「愛し合ってるならそれでいいじゃん! ……って、思ってたん、ですけど」
杏は言葉を切った。いや、滑らかに続けることができなかったのだった。
カウンター席で隣に座る人物――神代先輩は、「うん」と穏やかに頷いた。普段は、話の途中で口を挟まずに静かに聞いてくれることが、たぶん多い人だ。だから今は、杏が言葉に詰まったのを察して、場を繋ごうとしてくれているのに違いなかった。
「その考えが、今は白石くんの中で少し変化した、ということなのかな?」
……いや、違った。先輩は場を繋ごうとしているのではなくて、杏の言葉を促してくれているのだった。言葉――気持ちを、杏が自分自身の中で整理できるようになるのを、そっと見守ってくれているのだと思った。
すると、杏の心は不思議と、ほんの僅かながら落ち着いてきた。まだぎりぎりお酒を飲める年齢ではないので、手許にあるのはノンアルコールのカクテルだ。グラスを指先でちょんっと包んだら、水滴になる前の曇りがうっすらと晴れて爪を濡らした。
「……はい。なんていうか、……うーん、ほんとに、なんて言えばいいのかな……なんか、〝そんな簡単じゃなかったな〟っていうか……?」
「……〝簡単じゃない〟、か」
「えっと……こはねと一緒に生きていけたらそれでいいっていう気持ち自体は、今も変わらないんです。けど、それって実はすごく難しかったんだなって」
促してもらえるままにするすると吐き出して、吐き出して杏は、その声を自分の耳で聞いた。聞いて、ショックを受けて固まってしまった。自分の声が存外明るかったことが、さも自分自身がその事実を〝当たり前〟と捉えていることの表れであるような気がして。
実際、杏の声が軽やかに聞こえたのは、杏が覚悟を決めて語り出そうとしたから。思い切って行動を起こしたから。それだけのことなのに、杏は自分自身ではそれに気付けない。
「……何か、君がそう考えるようになったきっかけのようなものがあったりするのかな」
神代先輩の声が柔らかくて,杏ははっと我に返った。
先輩は年齢的にはもう飲める筈だけれど、飲まない人なのか、はたまた杏に合わせてくれているのか、通っぽい穴場のバーに連れてきてくれた割にお酒を頼もうとはしなかった。彼の前には杏と同じように、ノンアルコールのグラスだけが佇む。
「きっかけ、っていうか……徐々に、かな。最初の頃は、街の人たちも、音楽仲間も、応援してくれてるって思えてたんです。でも……私たちが何年もずっと私たちでいるうちに、なんか、最近、時々……〝まだそんなこと言ってるの?〟みたいな視線を……感じるようになっちゃって! あはは、こんなのもう完全に被害妄想かもしれないんですけど……!」
神代先輩は笑わなかった。声に出さないどころか、いつも微笑むように上がっている口角すらも今は少し下がっている。杏は、どうして自分だけが笑っているのかが分からなくなった。
「あは、は、……。……あ〜……〝なんか歓迎されてないなー〟って分かるんです。個人レベルでもそうだけど、そもそも国の法律に締め出されてるじゃないですか? 私たち。別に結婚なんてできなくても一緒にいる方法はたくさんあるし、元々結婚願望みたいなものもなかったし、こはねもそこは拘らないって言ってくれてたし、なら別に、みんなが思う〝幸せの形〟に当て嵌まりに行かなくたっていいよねって……私たちは二人でいればそれで幸せだよって……あーあ。本気で,そう思ってたのになあ」
ごくっと飲むと、氷がからんと鳴った。爽やかな風味が鼻を抜けて、それで漸く、自分が手持ち無沙汰にグラスを傾けていたことを知った。
「……美味しいです」
「お口に合ったなら何よりだよ」
先輩も釣られたように自分のグラスを傾けた。様になっている。やっぱり昔から、そういう落ち着いた身振りが綺麗な人だった。
「――結局、私たちが〝子ども〟だから〝微笑ましく〟見ててくれてただけだったのかな。私たちが本気で〝生きていく〟つもりなんだってこと、分かってもらえてなかったのかな。私たち――みたいな人たちが、普通に、同じようにこの世界で今〝生活してる〟ってこと、想像もしてもらえてないんですかね? 嫌んなっちゃうなあ、ほんと」
