俺のマスターは異世界からの転生者だ。
この世界でその事実を知っているのは、今のところ俺一人だけ……らしい。
なぜ俺に教えてくれたのかは分からない。寂しかったのかもしれない。
何せ〝異世界で生きた前世〟なんていう、ちょっと常識では測り知れない記憶は、そこらの人間に話したところで頭から信じてもらえるようなものじゃないだろう。自分の人生観、ひいてはアイデンティティにも深く関わる重大な事柄について、誰にも打ち明けられない――そんな孤独感にいい加減抱え耐えかねたタイミングで、偶々あいつの人生を俺が通りがかった。多分、その程度の理由なのだ。
……あの時のことを思い出したのは、今、俺の目の前にいるマスターが、あの日と同じように〝堕ちて〟いるからだ。彼女は自室の机に突っ伏して、ぼんやりとしている。
両腕はだらりと身体の横に垂れたまま。俺がそっとお茶を置くと、少しこちら側へ頭を捻ってくれたので、どうにかその虚ろな目の光を確かめることはできた。
――〝僕はたいそうつまらない人間だったのだ〟。
そう言われても、俺の知る彼女の姿からはとても想像することができなかった。
――〝だから、今生では善く生きようと決めた〟。
――〝できうる限りに善く生きようと決めたのだ〟。
俺には、そんな決心をしようと思えることこそが、彼女が元々善き人間であった証左のようにしか思われなかった。
……だが、それはやはり間違いだったのだ。俺はあれから自室での彼女の姿を見るにつけ、そう思い知ることになる。
星明かりが部屋にうっすらと差し入って、窓際で立ち昇る湯気を仄白く知らしめている。
「……」
俺は彼女の臥せる机の上に、ほうじ茶の入った湯呑みを置いてしまうと、一歩、二歩、そしてもう半歩ほど下がってその背中を見守った。急須と予備の湯呑みを載せた盆は、一先ず抱えたままで。
……彼女は彼女自身のあの日言ったとおりに、やはりどうしようもなく〝つまらない人間〟だったのだ。
ほかの多くのさまざまの〝つまらない人間〟どもと同じ、どころか俺のような〝つまらない〟貴銃士とすら大きくは変わらない。つまるところこいつの根っこはどうしようもなく、平凡で、脆弱で、利己的で、怠惰な、……言ってみれば非常に〝普通〟の人間なのだった。
だから、こいつはこうして堕ちている。元々の性質が、卑しいくせに、弱いくせに、薄情なくせに、怠惰なくせに……昼間の間、その全部の性質をひっくり返したような振る舞いをするから疲れてやがるのだ。
そもそもが善い人間ならば、善く生きたところでこんなに疲れる筈がない。いや、周囲のつまらない人間たちからつまらない反発を食らって多少堪えることがあるかもしれないが、それはあくまでも、そいつを取り巻く世間の側が悪いのであって、そいつ自身の性質がそいつ自身に害を為しているわけじゃない。
マスターの場合は、違うのだ。こいつ自身の性質と振る舞いとが食い違っている所為で疲弊するのだ。
――(自家撞着が、自分の首を絞めてるってことか……)
俺は、そんなつまらない人間を見遣った。士官学校の寮室に備え付けのそこそこ良い机、の上にぺしゃんとうっちゃられたこんぶみたいなその姿。或いは干からびたくらげ。或いは道端で側溝の蓋に引っ掛かってる、雨水でどろどろになった枯れ葉とか、若しくは神社の参道脇でいつから落ちてるのか分かんねぇくらいくしゅくしゅのかぴかぴになったティッシュのゴミ。
そいつはなかなか身動ぎしようとしないので、俺は、様子見するように敢えて空けていた距離を、もう一度詰めてみることにした。手にしたままの盆は不必要なので、行儀はまあ悪いが、ベッドの上に置き去った。
