君を今責める理由なんてない、と言い終わらないうちに、キセルの目から涙が溶けた。
「っ、……かとらりー、くん、……」
 いつか、誰かの声で聞いたような悲鳴が、細く落ちる。
 慣れることなんかなく、タバティエールの胸はきしきしと軋む。自分はせいぜい頼られた際に幾らか手を貸せる程度の迷子係で、彼らがほんとうに縋りつきたいのは、他でもない、はぐれてしまったお互いである筈だった。
「せんせ、どうしよう……、どうしよう……俺、カトラリーくんに、恋を、しちゃったんだ」

タイトルとURLをコピーしました