「ふふ、そうだね。嫌だよね」
「えへへ、嫌ですよー! やだやだ!」
「うん。ほんとうに、そうだね」
神代先輩が初めて、ふにゃふにゃっと笑ってくれたので、杏はつい調子が乗って、いやだいやだと繰り返した。
本当はショックで自分が壊されてしまいそうなくらいだった、嫌な気持ちを、素直な言葉に乗せて吐露した。そんなことを言うものではないと頭ごなしに諫めてきそうにもない人を、自分ははなから頼ったのだ。自分の空元気よりも泣き言の方をこそ讃えてくれるような先輩の笑顔に、杏はなんだか身体の底からむくむくとパワーが湧いてくるような気がした。
「先輩、先輩、あの……もし嫌なこと訊いてたらすみません、そのときはちゃんと怒ってくださいね?」
「ああ、承知したよ。なんだい?」
「ありがとうございます。えっと……やっぱり先輩たちも、……こんな感じ、だったんですか? 今の私と同じように、落ち込んだり、打ちのめされたような気持ちになったり、嫌だなーーーって思っちゃったり、してましたか――ううん、してたんですよね、きっと。私、あの頃なんにも気付かなかったけど……」
杏は思わず微苦笑を浮かべて目を伏せた。「ふむ……」と、頷くような考え込むような微妙なニュアンスの声を聞いて、目を上げる。神代先輩は下唇を人差し指の背でとん、とん、と叩きながら、何かさほど難しくはないことを考えているように見えた。
この人の表情のことは未だによく分からないけれど、それでも今のこの顔は、つらいことを思い出している雰囲気では、なさそう? と思えたので、杏は少しだけ安心した。
「そうだねえ……。まあ、僕と司くんの場合――特に僕は、それ以外の部分で〝変わっている〟と言われているところが多すぎたからねえ。何をやっても〝みんなと違う〟と後ろ指を指されながら生きてきたようなものだったから、……まあ、今更というか」
「〝今更〟……ですか……?」
「……ああ、うん。いや、……ちょっと違う、かな」
目敏く切り込まずにはいられなかった杏に、気圧されたのか、先輩は手探りに言葉を選び取るようにして言い直した。
「僥倖だったんだよ。思いがけない幸せ。……僕にとって、司くんと出会ったことは」
聞かせてください、と杏は間髪を入れずに畳み掛けた。知りたかった。今の自分にとっての〝仲間〟の話を。自分たちと〝同じような〟人たちの、確かにそこにいる人生の手触りを。
一人でいたくないと、今思っているのは、杏だけじゃない。神代先輩だけでも、ないのだ。
神代先輩は、少し笑った。
「……僕は……昔からずっと一人でね。本当にやりたいことは、いつも誰にも理解されなくて。〝いつかきっと仲間ができる!〟なんてのは、僕の人生に限ってはあり得ない話なんだろうなと思っていた。けれど、そんな〝あり得ない〟筈の夢物語は、あるとき現実になったんだ。……司くんたちと、出会ったから」
――それは僕にとっては本当に、奇跡みたいな出来事だったよ。
神代先輩は記憶を辿るように、ゆっくりと話し始めた。
――あのときまでの僕には、たった一本の道しか見えていなかった。〝あいつは変だ〟と囁かれながら、一人で生きていくという道だ。それが司くんと一緒にいられるようになってからというもの、もう一本、道が見えるようになった。〝あいつらは変だ〟と囁かれながら、二人で生きていくという道だよ。
――僕の、演出やパフォーマンスが評価してもらえた。それを自分のやりたいショーに必要だと言ってもらえた。それは僕が遠い昔に夢見ては、もはやすっかり諦めてしまっていたことだった。でも、なんと……僕に訪れた奇跡みたいな〝現実〟は、小さな子どもの諦めた夢をただ叶えてしまうだけでは終わらなかったのさ。
――まさか、共にショーを作り上げる仲間ができる、だけではなくて……僕という一人の人間を、人として愛してくれる相手が、現れるなんて。そんなことはまさに言葉どおり、遠い夢にも思わなかったことだ。そう、僕は……あの日の寂しい子どもが見ていた夢物語以上の奇跡を、今、生きているんだよ。
