「こ、――」
――こんなに深くされるとは思わなかった!
殆ど泣きながら睨め上げれば、タバティエールさんはショックを受けたように、只管頭を下げる機械になった。
ショックを受けたのはこちらのほうです。
カルチャーショックだ。
フレンチ・キスという概念を私はすっかり失念していた。
英国紳士の辞書には到底載っていない、それ。
どう考えても〝初デート〟の出端から交わすものではない……と、私はやはり感じてしまう。だって、いきなりこんなのから始めて、これから、これ以上どこへ行こうというのか。
……〝これ以上〟?
自分の何気ない連想にぶわりと顔が熱くなる。これ以上は熱を逃せないととっくに訴えている皮膚は、外から見てもきっと情けない色をしている筈だ。
「…………ケイン……」
そんな消沈する私と肩を並べるほどに低い場所まで、情けない声が落ちてくる。
「……ごめん……ほんとに悪かった、その……ほ、ほんとに悪かった……」
声を出そうとする毎に改まったように息を吸って向き直ってくれるのに、結局形になるのは同じような謝罪の言葉ばかりなのだった。
「…………いえ……、元はと言えば、私が……浮かれておかしな真似をしたばっかりに、……」
「……あー……いや……そんなふうに言わないで……ほんとに、これは、俺が悪かった。ごめん……」
銘々に顔を覆って俯いたまま、ぼそぼそとそれぞれの傷心を吐き出し合う。
喋る度に、飲み込んだ彼の唾液や吐息の味が喉に香って、口腔で動く舌の感覚が自分のものではないみたいに肥大化して、こうしている間にも、実は際限なく、つらい。
終わりの見えない悲しい会議に、ピリオドたり得るインクを垂れたのは、彼のやはりぼそぼそとした一言だった。
「……もう、あんなふうには、絶対にしないから……だから今のは、一先ず今日だけでもいいから許してくれない、かな」
〝もう、あんなふうにはしない〟。
〝絶対に〟。
その声を認識した瞬間、あれほど慌ただしく熱を焚いていた私の中で、何かが俄かにすっと冷えたのだ。
「二度としないん、ですか?」
すとんと温度の抜けてしまった声で確認すると、彼は対面の私に聞こえるくらいに、ひゅっと息を呑み込んだ。
「っ……き……君が、……それを望むのなら。……俺が今それを約束することで、君がこれからも、俺といてくれる、なら……誓うよ。もう二度と、絶対に、君にあんなふうに触れたりは、しない」
彼は私の目をはっきりと見つめていた。
初め、少し震えているようだった声は、最後には揺るぎない強さで誓いを立てた。真剣な色のブルーが少し傾いだかと思えば、次の刹那には節榑立った温もりが私の指をとった。そっと身を屈めた彼は、この手の甲へ敬愛のキスを。
「許してくれないか、mon cœur」
石畳へ跪いた彼の頭を見下ろしているのは、視覚的にとても不思議な感じがする。
「嫌……です」
熱く狼狽える私の中で、薄く確かに冷えた部分。その形を手探りで確かめるように、私は慎重に答えを告げた。
指がきつく握り込まれる。
タバティエールさんが動揺したような声を上げた。
「ケイン……頼むよ、嫌だ、君と離れるなんてできない」
「私だって嫌です! もう、あなたにキスしてもらえないなんて……!」
「……へ?」
言葉にして、確信した。そう、そうだ。私は酷く淋しいと感じたのだ。彼が、二度とあんなふうにキスをしないと言ったことを。
「二度としてほしくない、わけじゃないんです……!
