「あ、の……っ」
震える右手を差し出した。振り絞った声も醜く震えていた。
「……す、き、です……ミハイル……。その……う、受け取ってくれま、せんか……」
右手を差し出したまま、萎む言葉と共に項垂れる。目を見て伝えなければと思っていたのに。
たとえ、どんなに望みの薄い恋であったとしても。
手のひらに乗せて見せたハートは、不器用に熔けかけたまま固まった、ガラス細工のような歪な形をしていた。
とくとくと、その中で薄紅色の炎が脈打っている。私の心臓。ロードに、アヴァロンに捧げるものとはまた別の、ミハイルのためだけに燃えている私の心臓。
受け取ってくれと言ったのは、その実、方便のようなものだ。礼儀ともいうべきだろうか。具体的な要求を伝えれば、相手もそれを断りやすい。目の前で断られたなら、要らなくなった現物はその場でぐしゃっと捨ててしまえばいい。すなわちこの醜いガラス玉を。
そうすれば、ミハイルも安心するだろうと思った。私が彼への恋心を捨てる様を、目の前で確認することができればきっと。
……捨てるつもりで見せたのだ。
そんなふうに取り出したハートは、一人の部屋でこっそりと確かめていたときよりも、ずっとちっぽけで、恥ずかしいものに見えた。
「……」
ミハイルは何も言わない。私もこれ以上何を言うこともできなかった。
表情が分かれば何かしら察せるものもあるのかもしれないが、背中を曲げてまで俯いてしまった私には、今更顔を上げることは、一人で身の丈以上の大岩を動かそうとするほどの困難だった。
何か、言わないと。私自身の時間ならそうやって幾ら空費していたって構わないが、私が待たせているのはミハイルなのだ。こんなことに彼の時間を割かせてしまっているのは、私なのだ。彼が言葉も失うほど困ってしまっているのなら、その原因を作った私が場を取り為さなくては。
「……」
なのに、言葉が出てこない。声を出そうとするだけで震えそうになったのが分かったから、慌てて唇を噛み締めた。……何をしてるんだろう。今更になって後悔が襲う。もうこれ以上は押し殺せないと、打ち明けることを決めた筈だった。けれども、その判断は本当に正しかったか?
――殺せばよかったのだ。殺す覚悟がなかっただけだ。惜しくなってしまったんだ、自分の気持ちが。
殺せなかったのじゃない。殺さないことを選んだだけ。
……あまりにも身勝手だった。
そのことに漸く気付いた、私の身体は衝撃に竦んだ。差し出す右手から、最低限の力も抜けていく。見せないこともできたのに、見せるしかないと強迫的に思い込んで曝け出した心。こんなふうに醜いのも道理だった。このまま落ちて割れてしまえば、……受け取らない理由を、彼が探す必要もなくなる。
「……あっ」
「……!」
ミハイルの小さな声が聞こえた。
――次の瞬間、力を失って垂れ下がりかけた私の右手が、優しい熱に掬われていた。
ミハイルの手だった。見なくても分かった。
どんなに醜くても。どんなに傍目に下らないものでも。どんなにちっぽけな思いであっても。それが〝人の思い〟なら、目の前で落ちて壊れるのを黙って見過ごせない。助けてくれたのだ、ミハイルは。たとえ自分へ向けられた不要な恋心であっても、ごく近い未来に捨てられることが決まっているものだとしても、今はまだ、これは〝私のもの〟だから。
優しい。
優しい人だ。好きだ。
そう、こんな彼が好きなんだ。紛れもないこの彼のことを私はずっと好きだった。
好きだ。
大好き。大好き。
ミハイル――……。
薄らとぼやける視界に、私の右手を心臓ごと包み込む、ミハイルの優しい両手があった。あんなに重たかった筈の頭が、何の苦もなく自然に上がったので、私はその様を見ることができたのだ。
今の今まで押し留めていた――いや、緊張と恐怖に圧されて忘れていたかもしれない感情が、堰を切ったように溢れて堪らなくなる。ミハイルを好きだ、大好きなんだと思い返す度に、手の中のハートが信じられないくらいに激しい炎を宿した。あまいピンク色がけぶって逆巻いて、儚い火の粉を、透明なガラスの中で闇雲に散らしている。
「……綺麗だな」
呟いたのはミハイルだった。私は弾かれたように顔を上げた。
漸くまともに見詰めることができた彼の顔は、私の好きな、あの優しくて甘い表情を浮かべている。