「だから……司くんといると、幸せな気分の方が勝ってしまって、ある意味慣れっこな除け者扱いなんてどうでもよくなるかなっていう、長々聞かせてしまってほんっと〜うにすまなかったけれどこれは僕が誰かに喋りたかっただけの単なる惚気だね」
ぱちん、とまるでしゃぼん玉が弾けたのかと思った。
静かな、しかし情感豊かな語り口にいつの間にか惹き込まれてしまっていた杏は、一瞬後、まるでトランプの裏表を返したかのように茶目っぽくにやついた相手の表情を見て、はっと催眠を解かれたように現実へと帰ってきた。
「あぁーっ!? やっっぱり惚気られてた!! 途中からなんか〝あれ?〟とは思ってましたけど!!」
「フフフ。君は聞き上手だねえ、白石くん」
「どういたしましてー!?」
君もパンケーキ好きかい、と訊かれたので、彰人ほどガチ勢ではないけど好きです! と堂々と答えておく。ひょっとしたら杏が気負わず奢られておけるようにと、気を遣って惚気話なんて聞かせてきたのかもしれない、まあ、半分くらいは。もう半分は、本当にただ単に誰かに聞かせたかっただけなんだと思うけれど。
「……まあ、少し真面目に答えるとね」
「あ、……はい」
二人分のフードメニューを注文し終えた先輩が、言葉どおり真剣な雰囲気を醸し出したので、杏も思わず姿勢を正した。
「――確かに、いい気分のしないときもあったし、今でもそういうことはあるよ。それはまさに、君の話してくれたような、個人からの冷ややかな視線であったり、公の制度面での冷遇であったり、ね」
こくりと、なぜか自分の喉が締まる。まるで緊張しているみたいだと杏は心の中で軽く笑った。
「僕自身が、パートナーである司くんと二人で生きていく上で、そういったものにぶち当たったとき――嫌だと思うのも本当だ。そして、嬉しいと思うのも本当だ。こんな嫌な人生に、僕一人ではなくて彼が隣にいてくれるのだから。僕には、それが本当に幸せなことだと思えて仕方がないんだよ。
……でもね、白石くん」
杏は、彼の目を見ていた。彼も、杏の目を見ていた。自分が訴えようとして彼の目を射留めたのが先だったのか、彼の方が伝えようとして自分の目を離さずにいてくれたのが先だったのか、もう杏にはとっくに分からなくなっていた。
「僕は絶対に、こんな世界はおかしいと思う」
「……!」
ぱっと晴れた。
視界が一気にクリアになって、そこから一瞬で全てがぼやけた。何が起こったのか分からないでうろうろと瞬いているうちに、手の甲にふと何かが触れた。「……僕のタオルで悪いけれど、予備として持っていたもので、今日は未使用だから。よければ、使って」神代先輩の声がして、それで杏は、その感触が確かに柔らかいタオル地であることに漸く気が付いた。
「君の感じている痛みは、気の所為なんかじゃない。……それに、君たちの所為じゃない。君自身の所為じゃ、絶対に、ないよ」
「……っ、……っ」
「……君も、君たちも、二人で生きていられたなら、それで幸せなんだよね、」
「っ……うん、」
「本当に、それだけなのにね、」
「うん、」
「それだけのことを単純に、〝普通の人たち〟の場合と同じように単純に扱ってくれないのは、この……僕たちの社会の、構造が、悪くて、制度が、悪いからで――」
「……」
「――君の大切な人たちが〝悪い人〟たちだからなのでは、ないだろうと思うよ。君を打ちのめされたような気持ちにさせたり、もうこんなの嫌だって思わせたりするような、言葉を、視線を、投げ掛けてきた人たちは……君が大好きで大切にしていた、その人たちは……」
タオルに顔を埋めた。涙も鼻水も汗も、全部吸わせてしまわないとだめだ。溢れ出るもの、零れ落ちるもの、ぜんぶ、吸わせてしまえ。なかったことになれ。見せる前に。世界に生まれる前に。どうか。ねえ、どうか。
「君をちゃんと好きだよ。みんなおそらくは。だから、君がその人たちから祝福されていると感じていたその感覚は、その人たちから愛されていると信じていた、その瞬間は、」
