ワンダーランズ×ショウタイム

とても一大事

 ぴた。

 ──類のように生きとし生けるものを同じように興味の対象として、同じように尊重できればきっとそれが一番よかったんだろう。けれど、こればっかりは本当にもうどうしようもないのだ。

「……ひ、ぇ」
 寧々の口からはそういう声が漏れた。びっくりしたときの〝ひぇ〟という悲鳴と、疑問が口を突いた〝え?〟という音とが混ざった結果だった。寧々の足は止まっていた。自分の身体を、信じられない思いで見下ろしていた。
「……」
 バッタだった。
 服にバッタがくっついていた。柔らかなロングスカートの膝の辺り。バッタとしか形容のできないフォルムが突如飛来し、ぴた、とくっついた。寧々の意思などお構いなしにくっついた。
 たぶんトノサマバッタだった。寧々は虫が苦手だ。昔から類が嬉々として繰り広げようとする昆虫の生態トークなんかに、碌に耳を傾けてこようとしなかった。だから、寧々の中でバッタという昆虫の分類は大か小かしかない。小はショウリョウバッタ。今回のこれは明らかに大だった。だからトノサマバッタで間違いなかった。
 寧々は劇団の中で、緑色を自分のカラーとして当ててもらっている。ゆえに緑色を基調とした衣装で舞い歌うことも多いが、今は何の変哲もない私服を着ていた。秋色の落ち着いた色調の中に、まるで青々とした昆虫の色彩が目にも鮮やかに映えている。恐怖だった。
 それは間違いなく、恐怖だった。
「……っ」
 寧々の足は竦んだ。まさか、こんな。
(司じゃあるまいし)
 そう、だってもう高校生にもなって。虫くらい大騒ぎするほどのものじゃない。刺したりかぶれたりするのなら話は別だが、寧々の知っているトノサマバッタは少なくともそういう意味では無害なのだ。大量に押し寄せているわけでもない。たった一匹。気まぐれに留まった場所が人間の服だっただけ。そもそも偶々訪れた郊外の景色が珍しかったからと、一人で田んぼの傍なんか散歩していた自分が悪いのだ。分かっていた筈。緑あるところには虫の影あり。
 だから、大騒ぎするほどのことじゃない。ましてや恐怖なんか感じる筈がない。そんなもの感じる必要も道理もない筈。なのに。
(……どうしよう)
 どうしよう、と、今の寧々はもうどうやってもそうとしか思えなかった。それはつまり、彼女は怖がっているということだった。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう? その言葉だけで頭の中が埋め尽くされていく。そのことにすら寧々は自分で気付かなかった。バッタを刺激しないよう棒立ちになったまま、動かぬ相手を見張るよう苦手なフォルムから目も離せぬまま、逃げ出すこともできない状況に自分がパニックになっていることに、自分で気付かなかった。当然だ。寧々はまさに恐怖してパニックに陥っていたのだから。
「──寧々!」
 寧々はしかし、顔を上げた。
 自分の名前が呼ばれたことを認識したからではない。音として何かが、言語情報以外の何かが、音を伝って寧々の意識を刺激したのだった。その不思議を演じた声に引っ張られて、無意識に弾かれるように視線を上げていた。
 うおおおおお、と地鳴りのような足音のような雄叫びがする。それは近付いてくる。沈む太陽の百倍も二百倍も速く。そしてそれは太陽に代わって輝きだすどんな一等星よりも、派手で、うるさくて、いつも寧々たちのすぐ傍にいた。
「──っ──姫! この私がすぐにお助けいたします!」
 目の前に現れた明星色の人を、その目眩くような動きを寧々はじっと見ていた。あるいはぼうっと眺めていた。
 身体は未だ竦んでいて、思考は混乱している。一度逸らしてしまった視線を今更戻して、奴の所在を認めてしまうのが怖ろしいと思う感覚も残っている。けれど、意識の中に、どこか解放されたように凪いでいる部分があった。それは丁度、流星どころか隕石みたいな登場をした司の姿をこの目でしかと見た辺りから、寧々の中に現れだした変化だった。
