――かららん。
涼やかにベルが鳴る。
音と共に足を踏み入れた店内は、しかしどことないぬくもりを感じさせる内装だった。
実際に暖房も効いていて、知らず冷えていた肌がほぐれるように息をするのをタバティエールは感じる。
「いらっしゃいませ」
ベルの音の尾をそっと引き継ぐように、穏やかな声が迎えた。見ると、木目調のカウンターの奥に、ベストを纏った長身痩躯の姿。
「お好きなお席へどうぞ」
「ああ、いや」
店員の促しに、咄嗟に否定を返してしまう。奇妙な客になっている。店内をぐるりと見回した。こじんまりとしたカウンター、テーブルが二、三。けっして広くはないが、人の姿はない。
視線を戻す。従業員も一人しか見当たらない。彼が、ここのオーナーなのだろうか。モノクルの奥の顔立ちは、大分若く見えるけれど。
「ええと……ちょっと、人を探していて」
「おやまあ。探偵さんですか?」
「……まさか」
冗談なのか何なのか分からない返しに、思わず首を竦める。店内の照明は明るすぎず、彼の表情も、よく読むことができない。
「ミドルティーンの子で。綺麗な緑色の髪の毛で、横髪だけ伸ばした髪型で……背丈はこのくらい。見かけたこと、ありませんか?」
モノクルの彼は、少し首を傾げて考え込むようにした後、おもむろに頭を振った。
「そう、か……」
思わず肩が落ちる。当てが外れた……自分が外してしまったのか。
「その方を、ずっと探し回って来られたのですか」
「あ……ええ、まあ」
「外はさぞかし冷えますでしょう。あたたかい紅茶でもお淹れいたしますね」
「……ありがとう」
考えてみれば、営業中の店舗へ押し入るなりおかしな質問をするだけして何も落とさずに帰るというのは、礼を欠くことだった。彼の流れるような接客にも抗えず、結局、狭いカウンター席の真ん中をやや外した位置へ腰を下ろした。
「えーと……ここは、タバコは」
「申し訳ありません、ご遠慮いただいております」
「ですよね……」
意図を伝える目的のみで取り出しかけたタバコ入れを、そっと仕舞う。茶葉と木の匂いだけがあたたかく満ちている。自分にはとんと縁のない場所だ。
「当店は、紅茶に力を入れておりまして。お好みがおありでしたらお伺いいたします」
「あー……俺は、よく分からないので。お任せで」
「かしこまりました」
おすすめをお淹れしますね、と言って、流れるように働き始める。旧い映画の中の俳優のような動きをぼんやりと見ていた。
こと、と微かな音と共にミルクティーが供される。喫すれば、知らないほど深いコクとやわらかな甘みとを覚えた。素直にそれを伝えると、店員はにっこりと笑った。
「……紅茶って、こんな美味いものだったんだな」
「普段はあまり飲まれませんか」
「ええ……どちらかというとコーヒー。そしてタバコ」
「それは。このようなお店には足も向かれないでしょうね」
「そう、ですね。今日、こんなに美味しいお茶を頂けることになったのも、彼のことを探していたからで……」
言葉を切って、首を振る。
「……けど、間違えたみたいだ。彼がここで目撃されていないってことは、彼が来ていたのはここじゃあなかったってことだから」
そう、ここでないとするならば、彼は一体どこに行ってしまったのだろう。それとも、気配を消して家に閉じこもっているのか知らん。
無事、なのだろうか。
「ふふ……探偵さんのお話を、ぜひ、詳しく聞かせてくださいよ。勿論、他言はいたしません」
「……だから、探偵じゃあないですって」
楽しそうに、密やかに笑う顔を見る。彼は映画が好きなのかもしれないと、少し辟易とした気持ちで思ってしまった。
「職業ではなくったって、何かを切に追い求めれば、立派な探偵ですよ。映画の中の主人公は、みんなそうです」
やっぱりか。
「……そんなんじゃなくって。探しているのは、教え子なんです。俺は、その子の通う学校で働いていて……いろいろ話も聞いてやっていたんですけど。
……最近、あまりにも姿を見かけなくなったから、心配になって。家に様子を見に行ってみたけど、留守みたいで……途方に暮れていたとき、ふと、彼がよく通ってるって話してくれた喫茶店のことを思い出したので、探して来てみたんです」
慥か、ここと同じ名前だと思ったんだけど。呟く。なんだか喋りすぎてしまったような気がしなくもないけれど、行きずりの店だし、変にうきうきと面白い話を期待され続けるよりはマシだろう。もしかしたら、誰かに聞いてほしかったのかもしれないとも、少し思った。
