ミハヨハ

恋じゃなくても

「……〝恋〟、ですか?」
 ミハイルは目の前の人に告げられた単語を口の中で繰り返して、茫然とした。
 彼女――メイリンは、うむと気遣わしげに頷きながら、ミハイルの目をそっと覗き込むように見上げた。
「そう呼ぶこともできるかもしれんという、一つの提案に過ぎぬがの。――お主が名前を付けたくなくば、敢えて名付ける必要もない。そもそも人の感情とは捉えどころのなく不定形なものじゃ……しかし、だからこそ……それを解析しようとするとき、強いて名付けを行うことは足掛かりを作るのに有効になることもあろう」
 メイリンは視線を伏せて、言葉を紡いだ。確かに染み入ってきて、それはミハイルの動揺する心を宥めていく。
「今のお主は、そういう足掛かりを欲しているように見えたのじゃ。……とはいえ、何度も言うようじゃが、わらわの提案はそういった数ある候補の内の一つに過ぎぬ。ミハイル卿には、一先ず仮にこの名を付けるとして、それが腑に落ちるものであるか、否か、またどういった点でそう判断したのか、またはしかねるのかを考えてみてもらえればよいのではと思うぞ」
 メイリンは腕組みをしたまま、視線を上げてふっと微笑んだ。眉を下げた柔らかな表情が、彼女の真摯な思い遣りをはっきりと伝えてくれている。
 ミハイルはそれを見た途端、すとんと肩の力が抜けたような気がした。
 メイリンの言葉をもう一巡、頭の中で繰り返して咀嚼する。未知のものに出会った心の動揺は、今はもう殆ど温もりと化してミハイルの胸を満たし始めていた。
「……そうか。言われてみれば、考えたことがなかった。そんなふうに名付け得る己の感情についてや――まして自分と誰かとの関係に、そう名付け得る状況が降り掛かるかもしれないなんてことは」
「そうか……なれば、この機に一考してみるのも悪くはないのかもしれんのう」
「ああ、その意義は大いにあると思う。……感謝します、メイリン卿。あなたに話を聞いてもらえてよかった。今度、美味しい月餅を探して買ってくるとしよう――勿論、チョコ味の」
「おお! ミハイル卿が選んでくださるのなら間違いはないのう……! 今から楽しみなのじゃ。月餅も、それを食べながら汝の話の続きを聞けることも……」
 メイリンは、〝いい報告を聞くのを〟楽しみにしているとは言わなかった。どんな状況になっても……どんな変化があっても、たとえ代わり映えのしないように見えたとしても、ミハイルが悩んで決断したその選択を尊んでくれるのだろう。選択をする事実そのものを彼女は静かに祝福してくれるだろう。
 そう信じていると、ミハイルの中の、未知の感情の可能性に臆する心は凪いでいった。
 ただ、落ち着いて考えようと思えた。ヨハンが、ミハイルにとって何物にも代え難い大切な存在であることには今でも変わりない。彼といて熱くなる胸の軋みも、彼を見て溢れてくる切羽詰まった情動も、彼自身に危害や不快感を与えなければおそらく愛情の一種なのだろうとは、うっすら見当がついていた。
 ……恋。
 一人きりになった部屋で、ミハイルはもう一度呟いた。
 そうであろうと、なかろうと、もといミハイルがこの想いをそう名付けようと名付けなかろうと、ヨハンにそのことを伝えねばならないということはない。けれども今のミハイルには、先達て、己の態度によってそのヨハンにあらぬ誤解をさせてしまい、そのうえそれが解けきらぬままあんな悲しそうな顔をさせてしまったという咎がある。
 だから、話をしてみよう、と思う。
 先ずはゆっくり考えて、それから落ち着いて選択をして。
 その後でヨハンに聞いてもらう話は、例えばきっとこんなふうになるのだろう。

〝――あなたに、今更、恋をしてしまいました。初めての感情に戸惑うあまり、あなたの前で普段どおりに振る舞うことができなかった。そのことで優しいあなたを気に病ませてしまったが、今話したとおり、これは俺だけが悪いんだ。だから、どうか淋しがらないで――こんなふうに情けない俺で許してくれるのなら、これからも、傍にいさせてくれないだろうか?〟

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