「……恋……ですか……?」
目の前の人から告げられた言葉を繰り返して、ヨハンは茫然とした。
目の前にいるのはミハイルだ。どう見てもミハイルだ。「すみません」と無意識に断りを入れながら手を伸ばした。彼の頬に触れた自分の手が視界に映る。同時に、ぴくりと震えた彼が気まずそうな目でこちらを見たので、ああこれは現実かもしれないなとなんとなく理解した。
「……こい……」
手を引っ込めながらもう一度呟く。意味を考えながら声に出すと、知らない単語のように拙くなった。実際、ヨハンは知らない。単語の用法は朧気に知っているが実感としては知らない。
それは自分にとっては空想のような。文学や演劇の一ジャンルのようなものだった。実際にそれを感じながら生きる人々がいることを理解してはいても、――いざ、目の前にいる、それも自分にとても近しい人が今まさにそれを抱いているのだと聞かされると、あまりにも現実離れした感覚にびっくりしてしまうのだった。
「……考えたんだ」
「……はい」
ミハイルが話してくれるので、ヨハンは聞いた。
どんな人の言葉も聞き取りたいけれど、ミハイルの話は単純に耳に心地いいという理由で聞いていたくなることが多い。本人は口下手だと言うし周りの人もそれに同意することが多い気がするが、ヨハンはあまりそう思わなかった。
「お前といると、痛いくらいに胸が火照ったり、急き立てられたように闇雲に手を伸ばして触れてしまいたくなったりする――この感情は、一体何なのだろうかと。今までにはなかった感覚だ。だから、俺は単純に戸惑いもしたし、お前のことを好いているのか憎んでいるのかすらも分からなくなるようで怖かった。
それでも、単にお前のことを可愛くて仕方がないと思ったり、何くれと手を貸してやりたくなったりするだけなら……それが良いことかどうかはさておき、まだ腑には落ちたんだ」
「ああ、……リンさんもシャーロットも、もうあからさまには甘やかさせてくれませんもんね」
「……そういうことだ」
ヨハンが苦笑しつつ肯定を返せば、ミハイルは気まずそうに目を伏せた。そんな感情を素直に気まずがれるミハイルだからこそ、二人だって未だに彼のことを人として信頼しているのだと思うけれども。
「実際、お前のことを時々、弟のように扱ってしまうことがある」
「あっ、やっぱりそうだったんですね? 偶にしてくる、あの甘やかし気味の構い方……」
「す、すまない。今後は気を付ける。……でも、やっぱり何かが違うんだ。リンやシャーロットが彼女たち自身の好意に裏打ちされた視線を誰かに向けていても、俺は、あいつらに俺以外の頼れる大人や愛情で結ばれた友達がいることを素直に喜ばしいと思える。だが、お前に対しては、……お前がこんな目を向けてくれるのは俺だけだったらいいと、お前が俺を何かしら特別に思ってくれていたらいいのにと、そんなふうに思ってしまって」
俯きがちな横顔だけを見せたまま、ミハイルはそう語った。その表情はまるで、してはいけないことをしてしまって苦しんでいる人のようだったけれども、ヨハンは、彼が告白したその内容をとても他人事とは思えなかった。
「その感覚なら、私にも少し分かる……気がします」
「……えっ?」
ミハイルが狼狽えたように唇を開いたが、ヨハンは、その動揺に呑まれないように敢えて視線を外した。
自分の中に当たり前のように息衝いていた感情。これを改めて言葉にするとなると、少し落ち着いて観察する必要がありそうだった。
「――フラムさんは、私を見付けてくださったロードのほかには、一番に私を受け入れてくれた人です。任務や訓練だけじゃなく、日々の楽しいこと、勿論悲しいことも、たくさん一緒に経験してきました。私はあの方のことを、本当に特別に思っています。だから、その相手からも、自分が同じくらいに思われていたら嬉しいなって……。
……ミハイルも。フラムさんとは違う、ロードとも勿論違って、シャーロットでもなくリンさんでもない。ミハイルは、ミハイルとして紛れもなく、私の中で特別な存在です。だから――私がミハイルにしか向けない視線があるのと同じように、ミハイルも私にしか向けない感情を持ってくれているって言うのなら……私は純粋に、胸が蕩けそうなくらいに単純に、それを嬉しいと思います」
自分の言葉が、案外すこんと自分の腑に落ちて収まる。そのことにほっとしながら顔を上げると、視線を逸らす前とは打って変わって、深く安堵したような顔をしたミハイルと、目が合った。
「……ありがとう。そんなふうに言ってもらえて、俺も嬉しい。ほかの誰でもないお前と出逢えた、俺は幸せだ。本当に……心から愛している、ヨハン」
