キセカト

語り

 心配をしておいてよかったのだ。
 キセルは何も、己の恋愛感情そのものを短絡的に〝暴力〟と結びつけて怯えているわけではなかった。それでも、若い彼がひとりきりでぐるぐると思い悩むうちに、ぬかるみで動けなくなってしまったことは確かなようで、しかもそれは、彼の心根がやっぱり優しかったからなのだ。
 その先の傷つき方をふたりがしてしまう前に、自分を頼りに来てくれてほんとうによかった。目の前で零される語りへ聞き入りながら、タバティエールはこの優しい子を一生分ほど労いたくて堪らなかった。
「すき、だったのは……ずっとなんだ。カトラリーくんのこと……俺なんかと一緒にいてくれて、話しかけても、近くに寄っても、嫌な顔、しないでくれて……ごはんを初めて一緒に食べてくれたとき、夢みたいにきらきらしてたの、覚えてる……。か、カトラリーくんはね、お喋りが得意じゃないって、言うんだけどね、俺なんかより、ずっと上手……料理もね、すごく、……すごく、上手で……」
 泣き腫らしたのとは明らかに違う、やわらかな桃色が頬へ差していた。黒蜜が張ったように目の表面が揺らいで、声音の彩度が落ちる。
「……楽しかった」
 椅子の上で、長い脚を畳み込み膝を抱える。衣擦れの音さえ響かないのが、彼のために心を砕きたい耳を切なくさせた。
「初めてだったんだ……誰かといて、楽しいって、思えるの。俺なんかと喋って、あんなふうに、笑ってくれたのも……手、繋いでくれたのも、俺のこと、見ててくれたのも……。
 ……誰かを愛すのって、こんなに幸せなことなんだって、初めて、知った」
 静かに瞬く。一筋、滴が伝う。
「だから、ね……この気持ちが、特別な恋かどうかなんて……ほんとは、分からないんだ……。俺には、カトラリーくんしかいないから。でも、……大切なんだ。カトラリーくんのこと、愛してるし、ほんとうに、大切なひと……それだけは、ぜったいに間違いじゃ、なくて」
 そろりと、怯えた獣のような瞳が上目遣いにこちらを窺う。
「うん。そっか」
 シンプルな頷きだけを穏やかに返すと、黒蜜がまたぽろぽろと溶けた。
「……、かとらりーくんが、すき」
「うん」
「すき……」
「そうなんだね」
「たいせつ、なの」
「うん」
「きずつけたく、ない、……」
「君は、優しい子だもの」
「優しくなんか……! ない、よ……」
 俄かに荒げる。声は、大人しい喉がついていけずに、痛ましく震えた。
「俺、は……だって、カトラリーくんに、ひどいこと、」
「さっきも言ったろ。君はまだ、何もしてないよ」
 少しだけ、語気を強めて言い聞かせると、キセルの肩が震えた。こちらと目を合わせようとして、結局、躊躇いがちに逸らした。とても素直な子だから、耳を、貸してくれる。口調を和らげる。
「君はカトラリーくんのことを心から大切に思ってて、同時にそんな彼のことを傷つけてしまうかもしれなくって、でもほんとうはぜったいにそんなことしたくないから、こうして話しに来てくれたんだよな? ……大丈夫。君はまだ、君の大事なひとを傷つけてないよ。今、ちゃんと考えれば、これから先も傷つけずに済むかもしれない。だから、一緒に考えよう」
 キセルの目が、ほんの一瞬、齧りつくような深さで、タバティエールの目を見つめた。怯みそうになる心を叱咤する。守れる限り守ってやると決めたじゃないか。生半可な同情でひとりの子どもの心をあしらえるほど、自分が器用でないことくらいは知っている。
「……ほんとう? 一緒に考えて、くれる……?」
「ああ。勿論」
 真剣な顔で頷いて見せる。
 ……キセルは、机に置いたカップの縁を、ちろちろと指でなぞった。はにかんだように、身を竦めながら、ちょっとだけ笑った。
「考えるために、そうだな……君の話を、もうちょっと詳しく聞きたいな。
 ……なあ、キセルくん。君の言う〝暴力〟って、具体的には一体どういうものなんだ?」
 少し急いた質問かもしれない。
 けれども、これは、判然させておかないと向かうべき方向が見えてこないものでもあった。キセルの目許が少し強張る。けれど、やはり話してくれるつもりだったのだろうから、それは、逃げを打つためではなくて決意を固めるための間のようであった。
「あ、の……あの、ね、」