そしてその目はじっと、私の手の中へと落とされていた。
「……え……」
「……俺に向けてくれた、想いなのか?」
見下ろした視線を動かさないまま、ミハイルが訊ねた。それはあまりにもやわらかい、向けられたこちらまで胸の詰まるような声だった。
そんな筈はない。
……あり得ない。だって見るからにこんな不恰好で。ミハイルに触れられただけで、こんなにも浅ましく跳ね上がる鼓動。そんな物を見て、綺麗だなんて、そんな、……そんなふうに、まるで心が震えたみたいに、真摯な声で確かめてもらえるような美しさなんて、私の恋にはどこにもない。
どこにも、ない、のに。
「……はい……はい。ミハイルに……」
私は頷いていた。何度も何度も。
止められない涙がたくさん落ちて、左手で必死に拭った。動じない右手の温もりと、優しい相槌とに導かれるように、もつれていた気持ちが信じられないくらいするするとほどけて、漸く編み目の拙い言葉として形を得ていく。
「初めてなんです……こんな感情は。だからかな、こんなに不恰好で。けど、……けど、私にとって、すごく大事なものでした。鮮やかだった私の世界に、全く別の熱を教えてくれた。詩を添えて、踊り出したくなるようなときめきを与えてくれた。これは、……こんなものであっても、……ミハイルが、育ててくれた想いです。ミハイルのお陰で、持ち得た私の心です。だから――」
綺麗な星色の瞳が私の視界に瞬いていた。
「――ありがとう、ミハイル」
やっと、目を見て言えた。
碧い真摯な煌めきだけが、ぐちゃぐちゃにぼやけた光の海の向こうで、標のように私を支えてくれている。それを頼って泳ぐように呼吸をする。軽くしゃくり上げてしまった私の背を、ミハイルがまるで労わるように撫でてくれた。
近付く距離に、また手の中が熱くなる。目の前の胸へと飛び込んでしまいたい衝動に駆られて、それを拒むために彼の身体ごと突き飛ばしてしまいたくなる。そのどちらも選ぶわけにはいかなくて、私は棒のように身体を固くしながら、もっと泣けてきてしまった。
ミハイルの柔らかな声が降る。
「……俺の方こそ。ありがとう、ヨハン、本当にきれいだ。……こんな尊いものを、本当に、俺に預けてくれるのか?」
そっと、右手の甲、親指の付け根あたりを撫でられる……その感触で、私ははっと我に返った。
……ミハイルは今、何と言った……?
「あ、あの……と、うと、い?」
「これのことだ。この――お前の、恋心」
「あの、で、でも。それ、を、預けてしまうってことは……ミハイルがそれを預かってくれる、っていうことは……その……つ、つまり……」
私は言い淀む。この期に及んで、そんなことを口にするのがとても気恥ずかしかった。そんな甘酸っぱいような気持ちと、そして、ミハイルの言葉に逸り期待を抱きそうになる、狼狽えた心の苦み。
飲み下し損ねたそれらごと吐き出してしまうように、
「――それって、〝私の恋をミハイルが受け入れてくれる〟っていうことに……! ミハイルが私と〝恋人同士になる〟ことを、承諾してくれるっていうことに、なってしまうんですけど!」
私は勢いよく言い切った。ああ。改めて言葉にしてしまうと、なんて寂しいことなんだろう。こんな叶いそうもない願いをよくも本人に向けて打ち明けたものだ。
……そう、叶う筈がない。あり得ないのだ。ミハイルが私の〝恋心〟を預かってくれる、なんてそんなこと。
「勿論、分かっている」
しかしミハイルは、先の私の言葉に対してはっきりと頷いた。躊躇いも動揺もないその声に、私は驚いて、反射的に詰め寄った。
「でもっ、じ、じゃあどうしてそんなことを!」
「そんなこと?」
「まるで、預かってくれる気があるみたいな言い方……ミハイルはそんな、徒らに気を持たせるようなことは、言わないです……」
「……気を持たせるようなことは言わない。俺にその気があるから言ったんだ」
「そ、その気……? その気って?」
私の頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。ついさっきまで私にとってポラリスだった碧色は、今は、よく、分からない、まるで怖ろしいくらいの怪し火だった。
何を、何を言ってるんだこの人は? その気が……その気がある? 私の恋を受け入れる気が?