改めて直截な言葉で伝えられると、流石に照れてしまって、ヨハンは小さく笑い声を漏らした。そのとき、ミハイルの目がとろっと弛んだので、自分の照れ笑いの意味がきちんと伝わったのだろうと分かって、胸の中がもっとふわふわしてくる。
「……あっ。あの……けど、……〝恋〟は、私はやっぱりよく分からなくて……。ミハイルが私を特別に思ってくれてるっていうこと自体は嬉しいですけど、その、もしも〝お付き合いをする〟なんていうことになるとしたら、あなたの要求に私は応えられるかどうか……」
ふと、思い出したことを慌てて付け足す。
何せ本当に〝恋〟の仔細が分からない。もしもその中に〝性愛〟も含まれるのだとしたら、自分にはその手の欲求もないものだから、そういう形でのコミュニケーションも全く取れる気がしなかった。
求められたとしても、まず絶対に応えられない。
「あっ……そうか。すまない」
不安に心臓をどきどきさせながら訴えたものの、ミハイルから返ってきたのは微妙に気の抜けたような声だった。いや、声だけじゃない。表情もまるで、うっかりした人がたった今何かを思い出した、というようなものだった。
訳が分からず目をぱちぱちさせて見上げるヨハンの顔を、ミハイルは心底すまなさそうに見詰めてきた。
「いや……実のところ、そこまで考えていなかった。これから新たにどうなりたいとか、お前に何かを要求したいとかいうことはなくて――ただ、この気持ちを伝えようと思ったのは、以前、俺の態度がおかしかったことでお前に心配を掛けてしまったから、その誤解を解いておきたかっただけなんだ」
「あ……。そ、そうなんですか……?」
「ああ。あのときは俺自身にもまだ整理できていない感情だったから、お前には〝なんでもない〟と嘘を吐くしかなかった。頼ってほしいと言ってくれたのに、本当のことを打ち明けるわけにもいかずに――その結果、お前にあんな淋しそうな顔をさせてしまった。そのことをちゃんと謝りたかったんだ。……すまなかった、ヨハン」
ミハイルの真摯な声を真正面から受けて、ヨハンの肩からはすとんと力が抜けていった。
底知れない安堵と、それから、やはりミハイルのことが大好きだという幸福感で心がほぐされていく。自分の表情が、自然に緩んでいくのが分かる。ミハイルが目を少し見開いたから、彼の方からも、その変化ははっきり見てとれるものだったのかもしれなかった。
「……ううん。気遣ってくれて、ありがとうございました。それに、話してくれて嬉しいです。私に話すために、いろいろ考えてくれたことも」
「……それは、お前を愛しているから」
「はは。ミハイルは、優しいひとだから。誰に対してだって、そんなふうにしますよ」
「できうる限り他者に誠実であろうとは思っている。でも、お前のことを考えるのは、お前のことを好きだからだ」
「っ……! ……う、うん、……はい」
迷いなく告げられた端的な言葉に、ばくんと心臓が跳ねた。
さっきから散々愛を告げられていて、それを信じてもいたつもりだったけれど、なんだか自分にはまだ分かっていないことがあるみたいだった。そしてそれに気付かせた胸の高鳴りは、けっして不快な感覚ではなく、寧ろ喜びを伴った驚きを誘うものだった。
駆け出した脈拍を抱え込むヨハンを、ミハイルは真剣なまなざしで射留める。それは、長い愛の告白の終わりに、彼のたった一つの望みを述べるために。
「……いわゆる、恋人としての交際を申し込むつもりはない。勿論、俺と同じような〝恋〟の感情を、俺に宛てて返してくれとも言わない。ただ、これから先も今までのように、お前と共にいて、お前を何物にも代え難い大切な人として愛させてほしい。……許してくれるだろうか?」
ヨハンは、……すう、と息を吸い込んだ。咄嗟に返事をしたかったけれど、間髪を入れずに声を出すにはなかなか難しい会話を振られていたので。
「――っ当たり前です! 私も、恋ではないけど、ミハイルのことを愛してます! 大好きです! ミハイルは私にとってほんとうにすごく、特別なひと、だから」
自分にしては珍しく、詰め寄るみたいに相手の両肩を掴んで声を張り上げたら、ミハイルから、これまた珍しく真正面からのしっかりとしたハグで返された。
お互い好意は素直に伝えるたちとはいえ、今日は流石に気恥ずかしくなってきていたところだったので、顔が見えないこの体勢はいちばん都合がいいのかもしれない。ヨハンはいい加減茹だってしまいそうな頭でそう判断すると、自分の両手を相手の肩から背中へと置き直して、そして、そのままぎゅっと力を込めた。
恋じゃなくても
