天馬司

あなたの笑顔を曇らせない

(――あれ?)
 なんで。
 困っている人がいたら、助けてあげる。それで良かった筈なのに。
 みのりは固まっていることしかできない。身体は動かなくて、けれども意識はふわふわと……まるで魂だけが身体から離れてしまったかのように、自分で自分の後ろ頭をぼんやりと眺めているみたいだった。
 みのりに向かって頻りに話し掛けている――ようだが、もうその声はみのりには聞き取れていない――人物は、誰かの手を必要としていた筈だった。だって「助けて」と言われたのだ。みのりはそれに応えた。
 今いるのは決してひと気のない場所じゃない。駅の中で、大人も子どもも、女の人も男の人も、きっとそうじゃない人も、いっぱいが行き交っていた。肌の色や髪の色がいろんなで、足で歩いたり、車椅子で行ったり、ベビーカーを押したり、杖をついたり、はしゃいだり急いだり、いっぱい人が、ほら、いま、今も、みのりのすぐ横をすれ違っていく。
 みのりの傍を通り過ぎていく。
 ……〝きっと誰かが助けてくれる〟んじゃなかったの……?

「――おお、雫ではないか!?」

(――……えっ?)
 みのりは弾かれるように顔を上げた。聞いたことのある声が大きく響いた。その瞬間、あんなにも動かなかった身体が……ほんの少しだけれど、息を吹き返すように意思を取り戻したのだ。
(……しずく、って……雫ちゃん? ここにいるの? それにこの声……この声、そう、司さん……っ)
 みのりが辺りを見回そうとすると、探すまでもなくぱっと明るい光が視界へと差し込んだ。
「……〝雫〟! 久し振りだなあ、元気にしていたか!?」
「……ぇっ……」
 みのりと、向かいに立つ人物との横から割り込むように現れたのは、紛れもなく司だった。けれども、みのりはいっそう動揺してしまった。司の目が確かにみのりの顔を見ながら呼び掛けた名前が、みのりのものではなかったからだった。
「む? 会わないうちにオレの顔を忘れてしまったか……? ほら、お前が仲良くしてやってくれていた――〝類〟の〝兄〟の、天馬司だ!」
「……ぁ、あ……司さ、ん」
「うむ! 思い出してくれたか!!」
 司はきらりと笑った。彼の言うことはみのりには相変わらずちんぷんかんぷんだったけれど、……。
(……手を、伸ばしたい、)
 躊躇う気持ちはもはやみのりの中で押し潰されてしまいそうだった。みのりの意識にいるのは、今、ただ二つの存在だけだった。一つは、みのりに助けを求めた――振り、だったのか分からない、本当に困っていたのかもしれない、けれどもとにかく今はその人への対処がみのりの手には余ってしまっている――見ず知らずの人物。そしてもう一つは、司だ。あのときみのりの挑戦を手助けしてくれた、あの日、舞台裏でみのりを励まし安心させてくれた、あの人。
「――ところで、こちらはお前の知り合いか」
 司の目がみのりの向かいにいる人間を指す。心做しか……いや、確かに僅かに司の身体がみのりの前に出て、その人物との間に壁を張った。所詮司だって人で、たった一人でこの場にいて、まだ高校生なのに、だけれど、そのときのみのりには彼の作ってくれたその距離がとんでもなく無敵なバリアみたいに信じられたのだ。
 司の声は静かに、みのり自身の〝答え〟を促している。
「……っ……、……し、しりませんっ……」
 言葉が、出た。さっきまで誰も聞いてくれなかったことが。
 みのりが漸く持ち上げることを許された手を、そのとき司が掴んでくれたのがはっきりと分かった。
 引き上げられる。みのりは息を、ぐっと吸い込んだ。
「……わ、たし、さっきそこで、声、かけられて、助けてほしいから、って……で、でも、でも……わたし、やっぱり、わたしにはあなたをたすけられませんっ……すみませんっ!!」
 みのりは大きな声をあげた。頭を下げた。心から謝っていた。あの人が本当に困っていた可能性を、それを自分がなんとかして手助けできた可能性を切り捨てられなかった。
「お前が謝ることじゃないだろう。一人じゃできないことなんて世界にはざらにあるのだからな。現にそうだからこそ、この人も通りすがりのお前に頼らざるを得なかったのだろう? ――しかし、そんなにお困りなのでしたら、オレたちのような高校生よりもきちんと対応してくれそうな大人を呼びましょう。……すまんが、駅員さんを呼んできてもらえるか? オレはここでこの人と待って――」
 そこでぐわ、っと影が動いた。みのりはびくっと肩を跳ね上げる。見ると、司の肩越しに、件の人物が身体を動かしたのだった。
 みのりが頷くことも駅員さんを呼びに走ることもまだできないでいるうちに、その人物はささっと二人に背中を向けた。何やら、〝もういい〟〝必要ない〟というようなことを頻りに言って、遠慮をするように若しくは……蚊でも追い払うかのように手を、何往復も何往復も忙しなく振りながら足早に去って行った。
 ……去って、いった。
「……ふう。いや、だいぶしぶとかったな……!? てっきりオレが割って入った時点で逃げていくかと思ったんだが……」
 司が息を吐いて、こちらを振り返った。みのりはその表情を真正面から見ることになった。
 朗らかに毒吐き、コミカルに眉を顰めて、そして、みのりと目を合わせる。それはたった一瞬前まで、件の人物が去って行った方向を警戒するように見詰めていたのとは全く違った、やわらかなまなざしだった。
「おい、大丈夫――……じゃあ、ないよな。怖い思いをしただろう……。だが、もう大丈夫だぞ。花里」
「……ひゃ、ひゃい……」

