「……せんせ、」
椅子に座って、カトラリーは、膝を抱え込んでしまったのだ。
「あの、……あのね、……もなかの、賞味期限がさ、……よ、四日後? なんだ」
背凭れ付きの木の椅子。ふかふかのクッション。それなのに、あの冷たい生物準備室で見たのと同じように、こんなに身体を縮こめてしまって。
「……キセルくんとは、あれから」
「会ってない。れ、連絡、も」
見る間に声音が溶けて、息も涙に濡れる。
「せ、んせ、が、もなか、好きって、き、キセルが、って、……メール、くれ、て……あ、あ、あの、だか、ら……なのに……」
瞳は潤む程度だけれども、不安なのか、後ろめたいのか、声が非常に震えてしまっていた。
「そうだよな。いきなりそんなの、誘いづらかったよな」
「……ふ、ぅ、っくぅ……」
ぼたぼたと涙が落ちる。
「や、やっぱり、やっぱり、やっぱり……! キセル、僕なんか、どうでもいいん、だもん! メールなんかも一つも、来なくて、なのに、待っちゃって、そんなの、ぼくから……さ、さそえるわけ、ない……」
膝で口許を塞ぎ、腕で目許を隠す。声を張った所為で乱れた呼吸を直そうとする度に、肩が震えた。
タバティエールは、黙って聞いていた。
わかってる、と、もごもごとかろうじて聞き取れる音が漏れてくる。
「……ぼくが、わるいのは。キセルは、僕ともう会いたくない、って、分かってたのに。声をかけてくれること、勝手に、待ってたりしたから。
でも、その、……せんせ、が……わざわざ、『キセルくん、小豆もなか好きみたいだよ』って、言ってくれたのは……僕、キセルと、話してみたほうがいいって、ことなんだよね?」
濡れているけれど、しっかりとして、迷いの無い声。真っ直ぐな信頼を不意にぶつけられて、タバティエールは面食らってしまう。なんだか目の奥が痛くなってきて、「ああ」と、頷くふりをして俯いてしまった。
「そ、う、なんだ……やっぱり、そう、なんだ、ね」
彼が腕を下ろすのが見えたので、慌てて顔を上げる。
カトラリーは、自分の両脚を抱きしめていた。
「あんたって……へらへらしてるし、意味分かんないけど。適当なことは、言わないもんね。
……ほんとは、もっと早く、こんなふうに……そうだよって頷いてくれるの、聞きたかったんだ。けど、僕……動けなくて。
二人が、僕を部屋まで送ってくれた後も、身体の調子、どんどん悪くなったんだ……キセルが、一緒にいてくれるようになってからは、なんだか軽くなったような気がしてたのに……生理の所為だと思ってたけど、頭痛も涙も止まんなくなって。身体は重たくって仕方がないけど、でも、部屋に一人でいたら、なんか、すごく、怖くなってきて、けど、目は腫れてるし、足はどうしても向かなかったから、……ここに、ケインさんのとこに。どうにか通うようにしてたら、だいぶ、楽になってきたんだ」
こし、と目許をこする。その様を認めながら、タバティエールの心中は穏やかでなく思わず腰を浮かせていた。
「全っ然『大丈夫』じゃなかったんじゃないか!」
無垢な信頼に胸をいっぱいにしたのも束の間、薄っすらと血の気さえ引くような想いで詰ってしまう。
「だっ、大丈夫、じゃ、なかった、よ……」
たじろいだように、カトラリーが見上げる。
「けど……けど、あんたやフルサト先生が、心配してくれるの、嬉しかった、から……だから、ちゃんと返事しなきゃって、思って……」
なんてことだ。
タバティエールは思わず口を開いたまま、少しく言葉を失った。
「……そんなの。〝助けて〟って、返してくれりゃよかったんだよ」
「……どうして?」
「ど、どうして?」
困惑したような問いを投げられて、こちらのほうが戸惑ってしまう。鸚鵡返しに聞き返すと、カトラリーは見るからに必死に、言葉を探した。
「な、なんで、僕が、助けてって言ってもいいの?」
「そっ……」
君が助けを求めてもいい理由? 何と、説明すれば。タバティエールは、僅か迷った。
「それは……君が大切だからだよ。心配だし、困ってるなら、俺自身が力になりたい。少なくとも俺やフルサトは、そう思ってるよ」
客観的な理屈と、主観的な必要と。彼には今、後者のほうが圧倒的に必要な筈だと、一瞬の迷いの後に、こう答えた。
彼は、自分が愛されるという状態を知っておかなければならないと思う。ただでさえこんな、世話好きなだけのダメ男から気にかけられる羽目になっているのだから。将来もっと悪いヤツに目を付けられでもしたらと、本当は、常から心配でならないのだ。
「……変なの。学校の外でのことなんだから、ほっといたらいいのに」
「学校の中ででも、ここまで生徒の私事に介入するヤツなんか珍しいもんだろ……一歩間違えりゃそれ自体が暴力になっちまうし。
