「うおっ⁉︎」
八九は悲鳴を上げた。見晴らしがいいと思っていた廊下で突然何かにぶつかれば、そりゃ驚く。そんなの、いつ体験しても新鮮に驚いてしまうのは当然なのだけれども、その実、八九にとってその体験は、都度驚いてしまうことすらも含めてかなり馴染み深いものなのだった。
「っ……ゴー……スト?」
生来の猫背を驚きの所為でもっと丸めて見上げた先、何も〝ない〟と思っていた筈のその空間には、今は確かに、これでもかと見知った人のかたちがあった。
「あいたぁ……。……ん、久し振り」
「お、おう。久し振り……。っていや、違ぇだろ。なんでここにいんだよ、お前」
思わず普通に再会を喜んでしまったのち、はっとして突っ込む。すると目の前の知り合いは、むーぅと眉を顰めて唇の端をひん曲げた。
「なんや、随分な御挨拶やな。まあ、ぶつかったのは確かに悪かったけれども……」
「い、いや、それは寧ろ俺のが悪かっただろ。すまん。まさかいるとは思わなかったから、いつもよりさらに気付かんくて」
「そうなるやろなと分かったうえで、会いに来たことを謝っとんねん」
ふーぅ、と静かに、嫌味でなさげに細い息を吐き出したゴーストは、視線を逸らして今更のようにぐるりと首を巡らした。
冬期休暇中の士官学校、ザクロ寮の廊下は閑散として、人影どころか人が住めば必ず僅かにでも滲んでくる気配のようなものすらも感じられない。
「……心配すんな、誰もいねぇよ」
「すると八九サンは今年もクリぼっちてやつか。御愁傷様」
「おっ、……⁉︎ おまっ、お前までそんなことを……!」
なんとなくゴーストは自分と同じ側だと、ずっと思っていたので、不意に背中を撃たれたような気がして八九は勝手に動揺した。それが勝手な思い込みであったと悟ったために、情けない羞恥心みたいなものまで上塗りされて背中の傷がぐりゅぐりゅ疼く。
変な顔をしている八九の方を、見ないような素振りをしながらゴーストは言った。
「クリスマス休暇やねん」
それは、先程の八九の問い掛けに漸くまともに答えたのだった。
「……休暇ぁ? それ、そんな、お前みてぇな立場のあるやつでもほいほい休めるようなもんなのかよ?」
すっかり臍を曲げた八九は、ドイツ軍の重鎮でもある彼の言葉に、どこもかしこもクリスマスクリスマスってとさらに歪んだ気持ちになる。気持ちが歪むと声も歪む。こっちを見ていないゴーストも、流石にそれを気付かない振りはできなかったようで、目は合わせないままおかしそうにふふと笑った。
「さぁ? ええんとちゃうの、エルメに〝こっち来るわ〟言うたら〝行っといで〟言われたからな」
「適当すぎねぇ? 大丈夫……?」
思わず普段の調子に戻って胡乱な声を出せば、ゴーストはなぜだかそのタイミングで、漸くこっちを向いた。八九はわりとゴーストの顔――線が細くて色が幽かで、空気が薄い、ようなのに彼を中心にこの世のすべての引力がぐわっと集中しているみたいな、視界に一度認めてしまえば妙な存在感と奥に秘めたような重厚感とを漂わせている、癖になりそうな不思議なその姿――をじっと見詰めていた、から、ばっちり目が合ってしまって飛び跳ねた。肩が。足の裏が地面から浮き上がるのは、なんとか堪えた。身体の中にある心臓だけが、抑え付けきれなくてばくばくと素直に鳴っていた。
「あいつらがええっちゅーんなら、ええんやろ。許可出した責任はあいつらにある。ワイは知らん」
けれどもゴーストの唇から転がり出てくるのは、甘いような言葉なんかである筈は無論まったくないのだった。
「……。あー……そーだな。ま、どのみち俺が心配することでもねぇし、どうでもいいわ」
「うん」
漸くのようやっと、八九は自分を取り戻した。普段の自分。あのときから、変わらない、この知り合いといるとき用の自分。思い出せ。思い出した。もう大丈夫。
変な期待がふとした瞬間に噴き出してしまうような、そんな感情を持っていたことにもそれが残っていたことにも、びっくりする。誰よりも自分がびっくりしているのだから、今くらいは自分にめいっぱい優しくしてやるのだ。大丈夫、お前は上手くやれてるぞって……。ちゃんと隠せてるぞって。うん。大丈夫いける。いけるよな?
「いきさつはさておき、自分、もうちょっとなんかないんかい……せっかく、ワイはこっち着いていの一番に、あんさんに会いに来たっちゅうのにやなぁ……」
〝呪ったる〟なる口癖に似つかわしい、陰気な声が滔々と述べ立てていた。八九は、ひゅんと息を呑み込む。うっかり再びときめきそうになってしまって、しかしすんでのところで、その言葉を己の中にある常識的な部分でなんとか常識的に処理させた。
「いの一番って……そういや、お前が来てんのマジで初耳だぞ。学校……いや、マスターにはちゃんと伝わってんのか……?」
ひょっとするとだ。休暇に託けた気紛れなんて装いながら、その実こいつは、何かきな臭い方向に分類されるタイプの危ない意図でも引っ提げて来たんではなかろうか?