「このっ……けがらわしい手で姫に触れるな……!!」
 地声よりもやや高く、しかしどすの効いた唸り声というものを繰り出しながら、司が見るからに必死の形相でその手を伸ばす。即興で悪役に仕立て上げられたバッタのことをは流石に哀れだと、寧々が思った一瞬後のことだった。
 ──司の手が、燃えるような緑色を掴んでいた。
 ひっ、と、寧々はもしかしたら息を呑んでしまったかもしれない。うおおおお! と今度は青年騎士の役のままの雄叫びを上げて、司が右手を振り被る。投げる動きに合わせて、田んぼの方へと何かが放たれる。寧々はその行方をうまく見届けられなかった。
「……逃げるぞ、寧々!」
 振り返った司が寧々を呼んで、その左手で寧々の右手首を握った。そのまま引っ張られて、寧々も転ぶように駆け出すほかない。
 ──司の、色の白い手に、あの緑色が鮮やかすぎた光景が寧々の脳を刺していた。田んぼに挟まれたがたがたの舗装路を、本当は騎士でもなんでもない男子高校生に腕を引かれて、ただただ必死でついていく。寧々の足がもつれそうになっていても、前を走る司は容赦せず足を止めず、速度を緩めなかった。騎士に抱き抱えられ運ばれるお姫様ではない寧々も、普段のように文句を言い募ることができないほどに思考が乱れたままであっても、いや、現状に理解が追いついていないからこそ、いざなわれるまま足を動かし続けるしかなかったのだ。
「──……寧々!?」
 驚いたような類の声が耳に飛び込んできたことで、寧々の意識は急速に晴れていった。
 辺りの景色が変わっていた。田んぼを抜けて、四人が泊まっている民宿の駐車場に戻ってきていた。
 どうしたんだい司くん、と類は続ける。明らかに司に引き摺られている様子だった寧々を心配して、それから、普段ならまずしない行動を司が取るに至った経緯と、それによって司が被ったであろう心身の負担とを純粋に心配して不安がっている声だった。
「……類ぃいいいいい〜!!」
 司は類のその声を聞き、姿を目にするや、なんというか全身で彼を手招いた。
 司は足を止めていて、だから寧々も走る必要がなくなっていた。立ち止まると、途端に自分の息遣いが耳につく。心臓が内側から大きく胸を叩いている。くるしい……。
 肩どころか全身で息をしているうち、類が宿の建物の方から二人の傍まで歩いてきた。それで……たぶん同時だったのだ。寧々と、司が、彼の空気に肌で触れて、魔法を解くように緊張を解かれてしまったのは。
「……はぁああああ……」
「……えっと.司くん……?」
「…………」
 片や司は近寄ってきた類の、手を、己の右手で不意に握り締めたかと思うと盛大な溜息を吐き出した。片や寧々は、そんな司の左手に自分の右手を優しく繋がれたまま、すこんとその場にへたり込んでしまった。
「! 寧々」
 寧々を案じて咄嗟にしゃがみ込んだ類に釣られるようにして、司もへなへなと座り込む。不安げに二人の顔を見比べる類に申し訳なくなって、寧々は、取り急ぎ何かを説明しなければと思う。けれど、思うばかりだ。精神的肉体的疲労で頭の中がしっちゃかめっちゃかになっていて、整理するための引き出しが全くうまく開かない。ゆえに寧々は、「ばった」と一言だけ口走った。
「……ばった?」
「……バッタがくっついて、わたしが困ってたら、司がきて、とってくれ、たの」
「……バッタって、昆虫のバッタかい? それを……取った? 司くんが?」
「うん」
 寧々は頷きながら、やっぱりあれは不思議なことだったんだと確信した。類すらもびっくりするくらいに。やっぱり不思議で。それで。
「……うん。司が取ってくれた。わたしの服に付いた虫。その手、類が今握ってあげてる、その手で」
 類がちょっと目を見開く。それから左手を少し持ち上げて、自分の手に繋がれている他者の手をおそらくはしげしげと観察し始めようとしたところで、
「ぬおおおおお……!!」