細く息を吐き出して、カップを持ち上げる。探偵に出会えなかったことにがっかりしているのか、それとも端から営業トークの一環でさほど興味などはなかったのか、相槌らしい相槌も聞こえない。
しかし、この紅茶は美味しかった。少し沈着な気持ちを取り戻す。このお茶を目当てに偶に来てみてもいいかもしれない、と飲み干したカップを置いた、そのとき。
「もしかして、タバティエールさんでいらっしゃいますか?」
すでに飲み下していた紅茶を噴き出すことこそなかったものの、タバティエールはひじょうに驚いた。
カウンター越し、モノクルの奥の顔を思わずじっと見る。
「……失礼、どこかでお会いしたことが?」
「いいえ。恐らくはじめましてですね」
彼はにこりとする。その笑顔のまま、右手をこちらへ向かって差し出す。
「ケインとお呼びください。ここの店主です。
お会いできて嬉しいです、タバティエールさん」
「はあ、……?」
わけも分からずに、差し出された手をただ握り返す。なぜ握り返している。混乱を極める脳に、ケインの声が届く。
「――カトラリーさんから、よくお話を伺っておりますよ」
「……えっ!?」
思わず右手に力が籠もる。身を乗り出すように立ち上がり、握った手を引き寄せるように食らいついていた。
「やっぱりあの子、ここへ来てるのか!?」
「ええ、今日もいらっしゃいました」
穏やかな微笑みを絶やさずに答える。どういうことだ、なぜ隠した。しかも、彼の名前まで知っていた。彼から俺の話を――学校での話を聞いている? それも頻繁に……。
「あの子は……いや、……君は、君とあの子は、一体……」
「……何、と問われますと……何でしょうかねぇ。何にせよ、それは問題ではありません。
あなたは、カトラリーさんのことを心配なさって来られたのですよね? 今も奥にいらっしゃいますが、お呼びしましょうか」
「今、いるの!?」
「ええ。店舗の奥を私の住居とさせていただいておりまして、彼はそちらのほうに」
「……」
まさか、これは、危ない大人に捕まってしまっているのではないだろうか、カトラリーは。胡乱な印象が不安へと色を変えてゆく。でも、だとすれば、ケインが今、教師だと名乗った自分をカトラリーに会わせようとする理由は何なのだろう。意図が分からずに惑う。
けれど、本当にカトラリーがここにいるのなら、きちんとこの目で見て確かめなくては。彼の様子を。本当に『大丈夫』なのかどうかを。
そしてもしも、この不安が現実のものであったのなら。彼が暴力に晒されているようなのなら、その腕を引きずってでもここから助け出してやらなくては。
「……ああ、会わせてもらえるか」
「承知いたしました。ですが、」
一旦丁寧に請け負ったケインが、しかし但し書きを置く。
「私が確かに承れるのは、彼にあなたの意思をお伝えするところまでです。実際にあなたとお会いになるかどうかは、彼自身の意思のみが決められることですので」
そこまでを聞いて、胸裡にさっと不安の青が重ね塗られる。彼の狙いは、もしやそれなのではないか……カトラリー自身が会いたくないと言っていると、俺に嘯いて見せるまでが、彼の。
「……ああ! そうと決まれば、少々立て込むかもしれませんし、お店を閉めてまいりますね」
「えっ? あ、いや……」
そこまでしなくても、と咄嗟に否定しそうになり、慌ててその先を飲み込む。他の客はいないほうが、却って、何かあった際に有耶無耶にされずに済むかもしれない。「……いや」重ねて、先の否定を打ち消す。
彼の意図は、相変わらず読めないけれど。
「いいのか?」
確かに今は客足が途絶えているようだし、従業員も他にいないようではあるけれど、そんなにほいほいと店を閉めてしまうことを、少しも躊躇わないのだろうか。
そう問いかけながら、胸中には、他にもいろいろな意図が渦巻いていた。己の行動を有耶無耶にできない閉鎖空間を自ら作り出しておいて、相手をそこへ引き留めておけるほどに――彼には、自信があるということなのだろうか。だとしたら、その自信は、一体どんな。
クローズドの札を返しに扉へ向かう背中が、立ち止まり振り向いた。
「あのひとのことは、私の中で常に他の何よりも優先されることですから。……どうぞ、あなたはお気になさらず」
――強烈な牽制。そう感じた。
鈍色に沈んだ瞳が、レンズの反射の奥から突き刺すように見つめる。微笑んだ口許。首筋がそっと冷えてゆく。