できうる限りに、ゆっくりと動く。無駄な音は立てない。背中側から、そうっと回り込んで、彼女が座る椅子の横に立った。湯呑みから立つ薄白い湯気。ぴかりと照るニス塗りの机。どんなに虚ろであっても、涙の膜が張る限り、光の反射をやめることはない瞳。
「……あー、……マスター?」
「……」
「だりぃなら、無理に答えようとはしなくてもいいけど――」
「……」
彼女は言葉を発さないままだったが、その眼球が時間を掛けて、のろ、と動いたのを俺は見逃しはしなかった。
俺が身体を屈めて、もう少ししっかりと覗き込めば、僅かだけれどもちゃんと目が合った。ぼんやりした薄皮越しのまなざし。果てしない砂漠を今まさに彷徨っているかのような瞳が、夜色の涙の水面越しに、それでも俺の視線を探し当てようと懸命に焦点を絞っている。マスター。俺のマスター。あんたの碌でもない貴銃士と同じくらい弱ぇのに、そんな事実振り切って必死に足掻いてるすげぇ人。すげぇ、けど、あんたは強くはないんだよな。だから、俺には打ち明けてくれたんだろうか。俺があんたと同じくらいに弱いから、弱いあんたのこと分かってやれるかもって、弱いあんたに不必要な励ましも、的外れな慰めも、惨めになっちまうような眩しい輝きも何も寄越さないような、回顧も、反省も、ただしさも、目標も、何もかもぜんぶそのときだけは放り出せるような、そんな相手であることを俺は期待されていたんだとしたら?
あんたが、そのしょうもない腹の中をぶち撒けて堕落してしまえるような、相手を、そんな仮初のどうしようもない居場所を、もしもあのとき、俺に求めていたんだとすれば。
「……なぁ。俺、ここにいような」
俺はそう言った。
できうる限りにゆっくりと、柔らかく、優しい声を出してやりたかったのだけれど、果たして上手くいっただろうか。
「……、……」
マスターは一瞬、しゃくり上げるように息を詰めて、唾を飲み込んで、それから、結局何も言わずに瞬きだけで頷いた。
……俺は、それを見て、心底ほっとした。
思わず、小さい子どもでもあやすように、彼女の肩をとんとんと叩く。――するとやにわに、彼女が身体を動かしたのだ。俺はたいそう驚いた。……振り払われる、と咄嗟に思った。
今までの動きの無さからは想像もできないほど、俊敏に繰り出された彼女の手は、しかし予想に反して俺を撥ねつけることはなかった。それは寧ろ、驚いて固まってしまった俺の腕を……掴んできたのだった。まるで引き留めるかのように。
「……っ……!」
抗うべうもなく鼓動が跳ねて、俺は危うく上げかけた悲鳴をすんでのところで呑み込んだ。一気に顔が熱くなる。
……こい、……び、と、に可愛く甘えてこられた彼氏でもあるまいし……こんなときに浮かれてどうすんだ、俺。
俺は、自分の気を紛らわすためと、きっとこっちの動揺が伝わってしまったであろうマスターへの誤魔化しとを兼ねて、ことさらに面倒くさそうな調子を装うと、やいやい大仰に捲し立てた。
「――あぁあっ、もう、わーってるっての‼︎ お前が俺のこと、もう流石に鬱陶しいわっつーまで、ちゃんと傍にいてやっから……! 泣くなり甘えるなり好きにしやがれっ、俺、別に人の世話焼かされんの慣れてるし⁉︎ あんたと二人っきり黙って同じ部屋にいんのも、わりと居心地いいっつうか別に苦ではねぇしな……⁉︎」
喚くうち何だかやたらと恥ずかしくなってきて、殆ど捨て鉢な気持ちで彼女の頭をわしわし撫で回したら、「……ふふん」……ぼさぼさに垂れ下がってしまった髪の毛の下から、僅かに聞こえたのは、ひょっとすると、もしかして、マスターの……柔らかな、小さな小さな、楽しそうな笑い声だったんじゃないだろうか。
そうだったらいい。
……けど、もしも本当にそうだったらと思うとますます照れくさくなってきて、俺は暫く彼女の頭を遠慮なしにぼさぼさ撫で回し続けた。