言ったろ、俺とフルサトは心配性なんだって。だから、君にはっきり〝必要ない〟って言われない限りは、どこまでも際限なく心配するぞ。世話を焼きに行くぞ?」
後半は多少おどけて見せて、膝に埋もれる顔を覗き込んだ。
「ふ、……ふうん? ……べつに、それでアンタたちの気が済むなら……そうすれば、いいけど」
顔を赤くしてそっぽを向く。「ありがたく、そうさせてもらいますよ」返しながら、笑いが漏れる。本当にこの子は。
「……けど、よかったよ。君が頼れる場所は、ここにもあったんだな。寄り掛かれるものは多いほうがいい……誰かに言いづらい話も、ほら、別の誰かにはこうして話すこともできるかもしれないから」
穏やかに、促すように言うと、彼はそろそろとこちらを向いた。
「あの、……あのさ……僕、キセルに、話してみるよ。
どうなるかは、分かんないけど……でも、先生が、話すきっかけを僕に作ってくれようとしたんなら。きっと……話そうとすること自体は、間違ってなんか、ないんだよね?」
今度は、しっかりと頷いて見せる。カトラリーは、たしかめるように、こくりと唾を飲んだ。
「そ、それに……せっかく貰った食べ物、だめにしちゃったら、勿体無いもんね」
「はは、そうだな。けど、四日で、二人で食い切れるか? 結構な量持たされてただろ」
「うん……だから、もし、余っちゃったり……キセルが、僕と一緒にもなか食べてくれなかったりしたらさ、先生が、一緒に食べてよ」
「ああ、わかった。お菓子は絶対に無駄にはならないから、安心して、彼を誘っておいで」
そう言ってやると、彼の表情はふわりと軽くなったようだった。神妙な貌で、けれども勢いよく頷く。春草色の髪の毛が揺れる。
「……たとえその結果が、どうなったとしても。……やっぱり、僕、キセルにまた会いたいよ。
会いたいし、喋りたいし、できるなら、僕を避けてる理由をちゃんと聞きたい。それで、僕が悪かったなら、謝って……そうじゃなかったり、もし僕を、許してくれなかったりしたら、……うーん。そのときは、さ。……せんせ、また、助けてよ」
目を逸らす、彼の目を見る。
ブラッドオレンジ色の輪郭が、薄っすらとぼやけていくような不思議な感覚を覚えながら、タバティエールは。
「……ああ。勿論だ。何があっても、君の話を聞く。できる限り、君の力になるよ」
こちらを見たカトラリーの目が、何かに驚いたように見張られた。
そうして彼は、少し照れたような、または何事か茶化すような、捻くれた明るさで、笑ったのだ。
「うん……ありがと、せんせ」
まだ暫くここにいるというカトラリーは、ケインの淹れた紅茶を飲んでから、また奥へと引っ込んでいった。
――明日の放課後、二人のために、生物準備室を貸してやる約束をした。エアコンだけでは心許ない。ヒーターかストーブを引っ張り出してきておいてやろうと思う。
今頃カトラリーは、キセルへ送るメールの文面に頭を悩ませているだろうか。
「じゃあ、あの子のこと、頼んだぜ」
「ええ、お任せを」
カトラリーを部屋まで送り届ける役目は、ケインが務めることになった。受け答えた彼の笑顔は、ここに来たばかりのときよりも大分、朗らかなものに見えた。
「それにしても……信用してくださるようになったものですね。先ほどまで随分と、私のことを疑っておられたでしょう」
しみじみと、といったような声音に、やや気まずさを感じて目を逸らすと、ふふふと、相対する口からは軽やかな笑声が溢れ出た。
「私もです」
どこか楽しむような口調。こちらこそ、本当に信用されたと見て取っていいらしい。
「知ってる。随分あからさまに牽制してくれたものな」
「ふふ、はい。失礼をいたしました」
「とんでもない」
タバティエールは首を振った。
「君みたいなひとでよかった。
あの子、『紅茶が美味しいんだ』って話しかしなかったからさ……君自身とそんなに深い関係があったんだとは、思わなくて」
「ふふ……私も彼も、隠れるのは十八番ですから。そう簡単に、他者へ気配を悟らせはしないのですよ」
彼は、こちらにはよく分からない冗談を言った。映画が好きだというのは、強ち、こちらから情報を引き出すための全くの方便というわけでもなくて――いっそ、彼自身が、映画の中からひっそりと抜け出してきた演者なのではないのか。
「他ならぬカトラリーさんが信頼を寄せる方々なのですから、信じたいと思いつつも……彼はああ見えて、根が危なっかしいほどに素直です。人から好意を持って接されるという経験も、多くは積むことができなかった方ですから……もしや、と考えてしまうと、やはり私自身の目で確かめずにはいられなくて」
「ああ、君のあれはかなり迫力あったぜ……確かに、軽い気持ちで疾しいこと考えてるヤツなんかがあの目で睨まれたら、先ず、怯んで逃げ出すだろうな。いいナイトがいたもんだ」