無理をしないでほしい。適当なことを言うなと詰るつもりはない。ミハイルはそんな、適当な返事をするような人ではぜったいにない。だから、無理をしないでほしかった。そんなふうに〝心を砕か〟ないで。……お願いだから……。
「ヨハン。ヨハンと恋をしていくつもりが、俺にはある。だから――」
「やめてください!」
思わず悲鳴のように声を荒らげた。ミハイルがぴたりと、従順に言葉を止める。私は胸苦しくなって、自分自身の小さな願いなんて一息にかなぐり捨てて喘いだ。
「だって、だってミハイル……恋をしたことが、生まれてから今までたったの一度も、ないって、」
「それはお前も同じだったんだろう?」
ミハイルの声は、存外に静かだった。私が引こうとした右手を怖ろしい反射神経で捕らえて、今は手首を強く握り締めている。
ミハイルの真意がちっとも見えなくて、空怖ろしいくらいなのに、彼に触れられると単純に悦んでしまう、浅ましい身体。不安ではなくときめきに跳ねた己の肩がひどく恨めしかった。
「それでも、ヨハンは俺に……恋をしてくれた。なら、俺だって。もしかしたら……お前となら」
ミハイルは、私を慰めようとして言っているのではなかった。あんなふうに、少し困ったような優しい声ではない。今のこれは、強くて、確かに彼がそうしようと考えていることを、信頼する相手に向けて話してくれているときの声だった。
だから私は却って、彼のその意思を説得しなければならないという途方もない予感に、眩暈を起こしかけていたのだ。
「――無理ですよ、そんなの……」
「どうして?」
「……もし、ミハイルが〝恋をする人〟なんだとしても。……それは、私とじゃ、無理でしょう」
「……なぜ、そう思うんだ?」
「だって、……だって……」
私は彼に掴まれている、自分の右手を見詰めた。握り込んだ指の間から、卑しい明滅が隠しようもなく漏れ続けている。ピンク色の稲妻のような炎は、歪んだガラスによってひどく屈折している。
「……私は、こんなに下手くそな恋しかできなかったですから。そんな相手じゃ、あなたの恋のきっかけになんて、なれる筈もないでしょ?」
縋り付くための台詞にならないように、私は敢えて諭すような声色を作った。極端に突き放そうとすれば、彼はきっと追いかけて来てくれてしまう。だから、もう、さも分かりきったことを今更教え込むかのように。ある種、上から言い含めるような不遜な態度でもって。
そうやって彼の偏屈な意志を萎えさせることで、なんとか、正常な判断力を取り戻してもらうことができれば――
「好きだ」
……。
「……へ……っ?」
私は素っ頓狂な声を上げた。ミハイルの声で、幻聴が聞こえた気がしたのだ。
どんな聞き間違いだ。
いや、聞き間違いに決まっていた。
「下手くそだろうと何だろうと。俺は、お前のこの〝ハート〟を美しいと思う。お前が俺に見せてくれた、その瞬間から――たとえ、お前にとっては理想とかけ離れた出来損ないのように見えているのだとしても、俺にとっては、見たことも、想像すらしたこともなかったほどの、綺麗で、素敵なものだ。
俺はお前のハートが好きだ。ヨハン。それでも……お前は俺に、〝無理だ〟と言うのか? 俺が、……あなたに、恋心を返せるようになる可能性を……ほんの少しもないと、決め付けてくるのか?」
ミハイルは最後、僅かに悲しそうに眉尻を下げた。……その顔を見て、私は、漸く眠りから目覚めたような心地で瞬いた。
あまりのことに、ただただ茫然と浴びている外なかった言葉の数々が、少しずつ、文意を伴って頭の中へと浸み入ってくる。
……ミハイルも、ただ私のことばかりを気遣っているわけじゃないのだ。
そんな当たり前のことが、漸く霧の晴れるように理解できた。
ミハイルは優しい。けれどそれは、いつでも誰かの望むようにある、というような意味ではけっしてなかった筈だ。私はそんな当然のことも、上手く分からなくなっていたのか。
ミハイルは、私の話を聞いてくれた。聞いた上で、彼自身の考えを持ってくれたのだ。それを私に渡そうとしてくれている。彼の思いを頭ごなしに否定して、耳を貸そうとしていなかったのは私の方だったんだ。
「ごめんなさい。……私が間違ってました。ミハイルの意思を――まして、あなたがこれからどういった人生を歩んでいくのかなんてことを、私が決め付けようとするなんて、とても失礼でしたね」
「いいんだ。それは許す。俺の方こそ……今すぐに同じものを返せなくて、心苦しい」
ミハイルは本当に苦しそうに眉根を寄せた。私はそんなことを気負わないでほしいと思ったけれど、また彼の苦しみを否定するようなことを言ってしまいそうだったので、黙っていた。
ずっと背中を支えていてくれたミハイルの右手が、ふわりと離れていく。彼はその手を自分の胸に当てて、……やがてそこから何かを掴み出した。
「……今は、これを持っていてほしい」
そう言って、彼がこちらに差し出したのは――
「俺の、ヨハンへの想いだ。今はまだ、お前のものとは全く違った形をしているが……それでも、俺がずっとお前を〝愛して〟いたことは事実だ。これは、俺の心の中の、本当に大切な一部なんだ」
――それは、世にも美しいアメジスト色の欠片だった。とろりとした夜の闇のような質感の中に、優しい月のような黄金色が、仄かに光を放っている。