 一先ず駅を出た二人は、近くのカフェに入った。連れ立って歩いたというよりも、みのりは司に連れられていたという感じだった。ずっと頭がぼうっとしていて、どうやって足を動かして司について行けたのか不思議なくらいだったのだけれど、席に通されて、椅子に腰を落ち着けたら、漸くじわじわと身体の感覚に現実味が追いついてくるみたいだった。
「花里、今から迎えに来てもらえそうな家族はいるか? それか、誰か友人を呼べそうか?」
 司がやわらかい声で訊いてくれる。彼は、なんだか申し訳なさそうな感じを隠しきれていなかった。さっき、窓際にしか席が空いていなかったことをなぜかとても謝ってくれたから、そのことを気にしているのかもしれない。
 ガラス窓の外を時折顰めっ面で気にしているのは実際、司だけで、みのりはまだあの人がつけて来ているかもしれないとか、あの人みたいな人にまた声を掛けられたらどうしようとか、そんな想像を巡らせて怯えるような余裕も今の自分は持っていないみたいだなあと思った。
「……ごめんなさい、司さん。助けていただいたどころか、付き添ってもらっちゃってて……」
「気にするな。というか、放って置けるか。オレはスターになる男!! 人の善意に付け込むような悪行を見過ごすわけにはいかーん!!」
 司は自分がたった今大声を出した自覚があるのか、周りの席をぐるりと見渡しながら「すみません!!」とあまりにも速やかに謝った。
 一通り丁寧に頭を下げ終えて正面に戻ってくると、司は、自分の目の前に置かれたパンケーキを切り崩しながらぽつりと言った。「……しかし、今、傍にいてやるべきなのは〝スター〟ではないのだろうからな」
「……?」
 自分は確かに司に助けられた。みのりはそう思う。彼が、困っていそうな知り合いを偶々見掛けて、咄嗟にみのりの知る別人の名前で呼び掛けたこと。しぶとい相手に、みのりの素性や交友関係が知られるのを避けようとまでしてくれたこと。みのりの行動を否定しないでくれたこと。それは結局うまくは実らなかったのに、その所為で生まれた感情さえも、否定せずにいてくれたこと。
 どういう意味なのかはよく分からないけれど、自分でない方がいいと言いながらも、どうにか連絡のついた相手がこの場に到着するまではみのりを一人にしないでくれていること。
 自分一人では途方に暮れてしまうぼうっとした暗闇に、きらきらっと現れては、朝が来るまで、自分で動きだせるようになるまで、辺りをそれとなく照らしながら寄り添っていてくれるのがお星さまなのだとしたら。みのりは、さっきのみのりにそうしてくれたのがスターだったことに、そのどこかに間違いがあるなんていうふうには、どう頑張って考えてみてもこれっぽちも思えない。
 考えながら、みのりはテーブルの上にじっと視線を落としていた。そんな様を世界では〝ぼーっとしている〟と名指すのだ。実際、極限まで夜更かしをしている真っ只中のような稼働率の思考回路では、本人が幾ら真剣に考えているつもりでも、そこから弾き出されるものはふわふわした取り留めのない夢みたいなものにしかならない。
