銃マス

きみと、時明かし、ゆく

 マスターはご機嫌だ。
 昨夜はお一人でとても夜更かしをなさって、日本式に初めての日の出を見届けた後、ほんの数時間の仮眠を挟んだかと思うとまた早々に起き出して来られた。
 我々への挨拶を毎朝のように律儀に、しかしどこかそわそわと済ませながら身支度をして、澄んだ冬空の下へいそいそと飛び出して行く。その背中を見送ったときには、漸くかの方にも、大切な日を大切な相手と穏やかに過ごせる日が訪れたのだと、安堵の気持ちを覚えたのだけれど。
 なんと、昼過ぎには既に、マスターは弾丸のような勢いで再びこの家に飛び入って来られた。お一人で早々と帰宅なさったのだ。そして、
「──あらためて、……おめでとう。今年も、よろしく、ね。みなさん」
 いつも身に付けている口許のマスクを引き下げて、弾んだ息で辿々しい声をかき混ぜながら、私たちのマスターは、何よりも眩しく、笑った。

「──これ……ね、日本酒。年末に、貰う約束、してて、……今、貰ってきたよ」
 そう仰ったマスターは、抱えていた大きな袋の中から、これまた立派な酒瓶を取り出して私たちに見せてくださった。先ず火縄銃たちの方へ、そして最後に、真っ直ぐこちらへ向けて。マスターの手がわざと揺らした色付き瓶の中で、澄んだお酒がとぷんと可憐な飛沫を上げる。私の隣でキセルさんがとくりと感情を揺らしたのが分かって、私も思わず笑みを漏らした。
「これ、も、貰っちゃった……ロシアンティーにしよう、ね、エカチェリーナさん……。昨日までの買い置きも、たくさんある……けど、せっかくだし、今日、も、ちょっとお料理しよっか……な」
 その話題を出すときに、じっと見つめて懐かしそうに笑うものだから、見つめられたカトラリーさんも少し照れたように、その美しい表情をいっそうきらきらと白く輝かせていた。
「お正月……ぐらい、ね、休んでと、思うけど……お正月だから、お店開けたいって人も、いるの。縁起がいいんだって。……そうなの?」
 マスターはあまり声を出すことが得意ではいらっしゃらないけれど、今日はなんだか嬉しそうに、たくさん声に出してお喋りをしてくださる。私たちは、マスターの声がとても好きだから、そのことでより一層の幸せを感じることができた。
 けれど、何かにのめり込むと他を忘れてしまう彼女の姿に、私はささやかな不安を感じ始めてもいた。さっきだってそうだ。お一人で大きな荷物を幾つも抱えて帰って来られたとき、壁に掛けられたマスケット銃ががたりと音を立てて揺れたような気がしたのは、扉を開閉する衝撃のためなどではなかっただろう。私だって、今すぐマスターの傍へ飛んで行って出来る限りの荷物を引き受けたくて仕方がなかったのだから。
「……飾り物……。クリスマス……の、余り、みたいだね? ……ケンタッキーくんも……マルガリータくんも、サカイさんも、手伝ってほしい、な……飾るの」
 心配する私たちを余所に、マスターは時間をかけて一つ一つ荷解きをしてゆく。コートも脱がず、ふわふわの手袋だけを邪魔そうに外して、板張りの床に直に座り込んで。幸せなお喋りに水を差すのは憚られるけれど、私たちはきっと誰もが、少なからずはらはらしながら大切なマスターのことを見つめていた。
「っ、……、……?」