私は息を呑んだ。
「これが、いつか……もしかすると、恋心というものに変わる……そうなれと、今の俺が本気で願っている、その時が現実に訪れるまで。……これを預かっていてくれないか。ヨハン」
ミハイルは、言葉に違わず大切そうに摘んだそれを、こちらへとおもむろに差し出す。私は慌てて、遊んでいた左手を持ち上げた。
ぎこちなく開いた手の上に、そっと、ミハイルの心が落とされる。持ち主以外の肌に触れて、その欠片の中では、真砂のような夜色の粒子がゆっくりと渦を描くように巡った。……本当に綺麗だった。
見上げると、ミハイルは、私の心許無い判断を肯定して自信を持たせようとするように、真っ直ぐに私の目を見詰めてくれていた。
「……。……分かり、ました」
「! ヨハン……!!」
私が返事をした途端、ミハイルの纏う雰囲気、表情までもが見るからにふわっと柔らかくほどけた。その嬉しそうな声と細められた視線とに擽られて、私は、やっと自然に笑うことができた。
「ありがとう、ミハイル。でも、これは……このままでも、いいですよ。……恋に、変わらなくても。今の姿でこんなに綺麗なんですから」
「……それは、ヨハンに向けた想いだから……綺麗だとしたら当たり前だ。俺にとってのヨハンが、勿論完璧な人間ではないけれど、そんなところも含めて美しく、愛おしい存在なのだから」
「あはは、……ありがとう」
真面目な顔で、落ち着いた声で、そういう言葉を真摯に紡ぎ出す彼のことが大好きだった。
「……本当に、恋には結局なれないのかもしれない。でも、俺は願わくはお前に同じ熱で応えられたらと思っている。だからこそ、この望みを叶えられるその日まで――拙い俺を、お前の〝恋人〟でいさせてほしい」
ミハイルがゆっくりと、私の左手の指をなどるようにして閉じさせる。私は応えて、もはや自分自身の一部となったかのように、その心を、そっと手の中へと包み込んだ。
代わりに、私は自分の右手を開いて見せる。なおもぱちぱちと爆ぜている心臓。ミハイルがじっと視線を落として、少し唾を飲み込んだ音が聞こえた。その様がどうしようもなく色っぽく思われて、私は一人、顔を熱くした。
「……ミハイルに預かってほしいです、私の、心」
もう一度伝えた声は、意志に反して蚊の鳴くような音になってしまった。……これは、ミハイルがあんまりかっこいいからいけないのだ。私を、こんなにどきどきさせてくるから。
「ありがとう、ヨハン。……俺の中で、大切に守らせてもらう」
真剣な声でそう言って、彼はばかみたいに慎重な手付きでもって、歪なハートを摘み上げた。漸く軽くなった右腕が、安堵を伴ってぱたりと身体の横へと落ちる。
……熱いな、という呟きが、私の耳から入って頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回した。
もはや彼の手に渡ってしまったからといって、しげしげと観察されるのはやはり恥ずかしくて堪らない。返してくれとうっかり詰め寄りそうになったのだが、しかしミハイルは、一頻り私のハートを眺め終えると――次の瞬間には案外あっさりと、それを口の中へ放り入れてさっぱり飲み込んでしまった。
「……ぁ……」
あまりにも躊躇いのない所作に、私は思わず茫然として、ミハイルの顔を見遣った。私の心を丸呑みにした唇。嚥下した喉。そして、おそらく今それが収まっているであろう場所――胸の辺りまでを。
「……」
ミハイルが不意に、そんな私の顔と、何かとを、見比べるような仕草をした。
私は我に返って、その意図を汲もうと彼の瞳を見詰め返す。――ミハイルは、私の持ち上がったままの方の手を見下ろして、それからもう一度、私の目を覗き込んできた。
……その目は心許無く揺れながら、私の行動を見守っているのだった。
私はやっと、彼の不安に気が付いた。そうすると最後、その不安をどうしても消してやりたくなった。私の行動一つで次の瞬間にもそれを消し去ってあげられるのだと思うとどうしようもなく気が急いてきて、私は不必要なくらいに慌てて、彼のハートを飲み込んだのだ。彼が私のをそうして見せたように、ぱくりと、少しの躊躇もなく。
口にした瞬間、透明だった。ミハイルの心は優しい冷たさに澄んでいて、ソーダみたいに心地いい刺激と、癖になりそうな仄かな甘さがあった。それは一瞬のうちに喉を滑り降りて、そうして、私の一部になった。とこん、と、一回だけ大きく跳ねた心音。あそこに今、ミハイルの心が落ち着いたのだと分かった。
ミハイルが自分の左胸を押さえて、そっと息を吐く。
「……ありがとう。ヨハンの心は今、俺の、この辺りにある。……心音がいつもよりも心地いい気がする。お前の心がすぐ傍にいてくれるお陰だろうか。……聞いてみるか?」
穏やかな微笑みでそんなことを訊かれ、私は思わず飛び上がった。
「き、……聞かないですよ! わざわざ……それに、ミハイルの心音が普段どんなのかとか、知らないし……」
咄嗟に半歩、後退りながら、私はもごもごと突っ撥ねた。そうして断ってしまってから、ほんの少しだけ後悔する。
もしも、〝聞く〟と答えていたなら――彼の胸に耳を付ける、それほどまでに近くに行ける……身体を触れ合わせることが許されるための、妥当な言い分を得られたんじゃないのか?
