まだ起きてる、最後まで起きてる、と半分以上閉じた目と口でむにゃむにゃ頑張っていたリンとシャーロットのことは、もう一時間以上前に彼女らのベッドへと押し込んでもらった。
酒も入っていつもどおり賑やかなフラムは、時折舟を漕いでいるシュナイダーのほっぺたをつっついては起こしながら、穏やかに料理を抓むロードへ明るく喋り掛け続けている。
特に何があったというわけではないけれどメンバーが揃って時間も空いていて、ロードの政務も何とか少し落ち着いた頃合いだったので、夕食の後、皆でそのままだらだらと喋り続け、飲み続け食べ続けていたのだ。
今日は珍しく長めに付き合ってくれていたザイラとメイリンが、子どもらを寝かせに行ってくれた後、丁寧なおやすみの挨拶をしてからそれぞれの部屋へと戻っていった。その背中を何となく最後まで見送っていた、そのほんの直後のことだった。
「――……ミハイル」
「……うん?」
ずしりと何かが肩に寄り掛かってきて、ミハイルは水のコップを持ったままきょときょとと瞬いた。見慣れた金色の髪の毛は、そのままずるずるとミハイルの視界を横断するように移動して、最終的にミハイルの胸の辺りまで来て止まった。
「ミハイル、まだ食べ足りないですか?」
その頭はゆるっとした動きで顔を上げると、下から覗き込むような角度でミハイルと目を合わせてきた。ヨハンのきらっとした目はとろっとした部屋の明かりに照らされて、ほぐれた夜の景色らしく柔らかく溶けている。
「……いや、今日はもう満足している」
「そうですか。お酒は?」
「元々あまり飲まないし……腹が満足しているなら、なおさら」
訝しい、というよりは少し不思議に思いながら、ミハイルはヨハンの質問に素直に答えていった。
「もう眠い、かもしれないです。私も」
ヨハンは言葉どおりに目をこすりながら、言った。
ミハイルはさらにびっくりして、まじまじとヨハンのつむじを見詰めた。
「子どもたちのことも見届けたし、ザイラさんやメイリンさんもお休みになるんだって聞いたら、ああもうそんな時間かって、なんだか自分も眠たいような気がしてきて……」
ヨハンは言葉どおりに、なんだかぼんやりとしたような声音でそう続けた。ミハイルは相変わらず自分の胸許にあるその表情を、積み重なった小さな驚きが生んだ、少しの困惑を持ったまま見守る。
そんな視線に相対して、ヨハンは普段の彼らしからぬ大胆な仕草で、小首を傾げて見せた。それから、やはり彼らしからぬはっきりと甘えた声で、ミハイルに駄々を捏ねたのだ。
「ねぇ、だから部屋まで送ってくれませんか? 飲みすぎてしまったのかぼーっとして、ちゃんと歩けそうにもないんです」
不思議だ。
ヨハンはビールが好物で、お酒にも強い方だから、少なくともミハイルは彼が酔ったと言ってふらふらしているところを見たことはなかった。
ミハイルが知らないということは、ヨハンの人生においても、滅多にないことであるか、若しくはこれが初めてだということすらもあり得るのではないだろうか。
確かに、いくら強いとはいえ、彼も酒を飲めば普段よりも多少陽気さが増す――いや彼は普段から朗らかではあるし、そもそも、酒を飲むから陽気になるのか、気兼ねなく酒を飲めるという環境が彼の心をほぐして陽気さを引き出しているのかは断言できないのであるが。とにかく、つまりはいかなヨハンでも酒を飲んで酔うことくらいはあるのだろうということだ。そんなふうにミハイルは考えながら、ヨハンの部屋へと向かう廊下を歩いていた。
夜の闇は、そこに在る人間の心のありようによって、いくらでもその色を変える。孤独が心身を苛むとき、逆境が生活を縛り付けるとき、闇は穏やかな紫色をして世界にただ一人の人間を抱き締める。そして、人が人と情を交わして愛の存在を信じているとき、また夜の慰めに頼らずして心の安寧を得られているとき、それはただ黒く鳴りを潜めて、ここに光があるということを知らせるだけの静かな影となっていてくれるのだ――そう、ちょうど今夜のように。
窓から差し込む月明かりに目を細めていると、不意に、ミハイルの身体はその場に留められた。
肩を貸してやっていたヨハンが、立ち止まったのだった。しかし、彼の部屋まではまだ遠い。
