八ゴス

絵に描いたようなズル休み

「……大丈夫か?」
 いつもどおりに非常階段へ行くと、先客は珍しく小さく蹲っていた。ので、思わず八九はそう声を掛けた。
 抱えた膝から、白くてもこもこした頭が生えている感じだ。つまり膝に顔を埋めていて全く表情が見えない。
 返事が返ってこず、八九は相手のことが心配だというよりも自分がどうすべきか分からず不安になって、「おい……、ゴースト」とその薄い影の名前を呼んだ。
「……」
「おわっ……メシ食わねぇの」
「気分やない」
「あっそ。……俺は食うけど」
「好きにせぇや」
 のそっと顔が上がり、いつの間にか合っていた目に一瞬怯みつつ言葉を投げる。返ってきたのは通常程度の気怠さの声だったので、八九はこっそり安堵した。気遣いは苦手だ。コミュ障だもんで。
 彼が座っているのよりも数段低い位置に腰を下ろす。カップ麺の蓋をべりべりと剥いで旨そうな味噌の匂いを遠慮なく立ち上らせた。
「……ほんまに遠慮せぇへんな……」
「あー……? 食ってからするわ」
「うるさ……」
 再会して暫くは喋り方にぎこちなさがあったものの、ここ最近、こうして昔馴染みだけで過ごすときに彼は以前の口調を隠さなくなった。
 89の知るゴーストは、陰気でネガティブではあるものの口調と発言には妙なふてぷてしさのある奴だったから、こうでないとやはりなかなか落ち着かないと思っているのは彼自身よりも寧ろ八九の方なのかもしれなかった。
「あー…………」
 ずずっ、ぞぞ、と味噌ラーメンを啜っていると、不意に頭の上方から声がした。
 もぐもぐしながら何となく振り向くと、丸っこかった筈の白い影がぐでんと伸びている。上の方の段を枕にして仰向けになったゴーストの口から、その怠そうな声は漏れているらしかった。
「だっる…………」
 怠そうではなく怠いのだそうだ。
 自分も大概ではあるが、こいつも大抵いつでも怠そうにしている。しかし、引き籠もりゲーマーの自分ならともかく、彼がこんなふうに目に見えてぐでぐでと身体を投げ出しているのは珍しいように思えた。
「何やねんほんま……毎日毎日生殺しや……なんでワイがこんなとこおらなあかんねん、もう終わったんとちゃうんかいな、陰鬱な輩に構われるんもキラキラした光に目ぇ焼かれんのも沢山じゃ、だるい、ほんっまだるい、もうええわ、もうええねんワイは、……もう、ええねん……」
 長々と吐き出した影は、やがてもぞりと寝返り打って横を向いた。静かになった背中を見て漸く八九も、自分が彼を振り返ったことは間違いだったと気付いた。
 麺が伸びる。
 ゴーストに対して腹が立つことはあんまり無い。彼はベルガーみたいにバカではないし、ファルや他の奴らほどアブなくはないからだ。けれど今珍しく、八九はちょっと苛っとした。俺のお気に入りの味噌ラーメンが不味くなるじゃねぇか。愚痴を聞いてやって感謝されたのならまだしも、こんな気まずさの中で啜る伸びきった麺が、どうやったってさっきより美味くなる筈もなかった。