かなり真面目に褒めるつもりで言ったのだが、彼は困ったように笑った。
「それは、よかったです。……ですが、やはり及ばないこともありますよ。例えば……彼は、キセルさん絡みの悩み事になると、私にはとても話づらそうにしていますし」
「キセルくんのことも知ってるのか?」
まさかと訊けば、ケインは淡々と頷いた。
「ええ。キセルさんも……カトラリーさんと同じく、私にとって何よりも優先すべき存在です」
「ってことは、彼もここへよく来る?」
「来てくださっていました。カトラリーさんが、あんなふうに落ち込むようになった頃……その少し前までは」
「……そうか」
キセルが来ないと分かっているからこそ、カトラリーはここを頼って来ることができたのか……いや、ひょっとしたら彼がいるかもしれない、と縋るような気持ちもあったのだろう。
「……キセルくんは、じゃあ、今、本当にひとりぼっちなのかな」
痛いくらいにしがみ付いてきた、指の感覚が腕に蘇る。
「学校にも行かれていないのですか?」
ケインの眼光が、すっと険しくなる。首筋がぞわりとするのを感じながら、タバティエールは答えた。
「授業には、ぼちぼち出てるよ。一回、カトラリーくんが学校へ来ないのは自分と顔合わせるのが嫌だからなんじゃないかって漏らしたから、会いたくないって言ってたのは君だけだろって言い含めてやった……」
「納得されたご様子でしたか」
「ちょっとは」
ケインは少し、首を傾げるようにして、視線を伏せた。
「心配です。けれど……あなた方が、支えてくださるのですよね? 私に支えることのできない場所であっても、あなた方お二人が、彼らを助けてさしあげてくださるのですよね?」
「二人……って」
ケインは目線だけを上げて、ふっと口許で笑んだ。
「フルサトさんとは、お会いしたことはありませんけれど。カトラリーさんにキセルさん、そして、あなたが頼りになさっている方だというのなら……きっと、信用できる方なのでしょう」
よく見ると、モノクルの奥の瞳は、仄かに緑がかった色をしていた。ひっそりとした苔の色。あるいは、明け方の森は、こんな色をしていやしなかっただろうか。
「ああ。彼も、必ず力になってくれる」
タバティエールは、噛み締めるように肯定した。
「今は出張で留守にしてるんだが……こっちを発つ前日にも、すげえ心配しててさ。だから、今日、カトラリーくんの無事をちゃんと確認できたってこと、後で伝えといてやらねえと」
あのときの彼の落ち着きの無さが目の裏へ蘇って、タバティエールは苦笑した。カトラリーが姿を見せなくなる前、最後に顔を合わせていたのが自分だったから、余計に不安で仕方がなかったのだ。それは無論、タバティエールとて同じことだったのだけれども。
「ええ、ぜひ。安心させてあげてください。
そして……カトラリーさんと、キセルさんを、どうか、よろしくお願いしますね」
ケインは、こちらへ向き直り、真正面から、改めてそう言った。僅かに硬い声音。けれども彼は、多分、自分たちを疑っているのではない。それはまるで、重く垂れ込める雨雲の向こうへ、益体無いことと知りつつそれでも祈りを捧げずにはいられないというような、そんな声だったのだ。
「ああ。俺は俺にできる限りのことをする。あの子たちを、護るよ」
慎重に、真剣に、一言一言を、返した。
「んじゃ、ま、改めて。――よろしくな、ケイン」
伝えた気持ちに嘘はないけれど、なんとなく照れてしまう。混ぜっ返すつもりとまではいかないけれど、多少おどけた素振りで、彼のほうへ右手を差し出した。
「……えっ?」
切れ長の瞳が、一拍置いて、丸く見開かれる。
「え、ええ、と……あ、の、……?」
ケインは何やら、ひどくまごついた様子で、タバティエールの顔と、差し出された手とをおろおろと見比べた。
さっきまでの、落ち着いた大人らしい雰囲気はどこへやってしまったというのだ。彼の纏う空気は、今や相当頼りなく揺れていて、本当に、自分の取るべき行動について見当がついていないようにさえ見える。
「えーと……ひょっとして、潔癖症?」
「えっ、え?」
「だめなら、勿論、無理に握手なんてしろとは言わないけど……」
さっき自分から手を差し出してきたのは、愈々、カトラリーを守るためだけに身体を張っていたということか。ほんとうに、見上げた騎士だ。
苦笑して、空振りに終わった右手を引っ込めようとしたとき。
「あ、あく、しゅ……?」
ケインの、初めて聞く単語を繰り返そうとする子どものような、声を聞いた。
流石に訝しんで、タバティエールは対話を試みる。
「……握手。これからよろしく、っていう、挨拶をしたかったんだ」
「……挨拶……私に、ですか?」
「君にだよ。ケインにだ」
「……どうして……?」
「ど、どうして?」
困った。どうしてとはどういうことだ?