かららんとベルが鳴り、夕暮れの残滓のような薄明かりが、それでも目を焼いた。
それも見る間に閉ざされ、残像だけがちかちかと網膜に残る。紅茶の香りが過ぎる。はっと振り向くと、カウンターの横まで戻ってきていたケインが、微笑んだ声で言った。
「少々、お待ちくださいね」
若草色の頭が、ひょっこりと顔を出した。
「カトラリーくん……!」
思わず駆け寄るように歩む。それに驚いたのか肩を強張らせたように見えた彼の、二、三歩手前で静かに足を止めた。
「せんせ、……」
「会えて、よかった」
顔を見て、心底ほっとしていた。思ったよりも元気そうに、見える。少なくとも、立って歩けないほど身体の具合が悪いとか、憔悴しているという感じでは、ないようだった。
「ちょっと久しぶり、だな」
「……うん……久しぶり」
彼は気まずそうに、視線を伏せた。部屋の入り口に殆ど隠れるようにするので、人見知りする子どもみたいだ。
「あの、……なんで、ここ、分かったの……?」
「前に何回か、話してくれたことあったろ。お気に入りの喫茶店があるんだって……君がよく行く場所って、学校とその喫茶店しか、俺には思い当たらなかったからさ。まあダメ元で、探して来てみた」
「……よく辿り着けたね」
「ほんとだよ! すごいなここ! 子どもが作る秘密基地よりよっぽど隠れ家感あるわ!」
「ははっ。でしょ」
思わず食い気味に同意すると、なんだかカトラリーが得意げに胸を張った。いつもの素直な笑顔だった。思わずこちらの顔もふにゃりと綻んでしまう。よかった。口伝ての朧げな情報を頼りに、めげずに彷徨い歩いて来てよかった。フルサトにも、少しはいい報告ができそうなことだし。
「けど、……ここを探してまで、僕に……何か用事?」
カトラリーはしかし、不思議そうに、語尾へ向かうにつれて段々と不安そうに、首を傾げて問うた。
思わず頭を抱え込みたくなる。
「用事、っていうかな。……心配してたんだよ。突然、ぱったり学校に来なくなって……メールしても碌に返って来ねえし、電話は繋がらねえし」
「え……メールは返したよ」
「『大丈夫』って一言だけな……! 何通か送っても同じ言葉しか返って来ないから、これは逆に大丈夫じゃねえだろ、ってなって」
「……心配性……」
「心配するさ。大切なんだから。知ってるだろ?」
カトラリーは、ちょっと、唇を噛み締めるように引き結んだ。逸らされた目は意固地に、ひとつも動いていない眉は平然として見えるけれど、その耳はこちらの言動に向けてじっとそばだてられているのだと知っている。
「俺に話したくないんなら、それはそれで全然構わないからさ。ただ、俺の他にも、心配してるヤツらがいるから……心当たりがあるなら、その内の誰かには連絡してやってくれ。
……もし、本当にもう何も悩んでいなくて、身体も元気だっていうことなら、俺からアイツらにそう伝えておくけど」
慎重にそう言ったとき、カトラリーの目がふわっと見開いてこちらを見つめて、何か言おうとして口も開いた。まるでこちらの服の裾を掴んで引くみたいに、身体さえ僅かに乗り出した。
けれど、思わずというふうに出したそれらの反応を、はっとしたようにぜんぶ飲み込んで、彼はちらりと、タバティエールの背後を上目に見遣った。
「私は、少し外しましょうか?」
アイコンタクトを受けて直ぐ様、ケインが口を開く。
タバティエールは驚いて、自分の左後ろを振り返った。彼がそこに控えていることは勿論知っていたけれど、聞こえた声音に驚いたのだ。
振り向いて、その表情を視界に認めたとき、タバティエールはもはや茫然としてしまった。
「う、うん……お願い、ケインさん」
「わかりました。では私は、お店のほうで事務仕事でも片付けてまいりましょう。
……何かあれば、すぐに呼んでくださいね。お店へのドアは開けておきますから」
それでは。と、タバティエールのほうを向いて断ったときには既に、こちらをして茫然とせしめたその表情はなく、先ほどまでのあのにっこりと底の知れない笑みを見せて、ケインは店へ戻って行った。
「……君は愛されてるんだな」
「……へっ?」
「先生、ちょっと安心したかも。……それで、彼に外してもらったってことは、俺に聞かせてくれる話がある、ってことかな」
「……ぅあ、」
カトラリーは、口を薄く開いた。言葉に成形される前の息を零して、目をゆらゆらと泳がせる。終いに、唇をきゅっと結んで、おずおずと頷いた。