「だるいわ」
 懲りずにゴーストが言った。
 スープを飲み干すついでにちらっと見上げると、彼はもうさっきまでのように、膝を立てたまま仰向けに寝転んでいた。
「ほんまにしんどい……今日はミカエルくんもおらんし」
「それな」
 すっかり普段どおりに戻った空気に安堵しつつ、八九はゴーストの一言に激しく同意した。
 彼の穏やかな人柄とピアノにより奏でられる癒しは、昔から、ゴーストだけでなく八九の心の拠り所でもある。しかしそのミカエルは今日、彼の素晴らしい音楽を学外のイベントで披露するとかで、なんと公認欠席という選ばれし者にのみ与えられる輝かしい権利を行使しているのだった。
「……つーか、そんなにだりぃならサボりゃいいだろ」
 そこでふと思い付いたことを言ってみる。殆ど軽口だったので、ゴーストから返ってきたのは案の定嫌そうな声だった。
「あんさん、それ自分が言われてみぃや……どうせ後からジーグブルート辺りに煩う言われるし、何よりあの担任がえらい心配してくるからそれだけでも面倒でかなわんっちゅーに」
「……そりゃそうだわ」
 確かにうちの場合も面倒そうだと、八九は常にウエメセなあの二人と、やたらめったらなあの正義漢とを思い浮かべる。サボれるもんならサボっとるわ軽々しく言うなと、静かにキレたい気持ちはなるほどめちゃくちゃよく分かった。
「けどよ……お前影薄いんだから、ちょっとくらい教室にいなくてもバレねーんじゃねぇの?」
 さらに畳み掛けてみるが、実際これは八九だから許される物言いだった。
 ゴーストの影の薄さは自他共に認める事実ではあるものの、それを揶揄いのネタにする輩も多い。例えばベルガーのバカとか。しかし八九は煽る目的では殆どそれを言わないため、ゴーストの方も諦めたように、ただ事実の指摘としてこの声を聞き流すのだ。
「あかん。あの担任、何故かワイのことがっつり認識してきよるからな……」
「お、おう……そりゃ……ご愁傷様」
 何やねんほんまに、と毒吐く膝頭を眺めながら、八九はそっと肩を竦める。
 影が薄いことで普段から苦労しているようなのに、それが役立ちそうなときに限って相殺されるとは確かに怠い。いくらゴーストとはいえ流石にかわいそうだと思わなくもないが、しかし八九の胸を真っ先に過ったのは、同情よりもどちらかというと、とあるしょうもない安堵感の方だった。
「……まあ、二人でサボりゃ、後の面倒もちったぁマシになんだろ」
 その瞬間、がばっとゴーストが身を起こした。
 ――例えば、今。もしもこのまま教室に戻らなかったとしても、少なくとも担任である恭遠の目には、八九の不在だけではなくゴーストの不在もまた同じように映るのだ。
 二人で同時にサボっても、元々存在を認識されている八九だけが一人理不尽に咎められるということはない。日頃から存在を認識されていないゴーストだけが、一人罪を免れるという不公平は生じない。相手が、少なくともある一面においては確かに自分と同レベルの存在であるということに、八九は、我ながらあんまり褒められたものではない安心感を抱いていた。
 そしてふと思い立った。思い立ったら口から出た。
 階段に座り込んだゴーストは、こちらの顔を奇妙そうな目付きでじろじろと見下ろしていた。
「……どういう風の吹き回しや……あんさんも、何か変わったことして面倒に巻き込まれるくらいやったら……何もせんとただじーっとやり過ごそういうタイプや思うとった……」
「……ま、そーだけどよ」
 肌や髪と同じくうっすい色の視線が、それでもめちゃくちゃに目を合わせてくるので、八九は今更背中が痒くなってきて顔を逸らした。
「俺だってだりぃと思ってんだよ、いい加減……。少なくともここに来てからは目ぇ付けられるようなことはしてねーし、一回くらい許されるだろ。別に、学舎の窓ガラス割ったりバイクで珍走したりするわけでもねぇしよ」
 いや寧ろ許されたい……と八九は手摺りに背を凭れて脚を伸ばした。青空を見上げるのは昔から苦手なので、くすんだ学舎の外壁を見るともなしに眺めた。
 昼休みが終わる。安息の時間が過ぎるのはいつだって早い。マジで怠い。わりとマジで怠いのだった。
「……いくら恭遠でも、ワイらを捜し回るまでは流石にせぇへんやろうけど」
 掠れた声がして、八九は視線だけ動かした。ゴーストが、外階段を枕にした所為で寝乱れた髪の毛を手で梳って、ヘアゴムを結び直しているところだった。
「万が一誰かに見付かったらかなわん……外出よか」
 前髪を整え、何でもないことのように言ったゴーストは、しかしさっきまでこっちをガン見していたのと同一人物であるということが嘘のように、今は少しもこちらに目をくれようとはしなかった。……コイツなりに気恥ずかしいと思ってるんだろう、いろいろと。八九は自分なりの情けのつもりで、そこには突っ込まずにおいてやった。
「そうだな。このまま学校の敷地内にいても気が休まらねぇし……クソ、寮の自室なら別なんだけどな……」
「決まりや。そしたら早よ行くで」
 ゴーストが、いつになく揚々と立ち上がった。
 気が付いたときには既にこちらを追い越して階段を降りきっている。ので、八九は「ちょ……待て、ゴミ捨ててくから」とラーメンの空き殻とペットボトルを拾い上げると、少しは肩の荷でも降りたのかいつもよりふわふわして見える、その白い背中を慌てて追いかけた。

「……八九は、甘いもん苦手なんやったかいな」
「あー……? いや、味が苦手っつーより……スイーツのあのキラキラした……キャピキャピした……? なんつーか、女子が好きそうな洒落た見た目が苦手なんだよな……。それがどうかしたか?」
「……ずーっと気になっとるクレープ屋があんねん」
「え。却下――」
「けどワイ一人やと並んどることに気付かれへんくて一向に買えんねん。一回も無いねん。買えたためしが。もう半年も通うとるのに」
「半――!? お、おう……それは流石に……いや……でも……いや、ああクソ、しゃあねーな……。分かった、一日くらい付き合ってやんよ」
「ほんまに!?」
 途端、ゴーストがすごい笑顔を見せた。すごい。
 昔にもここ最近にも見たことがないような表情だったから、八九の頭には、そんな子どもみたいな感想しか咄嗟に浮かばなかった。
「おおきに。……ふふん、今日は気分がええから、あんさんの分もワイが奢ったるわ……まあ無事に注文できたらの話やけど」
 平日昼間の街道を、めいめい勝手な足取りで、テンポだけ辛うじて並べて歩いていく。そうやってついには鼻歌まで歌い出したツレの手の中で、彼の財布がくるりと上機嫌に跳ねた。

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