タバケイ

そう、している。

 精一杯おめかしをした。
 けれども鏡の前で急に恥ずかしくなって、結局いつもどおりの感じに着替えてしまった。
 実は、コートも今日のために新調していたのだけども。あんまりにも露骨すぎるのも、また浮かれ具合が目に見えてしまうのも、と漸う気になりだしたから、よく袖を通して熟れたブル・フォンセに落ち着いた。逃げた、とも言う。そこはあんまり細かくは。突っ込まないようにしてほしい、と、玄関を出る前から後ろを向きそうになっている自分自身を窘めた。
 からりと綺麗な冬空だ。銀灰色の広い雲を、黄色い薄明が慎ましくまた神々しく照らす。こんな季節に彼といられる、ということが、なんだかとてつもなくかけがえなくて素晴らしいことであるような気が、不意にした。
 石畳を歩く。ああ、なんてロマンチックだ。彼と続いている地面。それが、こんなにも哀愁を知ったような甘い舗装を纏っているとは。くらくらする。黄色い薄明は、美しい天界の雲ばかりでなく、地上で浮き足立つ凡俗な俺にさえも美しいままに降り注ぐ。
 ……ああ。
「……」
 声が出なかった。
 彼が、いる。
 ここで待ち合わせの約束をして、彼は常から十五分前には相手を待っている人で、しかし俺もそのような性質だから、いつもどちらが早いのかは着いてから分かることだった。けれども俺が先に着いたときでも、彼はほんの少しだけ後から、かならず来てくれたし、また、俺が後になったときであっても、彼はかならず、俺を待ってくれていた。
 そう、そうなのだけども。
「……」
 背中を向けている彼が、少し、息を吐いたのが分かる。ありふれた水蒸気が冷えただけの白が、それなのに彼のものであるというだけで、えもいわれぬほど甘いに違いないのだと思えて、はしたなくも、唾を飲み込んだ。
 ――彼は待ってくれていた。まるで、〝いつも〟のように。
 俺は君に甘い感情を持ってしまって、それをあまつさえ吐露してしまって、応えてほしいとねだってしまって。奇跡みたいに君が笑ってくれたから、俺たちはその日、もう一度生まれ直したんだ。二人で。
 だからこれは、〝初めての〟デート、なのにな。
 石畳を歩く。ああ、ロマンチックだ。冬の薄明の中で、君のブロンドが奇跡のように美しい。
「――ケイン」
 悪いな、待たせた。そんなふうに詫びる間に、彼のかんばせはこちらを振り返った。外出用のモノクル。見慣れたコート。愛用のマフラーに、よく着回してるカーディガン。
 そして、
「……タバティエールさん!」
 いつも落ち着いている柔らかな声が、ほんの少しだけ高く、密やかに愛らしい軽さで跳ねた。
 淡く染まった頬が、睫毛からこぼれた光を鮮やかに弾く。朝の木立のようなどこまでも慕わしいヴェルは、なるほど空に姿の見えない星々の明かりは今、ここに宿っているのかと嘆息してしまうほどに、透明に濡れて、こちらを見つめてくれている。
 ああ、ああ!
 恋を。
「ケイン、」
 恋をしている。君に、恋を。
 肩を抱き寄せて、頬へ口付ける。
 親愛のビズを装ってはぐらかしたつもりだったのだけれども、身体を離して再び目にしたその頬が、さっきまでよりも赤みを増しているように、見えてしまう。
 微かに慌てる。その薔薇色が、怒りや呆れのためではなかったらいいなと、情けなくも思いながら。何にも気づいていないふりをして、歩き出そうとした。
「……」
 そのとき。袖を僅かに掴まれて、動きが止まった。思考も一度止まる。どぎまぎしながら、頭を振り向ける。
 ……どうして。
「……っ」
 一度、目が合った。
 それから君は、視線を外して。俺の腕にぎこちなさそうに触れたまま、――瞼を、伏せた。
 白い無防備な皮膚が。君のヴェルを隠して。
 それでも君のきれいな爪は、俺のコートに食い込んでいる。
 どうして。
 そんな、これは、それは。
 君は、それは、そういうこと、なの?
「…………」
 もっと熱いのを、捧げても、いいの。
 そっと、離れかけた身を寄せる。あたたかい。やわらかい。耳許で心臓が鳴って、顔が近付くまでのほんの数瞬間に、君の頬がやっぱり勘違いじゃなくどんどん染まっていくのを見ていた。
「………………」
 ああ、恋を。
 恋をしているんだな、君と。
 こんな距離でいることができる、そんな時間に、これから変わってゆくのか――。

 舌先で触れる君の吐息は、飲み込んでみても、やっぱり、甘かった。

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