 マスターが、不意に荷物を探る手を止め、一点をじっと見つめた。彼女のその行動を不思議に思い、私もそちらへ視線を転じる。マスターの視線は部屋のこちら側、つまり壁の一辺に寄せて置かれた腰丈のテーブルの上へと注がれているようだった。私から見える範囲には、特に変わったものはないようだが……。
『──どうしたの?』
 マスターは買い物袋を床に置くと、手話で誰かへと語りかけながらテーブルの方へと歩み寄る。そして再び床に膝をつくと、膝立ちの状態で、彼女はテーブルの上の〝誰か〟と、目線を合わせたようだった。
「どう、か、したの……うわ……っ⁉」
 マスターが小さく呟いた後、おろおろと悲鳴を上げる。私はぞっと色めき立ち彼女の手許を見た。──しかし、そこにあったのは、深い夜色に輝く一挺の優美なライフルだった。
 訳も分からずやはり黙って見ているしかない私たちの傍で、マスターは先ほどまでうっすらと紅潮していた頬を嘘のように白くして慌てふためく。
「な、ぁ、んで……、あ、つい、……⁉ 熱い、ね、レオさん、どうしたの、ぁ、え、……ど、どうして……」
 か細い声と同じ、震える指が何度もその古い銃身を擦る。彼女のその様子と先の言葉に、私も並ならぬ不安を覚えていた。杖は一人では歩けない。私のマスターの許へ駆け寄ることも、大切な仲間の身に何らかの優しい手当てを施すことも。何も。
「──……ぇ……っ⁉」
 彼女の目が、その奥から溢れ出てきたものに歪み始めたとき、俄かにはっと見開かれた。きっと私も同じような表情を浮かべていただろうと思う。なぜなら、そのとき部屋には音が──何か小さなものが高みから落ちたような音が、微かに、しかし確かに響いたからだ。
 立て続けに、かたりと、今度はもう少し重い音がする。それは壁のやや高い位置から鳴ったもののようで、私とマスターの目は、殆ど同時に音の出所を捉えていた。
「──タバティエール‼」
 鋭い悲鳴を上げて風が吹く。……遠い戦場でしか聞いたことのなかったような声、高く泣き叫ぶような声でその銃の名を呼んで、マスターが風のようにそちらへと駆け寄ったのだ。
「…………ど、して……」
 両腕を彼の方へ伸ばしたまま、マスターの声は愈々泣きそうに零れた。彼女の両手は、壁に掛けられた後装式ライフルを支えている。私が目を凝らすと、どうやら元々彼の銃身を支えていたフックの一部が、なぜか歪んでいるようだった。その所為で、銃が何かの拍子に傾き、音を立てたのだ。マスターはそっと、タバティエール銃を懐へと抱え上げる。いつもは優しくも危なげなく行われる筈のその動作が、今はどうして心許なく覚束ないことが、私の目にも分かるのだった。
「……ぁ、ぇ、うそ、……っ……い、今、の、タバティエール、の……?」
 腕の中の銃を不安げにあらためていたマスターが、ぽつりと呟いた。それは殆ど、絶望に囚われていると言ってもいいように聞こえるほどの、暗い、暗い声音だった。私の胸にも、予感が当たってしまったことに対する暗澹たる思いが広がる。──先ほどの、一度目に聞こえた音だ。マスターはきっとそれが何の音だかすぐにお分かりになったろうし、私にとっても、それは半ば本能のように記憶へ刻み込まれている音だった。
 マスターは迷うことなく這うように身を屈めると、床の上を一心に探し始めた。その際、テーブルの上に置いたままにしていたレオポルトさんの銃を手に取った。二挺のライフルを両腕に抱えたまま探し物をするのはきっととても大変なのに、けれどきっと、そうしていないと不安でどうしようもないのだろうと、思う。
「──ぁ、……った……ぁ‼」