 そんなみのりの視線が今ぼんやりと捉えているのは、司のナイフ捌きだった。……綺麗だなあ、と感じる。柔らかい生地にすっと入って、食器の擦れ合う音を立てずに、断面を分かつ。こんもりしたクリームとベリーをさっと掬い取って、一口分の生地に乗せる動作には淀みがないように見えた。きれいで、丁寧で。そんなふうに優しく扱われたパンケーキは本当に、
「……美味しそう、だなあ……」
「ん?」
 無意識に零れた言葉に、司が目を上げた。きらっとみのりの目にも星が映る。
「お前も食べればいいだろう? 同じものだぞ」
 台詞そのものとは裏腹に、司はしょうがないなあとでも言うみたいに目を細めて、まるで子どもを気遣うかのような優しい声を使っておどけて見せてくれた。そういえば、司はショーキャストをしているのだった。みんなが笑顔になれるショーをやっているのだと、えむも寧々も言っていた。
「はっ……! そ、そうでしたっ! ……ひぇっ、すごいぃ……! わ、わたしの分も美味しそう……!!」
「フッフッフ、そうだろうそうだろう!!」
 なぜか厨房の店員さん並に胸を張った司が、目を輝かせてフォークを手に取ったみのりを得意げに唆してきた。まだまだ好きなものを頼んでいいんだぞ、バイト代が入ったばかりで余裕があるからな、たくさん食べろ、あれもこれも頼め、と勧めてくるその様は頼りになる先輩を通り越してまるでおばあちゃんみたいだ。
 へへ、と懐かしさに力が抜けたのか、肺の底から笑い声が漏れたのをみのりは自分の頭で聞いた。
 味、を思い出す。司ほど綺麗に切り分けられなかった気がする一切れを口に運んだら、舌に乗せたら、ふわっと知らない感覚がした。……いや、自分は知っている。これを知っていた。忘れていただけだった。そう、たった数分――数時間だったのだろうか? 何せみのりはあれから時計を全く目にしていない――の間にまるで全て遠退いてしまったかのようだった、感覚、を、みのりは正しく思い出せただけだった。当然に思い出しただけだった。誰に奪われる義理もなく、たとえどこかに置き去りにしてしまったとしても、ほかの人の助けを借りてちゃんと取り戻せる権利がある。
 そういうものが今、みのりの身体に、ただいまと言いながら当たり前に戻ってきてくれただけのことだった。

「――みのり!! 天馬くん! 無事なの!?」
「おお、待っていたぞ桃井! こっちだー!!」

 フォークを咥えたまま、顔を上げる。舌に金属の冷たさ。クリームの甘い後味。開いた目に、映る、映る。
 光る声。あったかい声。きらきら弾ける。渦を巻いて包み込む。
 駅前のおしゃれなカフェの店内で、切羽詰まった二人分の大声を皮切りにして――あぁ、今。

 夜が明けた!

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