 手の主、もとい司がまたもや絶叫した。今度のは何やら苦悶に満ちた呻き声然としている。寧々と類が絶句して聞いていると、「これはバッタじゃないこれは類の手!! これは類の手だ!!」と司は只管ぶつぶつと繰り返しだした。
 どうやら寧々の発した言葉を聞いて、先ほどの記憶をまざまざと思い起こしてしまったらしい。あのときは咄嗟に役を演じることで、天馬司本人の持つ好悪の感情や身体感覚の一部までをも一時的にシャットダウンしていたようだが、再び天馬司としての感覚を取り戻した今、演技中に得た体験が演技を脱した自分自身にまでも肉薄してくることに耐えられなくなっているのだろう。
「……なるほど?」
 類がやがて、得心したというふうに頷いた。
「全く異なる記憶の印象を強く植え付けることで、好ましくない記憶の印象を薄めてしまおうということかな。僕の手の感触なんかで、バッタを掴んだ際の感触を君が忘れられるというのなら、喜んで協力しようじゃないか」
「だから……! バッ……ってあんまり言うな! 聞く度に思い出すんだ!」
 ふふ、と意外にも含みなさげに笑った類の手を、司がいっそ沈痛といえるほどの面持ちで、傍目にも分かるほど強く握り直す。そう。類は虫が好きだから。だから司は、バッタを鷲掴んだそのままの手のひらで類の手を躊躇なく握り締めたんだ。寧々は虫が苦手だから、だから寧々の手を司は右手で掴まなかった。
 聞かなくてもそれくらい分かる。それくらいは、分かる。元々悪くない視力や観察眼が、心底苦手な虫に対して異様なまでに感度と精度とを増すことも。だからこそ、あんな遠目から寧々のピンチを察せたことも。それから、それほどまでに虫を苦手なくせに、寧々を見捨てず躊躇いすら見せず、助けようとして一直線に駆け寄ってきてくれたことだって。
 寧々は司を知っている。知らないこともあるけれど、そういうところをは知っている。
 そうして信頼をやっている。ありがとね、司、と寧々は言った。類の手と繋いでいる自分の手を、確かめるようにじっと見下ろしていた司は、一拍と置かずにぱっと顔を上げた。
「……怖かったなあ! 怖かっただろう、寧々、一人で」
「……。うん」
 予想に反して、司は胸を張らず、はたまた鷹揚に微笑みもせずに、ただ情けなさそうに眉を下げた。
 やっぱり、知らない顔がある。そう思って、それでも寧々は、気を取り直した。
「けど、司が来てくれた。……助けてくれて、ありがと」
 自分なりに真っ直ぐに、目を見詰めた。こちらを向いて何やら柔らかく微笑んでいる気のする類のことは、意識して視界から外そうとした。アンタだって、今、意味を分かったら途端に照れて何も言えなくなるようなこと、されてるくせに。ただ全然違う感触だったらいい、ってわけじゃない。類の手だから司は求めた筈で、それは司にとって、嫌なことをそれで塗り替えられるって咄嗟に思いつくくらいには特別な感触だってことじゃないの。
 それを類は分かってないから、そんな悠長に笑っているんだ。まるで寧々だけが好ましく変わっていっている、みたいな顔をして。
 冗談じゃない。冗談じゃないのだけれど、寧々は、今は敢えて教えてやらないことにした。いつか自分で気付けるといい。ううん、いつか必ず気付けるね。だって、わたし達もう誰も一人きりになんてならないんだから。
「……ああ。人生で一番頑張ったような気さえしたがな。だが……どういたしまして」
 司は寧々に応えて、静かに笑った。それはなんというか、親切というだけではないような。どこか力の抜けた、普段の優しさの滲む瞳に、安らかなといったが一番近いような、不思議な穏やかさの混じった表情だった。
「お前が笑ってくれてよかった、寧々」
 司が緩く、左手を揺すって、あやされるように寧々の右手も揺れた。だから、手を繋ぎっぱなしだったこと、忘れられてたからじゃなかったんだと知って、寧々はそうっと安心したのだ。

 

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