 金色の雫に濡れたような声が小さく溢れたのは、幸いなことに、彼女が冷たい床を探し始めて数分と経たない頃だった。持ち前の吃音のような、半ば嗚咽でもあるような、そんな途切れ途切れの歓声を上げて彼女が嬉しそうに摘み上げたのは、果たして小さな螺子だった。
 マスターが日頃丁寧に施してくれる手入れに不備があったとも思い難いけれど、それはどうやら、タバティエールさんの銃身のどこかから外れて、あそこまで転げ落ちてしまったものらしいのだ。
「……ょ、か、た……。い、いま、直して……──へ?」
 安堵のためだろう、不安に暮れていた先ほどまでよりもよほどひどく震えている指先が、古びた光沢の銃身を何度もなぞる。想いが傍目にもひしひしと伝わってくるほど、大切そうにその銃を抱きしめていた彼女は、不意に、戸惑ったような声とともに顔を上げた。
 そうっと、抱きしめた銃へ耳を寄せる。私たちの声をずっと聴いてくれる、それは優しい耳だ。
「……な、に……」
 マスターはおろおろと、辺りを見回す。タバティエールさんが何か伝えようとしていることを、汲み取ろうとして、けれど具体的な手がかりは掴めずに、途方に暮れていらっしゃるのかもしれない。私は考え込んだ。私たちの頼りになるマスターは、まるで小さな迷子のように、ぺたりと座り込んで俯いてしまっている。そんなところに──ああ、寒いでしょうに──。
 そこまで考えて、こちらへ背を向けている彼女の向こう側へと目を遣って、私ははたと気が付いた。
「ね、じ……なんで、落としたの……螺子……こんなとこ、まで……螺子を……。……こんな、とこ?」
 マスターも、奇しくも何かに気付いたようだった。考えを得たところで彼女に何も語りかけることはできない私の視線の数歩先で、マスターは、〝そこ〟を指し示した。
「……だん、ろ?」
 マスターと二挺の銃が座り込んでいる場所。つまり、螺子の落ちていたところ。そこは、部屋に設えられた薪ストーブの真ん前だった。
 マスターは暫し腕の中へと視線を落として、やがて少し瞑目した。タバティエールさんの方から何か返事をしたのか、マスターは程なく瞼を上げて、再度ストーブの方を振り返る。螺子を服のポケットへと押し込むと、膝の上に置いたレオポルトさんの銃を傷の消えた左手で撫でながら、不安げな顔つきで火搔き棒を手に取った。
「えぇぇ、と……えと……だんろ……だんろ、が……なん、で……?」
 困ったように呟きながら、マスターはほろりほろりと暖炉の灰を掻き回す。タバティエールさんがわざわざ自分の螺子を暖炉の傍へ落としたこと。そこに彼の意図があるのだというところまでは辿り着いたのだ。あと、もう少しです。マスターを誘うことのできない杖は、ただ黙して見守る。
「……火の始末、は、ほら、……ちゃんとしてたよ……? ほら、火種、ない……なんで……お、怒ってるの……」
 マスターが、彼女の肩に立て掛けたライフルを怖々と擦る。怒ってなんて、いるわけないでしょう。ここにある銃は皆……あなたのことを想っています。分かってくれているのでしょう?
「……や、だ……分かんな、…………こ、わい……さむ、……い……、……? ……寒、……?」
 項垂れてしまっていたマスターが、そっと顔を上げた。暖炉を見る。そして茫然としたふうに、
「──火、点けろ、って……?」
 彼女以外に一人も人のいない空間に、澄み切った美しい声が、ぽつりと響いた。
 ──かたん!