だって、だって、まだ朝でしょう……? それに、初めての……初めての、〝恋人〟としてのデート、で……いちばん初めにあんなことしてしまったら、これから、今日、どんな顔をしてあなたの隣を歩いていればいいんですかっ……最初にあんなふうに深く交わってしまったら、今日、わ、私は、あなたは、一体どんな……どんなふうに、距離を保っていればいいんですか……」
彼の手をしがみつくように握り返して、私は堰を切ったように溢れる感情をそのまま必死で言葉へ乗せた。
「……分からないじゃ、ないですか……困ってしまうじゃないですか。ですから、……た、タイミングというものがあるんです、だから、……だから……」
「……そっか」
軽やかな声が答えた。
優しく弾むように立ち上がった彼に合わせて、私の視線も持ち上がる。
マリンブルーの瞳がひとつ瞬くと、濃い睫毛の縁がやわらかく下がって、私の大好きな、あの人好きのする愛らしい笑みを形づくった。
「分かったよ。つまり、いきなり距離が近すぎたんだな? 俺は。
タイミングさえ、君と合わせられれば――深いキスもしてくれるって、こと?」
先ほど唇を寄せてくれた私の手を温かく握り締めたまま、窺うような笑顔が、首を傾げてこちらを覗き込む。
私はその瞳を見つめ返して、頷く。
「……あまり慣れていないので、リードしていただけたほうが嬉しいのですけれど」
「俺なら慣れてるだろって言いたいの?」
彼は笑った。ああ、その笑顔が、好き、なんです。
「ふふ、実際そうでしょう?」
「いいや? ちょっと違うなあ。こんな恋は初めてさ、mon sucre d’orge」
すっかりいつもの朗らかな空気を取り戻した彼は、しかし普段よりもやや調子づいたふうに、私の肩を抱き、優しく額を合わせてきた。
「それに、きっとこれが最後だ。……そうなればいいなって、思ってる」
「……最後?」
少し潜めるように落とされた彼の声を、けして聴き逃すまいと私は耳を傾けた。
「さっき言っちまったことはさ、ほんとなんだ。〝君と離れるなんてできない〟って……俺は、君と、生涯で最後の恋人同士になれたらいいなあと思ってて」
私の髪を、手癖のようにゆるく弄びつつ、彼は言葉を選んでくれている。
額を合わせたまま、こんな距離で、ひょっとしたら私たちは今、キスよりも凄まじいことをしているのではないのか。
「ええっと、つまりは……俺は、生きてる限り、君とずっと一緒にいたい。
勿論、それは俺の勝手な、ただの個人的な夢なんだけどさ。けど……今はそれを、本気で、叶えられたらいいと思ってるんだ。
……愛してる、ケイン」
照れたように、少し戯けた口調も。
真っ直ぐな声で、飾らない言葉も。
その全てが繊細な気遣いに満ちていて、私は喉の奥がぎゅっと締め上げられるような感覚を覚える。
「ねぇ、今、キスを捧げたら、受け取ってくれるかな。
……今度はうんと、軽いやつで」
そんな言葉遣いをしつつ、彼の指は私の髪の毛から幽かに首筋を滑り、耳をなぞり、頬を揉み、と、強引さは感じられないながらも随分好き勝手に動いていた。まるで、お菓子を待ちきれない大人しい子どものようだ。
気遣いに溢れている、けれど、私相手にはこんなふうに。自らの欲求をほんの少しでも手渡してくれる。それを噛み締めるよりも早く、胸の圧迫感が強くなる。
「ええ、構いませんよ。
ですが……その前に一つだけ、聞いていただかなくてはならないことがあります」
「……何だい?」
彼に負けないくらいの真剣な貌で見つめれば、相手の表情はやや不安げに揺れた。
マジックを披露する一瞬、あの緊張感。
けれどもこれはきっと、花咲く未来への呼び水になれる一挙。その筈だ。
「――私も。私も、あなたを愛しています、タバティエールさん」
そう、嬉しいのだ。
これは、喜びという感覚。私の冷たい肚から込み上げては胸に閊え、喉を締め上げ、それでもなおあなたに届かんとする、明るい信頼。
触れた唇は優しく乾いて、穏やかな温かさで私の声を受けとめる。
さあ、一日は、まだ始まったばかりだ。
これから、あなたとどんなふうに、どこまで、一緒に歩いて行こうか。