「類、」
自室でショーの話をしようとしていたのだ。司と二人。ユニットとしては休息日だったけれど、類と司にとっては趣味にも息抜きにもショーが必要だったので。
「……っあー。……いや、やめておくか……」
明らかに何かを話し始めるトーンで名前を呼んでおきながら、司は逡巡を見せ、そして挙句の果てにそう言い直した。
「どうしたんだい? 出しかけたものを引っ込められると、気になってしまうな」
「うぅん、そうだよな……! でもすまん、こんな二人っきりのときに言うことでもないからな、……いや、寧ろ二人きりのときにしか言えないのか? ……いやいや! やっぱりやめておく。すまんが忘れてくれ」
珍しくぐだぐだと言い淀んだ司は、最後にはぱっと笑ってそう結論した。一方的な通告だった。
逃げ場もないしな、とぽつり付け足された言葉の意味も気になったけれど、そのときの司の顔があまりにも柔らかい苦笑を浮かべているように見えたから、類はそっと流して、何事もなかったかのようにショーの話題へ戻ってやることを選んだ。
「……類、」
帰り道、司にまた名前を呼ばれた。夕暮れのオレンジが彼の輪郭を滑らかに煮溶かして、そこら一帯がぜんぶ司の色だった。
帰り道といってもそれは司にとっての帰り道で、類は自宅から反対方向に歩いている。類の家から帰る司を、適当なところまで見送るつもりでいた。
途中にある公園を突っ切ろうとして、そこで司が立ち止まった。寂しい遊具に目を遣って、ちょっと立ち尽くしている。だから類は自分が率先してそのぶらんこに腰掛けた。きい、と鳴るチェーンを手で揺らす。
それを見た司は、やや意表を突かれたように目を丸くした。それから、ほら、またあの柔らかい苦笑いみたいなものを零しながら、類の方へと歩いてくる。歩いてきた司は自分は座らずに、類が座っている隣のぶらんこのチェーンを掴んで、きいと寄り掛かった。立ったままでいる司を見上げて、類は漸く、この人はぶらんこを漕ぎたかったわけじゃないのかと気付いた。
ただほんとうに、類に何か話すことがあって名前を呼んだのか。
「類、聞いてほしいことがあるんだ。……いや、別にこんな改まって言うことでもないんだが……。まあ、オレがなんとなく言いたくなっただけだからな、全然、楽に聞いてもらって構わないんだが」
司は穏やかに前置きをしながら、手遊びにきこきことチェーンを揺らしていた。類の方を見ずに、両手で持ったチェーンとチェーンの間から、オレンジ色になっているであろうどこかの景色を遠そうに見詰めていた。
「オレな、類のことが好きだ」
……いっとき、類は見惚れていた。ただ茫然と目の前の絵を見上げて動かなかったし、一言も言わなかった。何を感じることもなく、ただ目の前の絵が、自分から遠いようで、また、自分たちのいるこの空間が、小さめに外の世界から区切られて曖昧に宙に浮かんでいるような気もした。
「あの……変な意味じゃないぞ。でも改めて言っておきたくてな。類と作るショーはすごく楽しいし、これからもずっとお前と一緒にやっていきたいなと思ってる。それに、こう……なんというか、ショーをしてないときのお前? みたいなのも、正直すごく好きなんだぞ。まあ、ステージに上がっていない間も、お前の頭の中は四六時中三百六十五日ショーのことばっかりなんだろうが……」
きい、きい、と司の手が奏でる。弾むようだった。
「そんなお前のこともな、見てると、やはり馬が合うように感じるというか……平たく言って、ああ好きだなと思うんだ。
――と、いうわけで! 今日も楽しかったぞ、類!」
ぱっ、と手を離して、司がこちらを振り向いた。
きらきらと咲き零れるような笑顔は、世界を曖昧に染めようとするオレンジ色の中でまるではっきりと輝いて見えた。
「こういうことは、伝わっている筈と慢心せずにこまめに言葉にするのも大事なのではないかと思ってな! ……聞いてくれてありがとう、類。送ってくれるのはここまでで大丈夫だ。お前も気を付けて帰れよ」
言いながら、差し伸べられた手を、類はとって促されるままに立ち上がる。重さを失くした座板が、からんとあっけなく跳ねるのを聞いた。
立ち尽くす類を、司は本当にそのまま置いていってしまう。
また明日、とそつなく告げて、軽く手を振ったその目は確かに類を見ていたのに。その筈なのに、類には今の司と目が合っていた気がどうしてもしなくて、返すべき言葉が出てこなかった。
司の背中は躊躇いもなしにどんどんと遠くなる。
(――……変な意味、って、なんだよ)
漸く湧いてきたのは、それは紛れもない悲しみだった。
百歩譲って、それを聞いた十人中九人がそれを〝変だ〟と言うとして。じゃあ、もしも僕が〝そういう意味〟で君のことを好きなんだと告げたとしたら、君は、それを〝変な〟ことだって言うのかい。
――そんなわけないんだろう?