 マスターはびっくりしたように振り向いた。タバティエール銃は彼女の肩に凭れ掛かっていたので、彼女自身がそうなるような動きをとったのなら、そうなるべくして銃床が音を立てることもあったろう。しかし、彼女の方には少なくともそうしたというつもりはないようだった。──となれば、〝そうするつもり〟があって音を立てたのは、銃自らだということになる。
「……あ、当たり……?」
 彼はきっと頷いたのだ。マスターの顔が、そろそろと綻んでゆく。かつてその手に刻まれていた美しい傷のような、それよりももっと綺麗な花が咲いたような、私にとって何よりも慕わしい笑顔がそこに戻っていた。
「──ぁ! あ、あ……!」
 マスターは言葉にならない声を漏らしたかと思うと、ぱっと目を見開いて、視線をぐっと落とした。私の位置からその視線の注がれる先を詳細に視認することはできないが、恐らく、ご自身の膝の上をご覧になっている。
「レオポルトさん、も、熱くなく……、なった! あぁ……あああ、ふたりとも、こんなこと、しっ、……心配し、て、くれてたの?」
 マスターの手が、繊細な見目の銃身をごしごしと音がしそうなほどの勢いで擦る。力の抜けたような声が、一音ずつ、眩しいほどの懸命さを滲ませて発せられるのを聞きながら、私は、いいから早くと、彼女の代わりに暖炉へ薪を焼べたくて仕方がなくなっていた。
「……う、……っぅ……」
 マスターは泣いていた。
 ぽとぽとと、二挺の銃の上に小さな光のかけらが落ちていくのが見えた。
「こ、わ、かっ……」
 かちゃかちゃと音を立て、マスターの腕が、彼らをひしと抱きしめる。
「ふ、たり、が、こわ、こわれ、ちゃうかっ、て、こ、こ、こわ、嫌、う、うう……」
 涙に溶け入るような一音一音が、何を言わんとしているのかは私には痛いほどに分かった。先ほどから、シャスポーさんのいる方から重たいオーラが放たれているのには気付いていたが、マスターにこんなふうに言わせて、泣かせてしまって、今一番彼らを責めているのは他でもないタバティエールさんとレオポルトさん自身の筈だ。
「わ、かった、つけう、つけるから……火点ける、寒くしない、から……っも、やめて……こわ、こわれないで。い、い、いいい、いやだ、さみしいよ」
 マスターはべしょべしょに濡れた声のまま、ライフル二挺を床に放り出して、てきぱきと暖炉に火を入れた。それからまた二挺の傍へと戻って来ると、……私たちに背を向ける格好で、そっと彼らを拾い上げた。
 ……たぶん、キスをしている。
 私も、ふたりきりで散歩に出掛けた後など、皆からは隠れるようにして、マスターのキスを貰うことがあるから、分かるのだ。そうしてもらえるのは、私だけだと思ったことはない。マスターは私たち一挺一挺のマスターで、一挺一挺をそれぞれ愛してくれていることを知っているから。
 私は知っている、けれど、やっぱり、目の前でそれを見せられると、少し妬けてしまうかも……なーんて、ね。

「──マルガリータくんと……サカイさんと……ケンタッキーくんの……いいセンス……思い出してね、飾ってみたよ。新年の飾り……ね、見た? これ、ふふ……なんかアリ・パシャさん、みたいで、ふふ、安かったし、面白くて、買っちゃった……あははっ」
 暖かくなった部屋で、部屋着の柔らかなカーディガンに身を包んで。少々お疲れになったのか時折いつもの手話を挟みながらではあるが、マスターは楽しそうにお喋りを続けてくださっている。
 壁際の一番隅の方でそれをうとうとと聴いていた私は、ふと、彼女の視線がこちらへ向けられたのを感じて、どきどきと鼓動の跳ねるような高揚感とともに一気に目を覚ました。
「……お正月の……喧騒が、止んだら、……いっしょにゆっくり、お散歩、して……ね、ケインさん」
 ──ええ、勿論。
 飾り付けをお手伝いできるようなセンスも、あなたを心配するあまりに我を忘れられるほどの勇気も、私にはないけれど。
 本当は静かでゆったりとした時間を好むあなたの隣で、あなたの歩調に寄り添って、その穏やかな歩みを支えることができるのは、私だけだから。
 あなたの手に初めて口付けたあの瞬間から、あなたが私に向けて微笑んでくれる今この時までずっと、ずっと、それが私の誇りであり続けているのです。
 ──私のマスター。どうかこれからもあなただけに、私の誇りを捧げさせてくださいね。

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