「ヨハン……? 気分が悪いか?」
心配になって顔色を覗き込もうとしたが、当のヨハンは俯きがちに首を振って、ミハイルの肩を押し留めてしまう。拒まれたからにはそれ以上踏み込むこともできず、ミハイルは瞬きの間、ほんの僅かに狼狽えて自らの身体を持て余した。
「いえ、……あの……すみません」
ややあって、ヨハンから返ってきたのは、蚊の鳴くような声の謝罪だった。
ミハイルは努めて落ち着くと、首を振った。
「謝られるようなことは何もない。お前は俺に対して、こんなときに気兼ねをする必要なんてまったくないのだから。そういう関係を築いてこられたと思っている……違うだろうか?」
触れすぎてしまわないように、それでも無用な距離はとりたくないので、せめてもの折衷案としてそっと彼の肩をさすりながらそう語り掛けた。しかし、彼に心を預けたいミハイルの思いとは裏腹に、ヨハンの肩はミハイルの手の中でどんどん小さくなっていくようだった。
「……ちがうんです」
「え」
ヨハンの返答にミハイルは思わず息を呑んだ。それに気付いたヨハンは、はっと顔を上げた。
漸く目が合って、しかしお互いを双眸に映す相手の表情を認めると、二人は同様に、自分がたった今重大な失態を働いたと悟った。
堪えきれずにしょぼくれたミハイルの前で、ヨハンは必死な様子で首をぶんぶんと横に振って見せ始める。
「ち、違うんです……! 今のは、そういう意味ではなく――ミハイルとは……ミハイルとは、そう、そういう関係を築けてきたと思ってます。気兼ねなく頼り合える仲だと思ってます。ミハイルの隣は居心地がいいし、落ち着くし、なんだか心が軽くなるようで……。でも……でも、時々……軽くなりすぎるんです」
ヨハンの語気は、言い募るにつれて、またどんどんと弱まっていった。今や彼は、前半の言葉を聞いて大体の元気を取り戻したミハイルよりも、しょんぼりとして再び項垂れてしまっていた。
「……きっと、浮かれているんです。甘えすぎてしまってるんですね。さっきも、……甘えて、嘘を吐きました。〝違う〟って言ったのは、そのことです。本当は、眠たくなんかなかったんです。……ミハイルの気を、引きたくて、ただそれだけのために、あんなふうな変な態度を取りました」
ヨハンは気まずげに小さく笑った。自嘲的な響きを放って、その吐息は月明かりを避けた床の隅へと転がっていく。
「だから勿論、歩けないなんてこともありません。……一人で戻れます、ほら」
囁くように零すと、ヨハンはそっと、ミハイルから身体を離した。
触れていた肩が離れ、腕が離れ、指先が遠退く――その瞬間、ミハイルは咄嗟にその手のひらをぎゅっと握り締めた。
「……っな、」
「ヨハン」
言葉を失い身を固くする彼の手を取ったまま、ミハイルはただ、彼の名前を呼んだ。胸がいっぱいになって、それ以外のどんな言葉も、不思議と今の自分の舌には乗らないのだった。
暫くそうしていたのち、ぎゅっと握った手の力を、徐々に緩めていく。ヨハンが拒まないことを慎重に見極めてから、ミハイルは彼の指と自分の指とを一本一本、互い違いに絡めて、今度は柔らかく握り直した。
「……俺は嬉しい。ヨハン・テイルドが〝甘えすぎて〟しまうのは、相手がミハイル・ブレイクだからこそだというのなら、俺は一生、お前の前では浮かれきった恋人のようになってしまう」
ミハイルのどんな言葉も、茶化さずに受け止めてくれる数少ない相手のうちの一人であるヨハンならば、今、ミハイルが己の心の一片も取り零すまいと織り込んだこの言葉をも、けっして表面的な修辞などではないのだと分かってくれるに違いない。
ミハイルはそっと、繋いだ方とは反対の手で、ヨハンの肩を軽く抱き寄せた。
「だから……偶には、こんなのもいいだろう。お前がただ何となく俺の気を引きたいと思ってくれるのだとしたら、それに応えて甘やかしてやりたいと思うくらいには、俺は何の理由もなくお前のことが好きだ」
ゆっくりと、促せば、ヨハンもやがて、ミハイルの歩みに合わせておもむろに一歩を踏み出した。
「……ありがとう。……好きです、ミハイル」
「……ああ」
寝惚けた酔いどれの振りをしてそっと体重を預けてくるヨハンを、介抱してやる振りで優しく抱き留めながら、ミハイルは月光の廊下を歩く。