頭に過ぎったクソ怠案件の予感に、八九は今までとはまた違った意味でげんなりと肩を落とした。姿勢が萎めば声も萎んでゆく。それを案の定聞き拾って、しかしゴーストは八九の予測とは裏腹に、くふふふんと楽しそうに笑ったのだ。
「嫌やわぁ……あからさまに、こいつさては面倒事持ち込みに来よったーって声出さんといてくれる? ほんまにただの休暇やねんて、今回はな」
……陰気とは言ったが、八九は本心において、ゴーストの声をとても耳触りのいい素敵な音色だと思っているのである。
だから再び聞こえてきたその声に対して、うっかり誘われるかのように顔を上げてしまった。まあ、間の悪いことに丁度そのとき、薄くて重たい影は空気を一変、ふんわりと機嫌を崩して拗ねたように声色を低くしてしまったのだけれども。
「こっちの人には事前に連絡せんかってん。自分の言うとおり、早々に呼び戻されてまうかも分からんかったからな」
しかし案外、こうして士官学校まで無事に辿り着けたので、彼はさっそくマスターの許へ挨拶をしに行くつもりだったのだと言う。というか実際、既に行こうとしたのだそうだ。つい今し方のことである。
「……それやのに、なぁ、なんやねんあれ、談話室のあれ。よう近付かれへんわ、あんなん」
語りながら、その情景を克明に思い出してきたらしい。ゴーストは、八九をして〝美人〟と形容するに差し支えないと思わしめるくらいに綺麗なその顔を、どんどんと顰めていった。
八九は苦笑した。ゴーストが言うところの〝あんなん〟を自分の方でも思い出して、おそらくは彼が抱いているのと同じような、苦々しい気持ちになった。また、それと同時に、そんな思いを抱いて顔を顰める彼のことを、ああ本当にこいつなんだなぁと思って、とても懐かしく――懐かしく? ――或いは――恋しく、思った。
「なんだと聞かれりゃ、見てのとおりの〝クリパ〟だな。そこに近付けねぇっつーのは激しく同意」
――お前を慕わしく感じた。
というようなことは、おくびにも出さないように努力を。
「はぁ……。そこにマスターがおるんは分かったんやけど、貴銃士もぎょうさんおるし、やかましいし……ワイがあん中を近寄ってっても、ぜっっったいに、気付かれへんやろ……!」
どうやら事の真相はそういうことらしい。
ゴーストの恨み節は最高潮に達した。冤罪の動機は被疑者の手によって明かされ、存在しない事件は大団円を迎える。客席は完全に沸き立っている。そこには八九しかいないけれども。だけどもそれでよくて、そんなことを口では虚しがりつつそれをこそ甘受しているようなのが、自分達のような日陰者が日陰者たる所以なのだ。
こんな狭っこいところで。あの頃、あの場所に、日陰は一つしかなかった。そこを日常的に、嵐が通るみたいに誰かが縦横無尽に掻き乱していって、時折、荒らされたささくれをピアノの音色がそっと撫でてくれるみたいに流れていって、それに耳を欹てたりしながら、二人してこっそり息をついていた。
そう、そんなふうに。それは、まさに今でいうところのこんなふうに。
「せやからな、先ずは八九を捜すこと――これに目下の目標を変更したっちゅーわけや。哀れなワイは」
「ほーぉ? どーせ俺だったら、陽キャどもの溜まり場から外れてぼっちでいるだろうからって? やかましいわ」
八九は笑った。失礼なことを言って寄越したゴーストの、雰囲気があまりにも柔らかかった。
日陰に、自分のほかに一人しかいなかった。こいつしかいなかった。こいつが自分の隣にいれば、或いは自分がこいつの隣に寄れば、そこが日陰になったのだ。狭くて。そこで延々と座り込んでいようが、溜息が幾らでも止まずにいようが、そこの住人からだけは、そんな態度を責める言葉が飛んでくることはなかった。
89にとっては、一人しかいなかったのだ。今は、……どうだろう。ひょっとしたら、違うかもしれないとも思うようになっている。けれどもそれは、今の八九にゴーストの作る日陰がもはや必要ないということをはけっして意味しないのだ。
では、こいつは? こいつにとって。……今は、違うのだろうか。それとも、ずっと、違っただろうか。
日陰のできる場所は。その条件というのは。
「ええやん」
ゴーストが不意に言った。いや、不意になんかではない。八九がぐるぐるって、超高速で取り留めのない思考を巡らしたこの一瞬間の前に、八九自身が放った、あの言葉への応答だったのだ。それは。
「そういう八九とおるんが、居心地ええんやから。昔っから」
不思議な存在感と重厚感とを放つ、八九にとってはこの世のすべての引力が彼を中心に集中しているみたいにも思えることがある、そんな声に。なんでもない世間話のようにごく自然にそんなことを言われてしまったらば、これはもう八九が返せる言葉なんて当然この一言しかなかろう。
「っそ、……そう、かよ……」