妙なデジャヴュにぐらぐらしながら、タバティエールは考える。キセルと、カトラリーの、あの不安そうな視線や、心許なさげな仕草が、目の前の彼に何故か重なって浮かんで、仕方がなくなってくる。
「ええと……あなたに、彼らのことをお願いするのは、私のほうで……それに……それに、どうやったって、そんな、私などの手に、わざわざ触れてくださろうとなんてしなくても、私は」
彼は自分の掌をそっと持ち上げて見下ろして、すぐに、厭そうに、視線を剥がした。
彼があのふたりに心を砕こうとする理由。想像でしかないけれど、きっとそんなふうに単純に語れることでもないけれど、それが、漸く腑に落ちたような気がした。
「……ケイン。握手をしないか。
君に会えて嬉しいよ。それと……これから君と過ごすのが、楽しみだ。……よければ、応えてくれないか?」
もう一度、右手を差し出した。
彼はじっと、タバティエールの言葉に耳を傾けて、それから、差し出された掌と、自分自身のそれとをそっと見比べた。
そろりと、目が合わされる。モノクルレンズに、オレンジ色の照明が甘く反射する。
やわらかな感触。やさしい温度。
「こちらこそ……会えて、嬉しいです。タバティエールさん」
さっきの、豪胆で目紛るしさを覚えさせるような握手とは全く違う。慎重に、丁寧にタバティエールの手へ触れた指は、体温に慣らすように、加減を探るように、ゆっくりと、握られた。
「……ありがとう」
肩の力が抜けて、自然に表情が緩む。彼が応えてくれたことに感謝を述べて、自分よりもやや細身なほどのその手を、ぎゅっと握り返した。
彼は初めて、はにかむような笑顔を見せた。
「――あ!」
いきなり上げた大声に、ケインはびっくりしたように覗き込んできた。
「どうされました?」
「お、お代……」
店を去りかけて漸く思い出すとは。あまりにも情けなくて、もっと早く言ってくれよと店主に向けて見当違いな恨み言を吐きそうになる。
持って来てはいる筈の財布の在り処を探っていると、くすりと噴き出す声が聞こえた。
恨みがましい思いでじとっと視線を上げると、しかし予想外に優しい笑顔があって、思わず息を呑む。
「結構ですよ」
「い、いや。そういうわけには、」
「今日は、結構です。……また次にいらっしゃるときまで、ツケておきますから」
小首を傾げる角度で、そう告げる。微笑みは、少しぎこちなく見えて、ああ、やっぱり似ているんだと、思った。
「……うん。じゃあ、そうしておいてもらおうかな。
紅茶、本当に美味かったしさ。必ず、また近いうちに来るよ。ふたりの様子の報告も兼ねて」
ケインの笑顔は、ほっとしたように緩んだ。
面妖な奇人かと思えば堅牢の騎士であったり、かと思えばこんなふうにたどたどしい表情を覗かせたりする。楽しみだと、そう言ったのは単なる社交辞令ではなかったのだけれど、この段になって、タバティエールの中ではますます、その言葉は切実な思いとして膨らんできた。
かららん。
ベルが揺れる。すっかり蒼に染まった、街は確かに寒い。けれども、あの手はきっと、カトラリーの手をやわらかく、冷め切ってしまう前にじっと包んでやってくれるのだろう。カトラリーのほうも、その暖を躊躇わずに受け取ることができるに違いない。そこへもうひとり、今はひとりで震えているかもしれない子が、きちんと、どうか帰れるように。
――三人の笑う顔を、見てみたい。
彼らは、互いの歯車が優しく噛み合っているそのとき、一体どんなふうに笑い合うのだろう。偶然を重ねた縁が、現実への酔いを連れてくる。苦笑交じりにタバコを咥えた。
きっと、今日は煙不足だったのだ。一日の果てに、こんな甘ったるい想像しか浮かばないなんて。俺がそれを、見られなくたっていいのに。ただ、彼らが彼らで笑っていられればいいのだ。そのために少しでも、力を貸せたのなら。
自分の欲の在り処が、分からなくなる。思考は脆く揺蕩って、吐いた煙は、白い息と混じり合いながら、ルールブルーに溶けた。