雑記

司類SS『quoi』について

 フランス語の読み方が好きなので「くぅおぅうぁ」って感じで読んでいます。
 でも「クォイ」でも可。

 クワロマンティック、そしてクワセクシュアルの意味です。デミ、というのもタイトルの候補だったけれども、それだと「恋愛」「性愛」であるということは確定してしまうのでやめました。そして「relationship」というのももう一つ候補だったけれども、この単語は「恋愛関係」「交際関係」を指す場合もあるようなのでやめました。言葉を単体で出した場合に、そう読めてしまうことは自分的に誠実でないと思ったので。
 ただスキンシップの話を書きたかっただけなんですけど。
 でもただスキンシップを書きたかっただけだからこそこういうタイトルにしようと思いました。
 自分の場合であれば。
 何か「恋」というものが確定的に存在していて、それを分からないなりに推測してあたかも「ある」ふうに書くのは、もうその必要はないだろうと思いました。何か「恋」があって、それをやっているからこそ「カップリング」といえるのであって、自分のような「shipper」の書くものは「カプもの」たりえるのであって、自分や自分の好きなもの自分の書くものをそうと呼び続けるためには「恋」を捨ててはいけないという、圧みたいなものを勝手に生み出していました。CPを好きになったときからCPを書くようになったときから今までずっと一貫してそうだったわけではないけれど、そういう時期もあって、そして最近がまたなんか、そういう感じだったと思います。
 いや。フィクションとして楽しい、ことはあるから、「恋」を「フィクション感情」としてことさらに描こう、としていたのが最近だったかもしれません。確かにそれはそれで楽しくはあった。「恋」が確定的に現実にある――わけではない、という事実を、受け止めて自覚的に表すための、それは確かに自分の中での一つの答えの形でもあった。
 けれど、もういいか、と思いました。ほかでもない「クワロマンティック」という言葉に出会えたからかもしれないです。それは。
 今ここに現にある感情を、間違っているとか存在する筈がないとか、いえる筈もないと思いました。分かった、と思っていても、何回でも何回でもそうやって鱗が落ちていきます。ただ生まれただけの感覚が、そも最初っから社会的な文化的な「型」に綺麗に嵌まっているなんてある筈もないな。それを恋というんだぞ、とか、恋ではないけどこんなにも、とか、後者すら本当は言わなくたっていい。言う必要がない。少なくとも私たちにはそんな必要はない。
 まあ私には友達もいないんですけど。
 付き合いのある人なんていないんですけど。
 そんな人間が人の感情や人間関係の機微について語るのはおかしいですか。
 考えるのはばかみたいですか。
 それでもいいです。
 少なくとも今私はフィクションが好きなので。現に私は司類とワンダショが好きでSSを書いて人の目に見える場所に置いている人間なので。
 何か恋がある、みたいなものを、楽しいときならいいけれど、そうでないときにまで無理に、そう無理に、まるで義務みたいにして考えて形にしなくてもいいんだよ。
 何か恋がある、と言われて楽しくない人に、私と同じように感じる傾向のある人に、ちょっとでも居られる場所を作れる方がいいんじゃないのか。だって私にはそれができるのだ。何か恋があると思えなくても、確信を持って「『司類』が!! 好きだ!!」といえる感覚、人が苦手でも、フィクションを心底好きだと思える感覚、人を好きだった感覚、二次元キャラクターを好きでいる感覚、ぐちゃぐちゃになるくらい好きでいる感覚、それを知っている。そういう私はそういう二次創作を見たいから、だったら私にはそれができるのだからそうすりゃいいのだ。私が!
 まだ見ぬ(一生相見えることはないだろう)私の同士の、息を詰まらせるようなことをしなくてもいい。ましてや自分自身まで息苦しくなりながら。
 恋の特権化をやめよう。
 なぜなら私は! それを見たくないから!

 そういうわけで「quoi」です。

【補足】2022.6.1投稿
ポリアモリーを排斥したくない話と恋を否定はしたくない話

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