――それは決して、けっして、嘘なんかじゃない筈だ。
「うわあああああ……!!」
杏は泣いた。
子どもみたいに声を上げて泣いた。自分が嗚咽し、慟哭しているという現状を理解はできていない。ただ、そのくらいに、一瞬に我を忘れて泣いていた。
「あ、あ、うわあああ……!」
「……だいじょうぶだよ。……間違っていないよ」
優しい声が、どこかでずっとそう言っていた。涙でぐちゃぐちゃの、何もかもが生まれる前の宇宙の波の中で、溺れそうにえずく杏はそれでも世界の此岸に無意識にしがみついている。それは、どこからか絶え間なく聞こえているその言葉が、杏に語り掛けていて、そうすることで、杏の存在をここに認めているからだった。
「――……幾ら好きでも、その相手を傷付けてしまうことが、ある。どんなに大切に思っていても、その相手を逆に脅かすようなことを、なんの悪意もなく、やってしまうことがある。……誰もが、きっとそういうものなんだ。僕らも含めてね。だから……だからね、白石くん、君は君の感じた痛みを手放さないでほしい。自分自身の声を、聞こえない振りなんてしなくていい。なかったことになんかしなくていい。自分自身のことを、見捨てないであげていてほしいな。僕は……君にも、心からの笑顔でいてほしいからね。世界中のあらゆる人々と同じように、そして、僕の大切な友人の一人としても。そのために僕にできることなら本当になんでもさせてほしい。だから、……今日は、話してくれてありがとう。白石くん。
……ん? ああ、タオルはまた機会があるときに返してくれればいいよ。一枚くらいなくて困るものでもないし、それで大事な後輩の涙を拭ってあげられたのだから、そのタオルにとっても本望みたいなものだろう。
ええ、司くんがかい? うーん、彼、そんなところでやきもちなんて焼くかなあ……何より、相手が君だしねえ。それを言うなら君の小豆沢くんこそ、どうだろう……今日のことを知ったら不安がってしまうかもっ……え? いやいや、そこは勿論、相手が僕だってことは伏せておくのさ。騙すだなんてとんでもない、これは純然たる恋の駆け引きさ、駆け引き! ね、白石くん?」
溶けきったアイスクリームでべちょべちょになっているパンケーキが、漸く開けた視界に映った。隣を覗き込むと、ずっと杏のことをあやすのに徹してくれていたらしい神代先輩のパンケーキも、同じ有り様でむちゃくちゃになっている。
二人して堪えきれずに笑っていると、今までどんな会話にも素知らぬ振りをしてくれていたマスターが、サービスだと言って新しいアイスを一つずつ乗っけてくれた。杏は単純に喜んだ。いろいろ気を揉ませてしまっていたに違いないマスターは、杏の衒いないはしゃぎようを見て少しほっとした顔をしていた。
「あれ〜? 神代先輩、ラズベリーは野菜に入らないんですかぁ〜?」
「……君は毎回同じネタを飽きずに振ってくるねえ。まあでも、今日はあげてもいいよ、ほら」
「え! やったあー!」
「ラズベリーに限らず、こういったベリー類は僕の基準では野菜には入らないんだけどな」
「はいはい、ありがとうございます! 遠慮なくいただきま〜す!」
「ふふ、どうぞ」
こはねに嘘を吐くのは忍びないけれど、でも、確かにちょっと反応を見てみたい気もする。あれで結構やきもち焼いちゃうタイプだからな、こはね。それにこはねがそんなふうになってくれるのが、そういう気持ちを自分に見せてくれるのが、杏はすごく嬉しいのだ。
天馬先輩が嫉妬しなさそうっていうのは、ちょっと分かる気がする。でも、あのふわきら天使オーラの化身みたいな、うちのこはねがあれだけ妬いてくれるのだ。善と陽の塊みたいに見える天馬先輩だって、もしかしたら、ねえ?
とにもかくにも、すっかり泣ききってしまってさっぱりした杏は、本当に遠慮なくたくさん食べた。また会おう。何せ〝恋の駆け引き〟の成果をお互いに報告し合わなくちゃならないのだから。あれ、まさか言い出しっぺが逃げないでくださいよ、神代先輩。だって私の手許には今、ほーら、あなたに会ってきちんとお返ししなきゃいけない物があるんですからね!