 くしゅりと、スラックスの膝へ皺が寄る。握り締める手の甲へ、もう子どものやわらかさではない骨の筋が浮かぶ。
「俺……カトラリーくんに、触りたいって、思うの。
 抱きしめたり、キス、したり、……セックスしたりしてみたいって、思うように、なっちゃったん、だ」
 そこまでを言い切って、震える息を吐き出した。張り詰めていたものを、押し下げようとするように。
「そうか」
「……ひどい、よね」
「何がだよ。無理矢理実行しようとしたわけでもないんだろ」
「……しちゃうかも、しれない」
「……そうか」
「だ、だから、こわ、い」
 がくがくと震えだす。まずい、と思った。
 どうしよう。
 誰のものか分からない声が頭の中で問い質す。こちらでは幾らか予測していた答えではあったけれど、それを述べ立てるキセルの様子が、案外冷静なふうに見えてしまったから。
 なんのことはない。つい今しがたまで、この同じ子の痛ましい泣き顔を、目の前で見ていた筈なのに。油断した。油断した。全てを自分の中で冷静に処理できているのなら、そもそも彼がここでこうして話してくれていること自体があり得なかったのに。
 ごめん、と思わず口を突きそうになる言葉を必死で呑み込む。自分が焦ってはいけない。狼狽してはいけない、それを彼自身にだけは何があろうとぶつけてはいけない。どうしよう? 落ち着け。それだけだ。守ると決めたのだ。お前にできるのはそれだけだ。今すべきなのは、それだけだ。
「か、かとらりーくんをっ……い、いつか、いつか、おれ、そんなふうに、……いや、だ、いやだ、そんなの、……でもっ……おれ……こわ、い、じぶんが、いつか、我慢できなくなっちゃったら……? もし、じぶんの不満を……彼に、八つ当たりしちゃうようなことが、あったら……? しない、なんて、言えな、じぶんでじぶんのこと、そんなことぜったいしないって、信じきれない、こわい、……こわい……こわい、こわい、よ、せんせ……」
 怖い、と繰り返すキセルに、耐えきれず席を立った。
 そっと歩いて、彼の傍へ屈み込む。そして、むごいほどに震えてしまっている背中を、ゆっくり、さすってやった。
「そっか、……怖かったんだ、な」
「……っ、ぅ……」
 ぼろぼろとひどくしゃくり上げている。彼の言葉を急かさないように、ゆっくり、ゆっくり、背をさすり続ける。
「……ぁ、う、……お、れ、」
 息を吸う間に無理に言葉を出そうとするから、とても苦しそうだ。そんなふうにいたわしいほど急くことなんてけっしてないのだけれど、その声が、義務感から紡がれる応答というよりも、彼自身のどうしても吐き出したい語りなのではないかと思われたから、慎重に耳を澄ませた。
「うん」
「、……ほんとは、……きずつけ、たく、ないんじゃ、なっ……、……きら、われるのが、こわい、から……。か、かとらり、くんに、いやがられるのが、や、だから……だからっ、おれ、やさしく、な、自分勝手、で、ご、ごめ……ぅう、ごめん、なさい、かとらりー、くん……」
 キセルの手が、縋りついてくる。そのままずるずると体重がこっちへ乗っかってきて、焦る。カトラリーほどには小さくない身体を、椅子から落っこちてしまう前に必死で抱え上げて、そろりそろりと床の上へ降ろした。キセルの額が胸へぎゅっと押しつけられる。痛いくらいにしがみついてくる指に、ああ、ほんとうにずっとひとりきりで耐えてきたのだなと思った。
 そうっと腕を回す。抱きしめるとはいかないまでも、応えてやらなくてはいけないような気がしたから。これもノーカン……だろう。触れるところがあたたかい。せぐりあげる声がくぐもって響く。
 黒い髪をあやすように撫でていると、少しずつ、少しずつ、キセルの様子は落ち着いていった。
「……せん、せ」
「んー?」
 胸許から聞こえる声に淡い気恥ずかしさを捉えて、少しおどけたふうに覗き込む。案の定、キセルはひゅっと首を竦めて、居心地悪そうに視線を泳がせた。
「あの、ご、ごめんなさい、服、汚して……」
 恐る恐るといったように、すっかり色の変わった胸許へ、指先を触れる。タバティエールは明るく笑った。
「汚れたって言わないんだよ、こういうのは」
 濡れたままの目許を指で拭ってやって、ぽんぽんと頭を撫でる。キセルは目を見開いて、それから、擽ったそうに息を吐いた。
「なあ、キセルくん」