「……!」
類は走った。
走って、走って、空に現れだそうとする一番星よりも早く。迫る宵闇があのオレンジ色に浸み尽くしてしまう前に。
伝える。
「――っ、司くん!!」
「……え、ぁ、類……?」
背中側から聞こえた声に、思わず振り向いてしまう。夢なんじゃないかと思ったからだ。もしも、本当に類が追ってきてくれたんだなんて分かっていたなら、こんな顔のまま振り返ったりしなかった。
乾かないままのまだ新しい涙が、しばたく睫毛に残って視界を煙らせる。
勝手に懸想したから勝手に終わらせた。最後まで一人芝居の淋しい失恋だった。真意を打ち明けるつもりはなかった。嘘だけを吐いて終わらせた。
これで、おしまい。
――に、した筈だった、だから、煙る世界の向こう側から走ってくる人の姿を認めて、それが彼だという確信が深くなるにつれて、どくどくと甘く熱く跳ねだした自分の心臓に司は失望していた。
類だ。
司の目の前に類がいた。体力はある方なのに苦しそうな顔をして走ってきた類は、足を止めてもなおつらそうで、瞬いた拍子に涙を零した司の手をぎゅっと握り締めたかと思うと、なぜか自分も泣き出しそうにくしゃくしゃと目許を歪めた。
「司くん、ねえ、ひどいよ」
「……ぁ……」
「君が僕への恋愛感情を〝変〟って思うのは勝手だけどさ、僕の想いまで一緒くたにして貶してこなくたっていいじゃないか」
「……っ!」
そのとき、息を呑んだ。
宵の間際のブルーグレーが、驚くほど鮮やかに類の姿を照らし出していた。夕陽の残滓がまるで魔法の痕跡のように、きらきらと微かな粒になって類の睫毛を化粧する。
その奥から美しい瞳が見詰めている。どんなスポットライトよりも眩く、どんな月よりも優しく、司を照らしてくれる光。飴玉のように見えてそれよりもうんと甘く、宝石のようでいてそれよりももっときららかな、その光が。
「僕は君が好きだよ。司くん。君が言うところの〝変な意味〟で好きだ。ねえ、君は……? 僕と一緒に変になってくれるようなつもりは……どうしても、ほんのちょっとも、無いのかな」
そう言って迷子にするように、困ったように、ちょっと首を傾げて、笑う。類。
類。
「……ぁ、ある」
「……ふふっ、ほんとう?」
空いている方の腕でぐしゃっと涙を拭った。視界が一瞬閉ざされるから、見失わないように手をきつく握り返しながら。
そうしてやっと顔を上げたけれど、なぜだ、まだ目の前がぼやけている。どころかどんどん視覚がおぼつかなくなってきて、喉も熱い、つっかえたように言葉が出てこなくて、代わりに漏れてくるのはみっともない嗚咽だった。
「すきなひとを泣かせてしまった」
覚えたてのような拙い呂律が、司の耳たぶを優しく擽る。
思いのほか強い力で抱き竦められながら、司は類の肩越しに星を見ていた。
涙に縁取られてきらきらと滲む、穏やかな夜のはじまりを見ていた。