ごく自然に自分の中へと浮かんだ、邪な悔恨に、自分でびっくりして慌てて首を振った。今の私は、見ようによってはきっと、軽い冗談をものすごく拒絶してるみたいになっている。
けれどミハイルはそんな私を見て、少し肩を竦めただけだった。それどころか、小首を傾げて、もっととんでもないことを畳み掛けてきたのだ。
「それなら、……俺が、お前のを聞いてもいいか? 許してもらえるなら、聞いてみたい」
私は欲望に負けた。どうしても彼と触れ合いたいという邪な欲求が、私に、頷く以外の返答を許しはしなかった。
後ろめたい気持ちは勿論ある。それでも、彼が、私が後退した所為で僅かに空いた距離をすっと詰めてきたときに、ああもうそんなことはどうでもいいと投げ遣ってしまった。私はミハイルを求めている。彼の持つ熱にどうしようもなく焦がれている。これが愛欲っていうものなのだろうか。ミハイルは、私の差し出した恋にこういった欲望さえも含まれていたんだということ、知っているだろうか。
ミハイルの手が、私の肩に触れる。身体に触られたこと自体は今までにもあったし、そのときミハイルはいつも優しかったけれど、こんなに、繊細なお菓子でも扱うかのように慎重そうに触れられたのは初めてのことだった。
ばくんばくんと心臓が暴れ出す。これを、聞かれてしまうのか? ちょっと待ってほしい。でも、……もうハートはあげてしまったのだし、今更な羞恥心なのだろうか?
ミハイルが少し、背中を屈めた。私の方がミハイルよりもやや身長が低いので、そうしないと耳を胸許に近付けることができないのだ。
どく、どく、と今や胸よりも私の耳の中に耳を澄ませてもらった方がよく聞こえるんじゃないかというくらい、私にとっても私の心音は煩かった。
ミハイルが私の胸許でそっと、首を傾ける。
彼の耳は私のそれよりも長く尖っている、から、ミハイルはたとえば私がやるであろうように、顔を横に向けて、聞こうとする対象物に片耳を付けるのではない。顔は正面を向いたまま、ちょうど、おでこを私の胸にくっつけるみたいにして、私の心音を聞いた。
「……俺も、いつか……」
ミハイルが、呟いた。私の胸に額を寄せたまま、なんだか擽ったそうな息を零す。
表情は見えない。けれど、照れくさそうにくすくすと漏らされる笑い声は、私が、出会ってから今までに一度も聞いたことのない、全く知らない、ミハイルの声だった。
「こんなふうに、……熱く打つ鼓動をお前に聴かせてやって、〝ああ、自分は愛されているんだ〟と……疑いようもない実感と幸福で、包んでやることができるんだな……」
私の目から、水滴が落ちた。
とっくに止まったと思っていたのに。
でも、こんなに嬉しそうに囁いてくれるミハイルよりも、ずっと前から彼のことを好きで好きで仕方がなかった私の方が、今、泣きたいほどに嬉しいと感じているのなんて当たり前のことだろう?
断りもなく零した涙が、ミハイルの銀色の髪に音もなく吸われていったけれど、彼は文句を言うでもなく、私の背中を両腕で慈しむように抱き締めてくれた。