「……は、はい」
 びくりと居住まいを正す。こんな堅い床の上で、正座までしなくってもいいんだよ。
「カトラリーくんのこと、ほんとうに大好きなんだなあ、君は」
 しみじみとした問いを噛み締めるような間をおいてから、黒い頭は、こっくりと頷いた。
「……カトラリーくんと、いるとね……息が、できるんだ。すごく、安心して……息をしなきゃ生きていけないんだってことを、忘れられるくらいに、気がついたら、いつも、自然に呼吸してる……。
 だ、だから、頑張って恩返ししなきゃって、思うんだけど。俺なんかが、役に立てるのなんて、カトラリーくんが、偶に体調を崩してるときくらいで……そ、それなのに、ね。カトラリーくん……『いつもありがと』なんて言って、お弁当、作ってきてくれて。あ、あのね、カトラリーくん、ほんとうに料理が上手なんだ。とっても、美味しくって、とってもきらきらしてて、……こんなに美味しい料理、きっと世界中のどこを探してもないんだろうなあって、俺、ぜったいにそうだって、思う」
 乾ききらない睫毛が、しかし金色にきらめいている。
 心から幸せそうなその色と、たどたどしくも次から次へと溢れ出てやまないのだろう言葉。思わず、やわい苦笑が漏れる。
「彼に直接言ってあげなよ、それ」
 あるいは彼ならとっくに日頃から伝えているのかもしれない。そんなふうに思っていると、キセルは見る間にしゅんと眉根を寄せた。
「……もう、できないよ。だって、もう一緒にいられないんだから」
 投げやりなふうではなく、とても神妙な声だ。
「今、彼といるのは……やっぱり、つらい?」
「……う、ん」
「……自分自身を信用しきれないっていうことと、もし、その不安が現実になっちゃったときに、彼に嫌われちゃうかもしれないってこととが、怖いんだな」
「……うん」
 彼の語ってくれた不安を、慎重に整理する。それを神妙な顔で聞いていたキセル自身も、確かめるように、丁寧に頷いた。
「それに……さ」
 キセルは、頭の中で何かを探し当てようとするかのように、首をゆうるりと傾けた。
「……俺自身も、怖いけど……カトラリーくんだって、自分をそんな目で見てるヤツに、隣にいられたり、触られたりしたく、ないでしょ? そんなのは、さ……、き、気持ち悪い、よね。怖いよね、……嫌、だよね……」
 真摯な想像をその舌で紡いで、キセルはぎゅうっと目を瞑った。つらさをぜんぶ、その瞳の奥へ押し込めようとするみたいに。
 ……そんなふうにしていては、見える筈の可能性も見えなくなってしまうじゃないか。
「キセルくん」
 目はひらかない。その瞼には、今、僅かにでも光が映し出されているのだろうか。
「キセルくん、これからの話をしよう。君と、カトラリーくん……ふたりの、これからの話を」
「……そんなの、もう……会えなくなって、それで、終わりだよ」
 さっきまで金色の粉を弾いていた、あの笑顔はどこへ行ってしまったというのだろう。どこにも行くわけがない。あれは、この子のものだ。紛うことなく、目の前のこの子が持っている筈のものなのだ。
 そうすることで自分自身が消えてしまうことを望んでいるかのように、止まらない涙をこすり続けた彼の姿が蘇った。どうでもよくなった、と呟いた、何か大切なものが抜け落ちてしまったような貌も。身体の底から絞り出すように零された、名前を呼んで彷徨う迷子のような声も。
「――キセルくん。羊羹が好物だって、ほんとか?」
「……へ……?」
 あまりの唐突な台詞に驚いたのか、漸くキセルが目を開いた。混乱したように首を傾げて、「え、ぇ、えと……、はい……」とそれでも律儀に受け答える。
「そっか。小豆餡が好きなの?」
「ぁ、う、うん……」
「なるほどね」
 ――どこまで口を出していいのかは分からない。どこまで自分が動いてやれるのかも、分からない。もし、誘導すべき方向を見誤れば、この子たちをさらに深く傷つけることにもなってしまう。
 それでも、自分にできることは。
 彼が君を探して泣いているよって、迷子の居場所を伝えてやることくらいは。

「じゃあ、小豆もなかは、好きか?」

 ややあって、キセルの頭がこくんと頷くのを、確かに見た。

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