その他

justice of muscles!!

「筋肉は、正義じゃなかったんだ」

 俺は耳を疑った。
 信じられない思いで顔を上げたが、目の前の相方は依然、十数分前にこのファミレスへ着いたときと変わらぬ涼しげな顔をしている。
「なっ……ど、どういう意味、何を言っているんだ、」
「はは。落ち着いてくれ。何も……筋トレをやめたいとか楽しいと思えなくなったとか、そういう話をしたいわけじゃあないから」
 相方は笑った。その笑顔の前に大豆ミートのハンバーグが運ばれてくる。俺の前にはチキンカツが。開きかけてそのままだった英単語帳を仕舞って、俄かに萎んでしまったような食欲を奮って呼び起こした。
「――このあいだのことだよ。あの、ゲーム大会の」
「……負けてしまったが健闘したな! 俺たちはスポーツマンシップに則り、最初から最後まで正々堂々と勝負に臨んだ! 誇るべきことだ」
「勿論だ。でも、……あの場の不正には勝てなかった」
「……!」
 無理に動かしていた箸が、ぴた、と止まってしまった。そうだったのか、やっぱりこいつも。
「……そのことを気にして、さっきみたいなことを言ったのか?」
 俺がおそるおそる訊くと、相方は存外さらりと頷いた。俺は面食らって、いっとき、茫然と目の前の顔を眺めてしまった。
「ああ。あのとき、初めてはっきりと見えた気がしたんだ。『筋肉こそ正義』という私たちのモットー、これには欺瞞があったと。勿論、意図的な欺瞞じゃない。私は筋トレが好きだし、お前もまた、私と同じくらいに純粋にそうであることを知っている。けれど結果として、――事実として、あの場で私たちの〝筋肉〟は無力だった。〝不正〟な行いを防ぐことも、また既に起こってしまったそれを糾弾することすらも、叶わなかった。つまり〝正義〟を成すことはなかったんだ。私たちの、〝筋肉〟は」
「やめてくれ」
 無意識だった。
 口走らずにはいられなかった。俺の中の理性以前の何かがそうさせた。相方は口を閉じた。こいつはこいつでもう言いたいことが一段落したのでそうしただけなのかもしれないし、実際そうであってほしかった。
 そうでなければ俺は、相方を自分の命じたとおりに〝黙らせた〟ことに対して、爽快感にとてもよく似たものを得てしまいそうだった。今の俺は。
「……そんなふうに考える必要、ないだろう。ぐちゃぐちゃ暗いことを思い悩む前に、体を動かす! 気分も明るくなって、筋肉も育つ! こんなに素晴らしいことはないだろう?」
 俺は言い聞かせるように相方の目を見た。向こうも俺の目をじっと見返している。怯むことは何もない。だって俺たちはずっと、筋肉のそういう〝力〟を信じてきたんじゃないのか?
「だから……〝気にするなよ〟。あんなつまらないこと、さっさと忘れてしまおう。ここでしっかりと食べて! それから、……まあ、明日の小テストを無事に乗り切って、そうしたらまたいつものようにがっつりとトレーニングをしようじゃないか。そうすれば」
「覚えてるか」
「……何を」
 数分前の自分のしたことを、相手から仕返されて俺は口籠る。やはり、この誰よりも信頼する相方相手にあんな態度を取るなんて、こいつだけではなく俺自身も、今日はどうかしているのかもしれない。
「第二回戦の最後に『さいつよ』チームと対戦していた人……たしか、青柳さんといったかな? ……あの人が、私たちと同じようにさいつよから妨害を受けて、それでも勝負に勝って、そのあとで、言った言葉だ」
 覚えていない。と思う、俺は。
 そんな、つまらない――些細なことを、いつまでも覚えて根に持っておく暇があるのならば、トレーニングに打ち込んでいる方がよっぽどいいに決まっているのだから……。
「――『俺は勝ったし大丈夫です。このまま大会を続行してください』」
「……っ、」
 俺は飛び出しかけた言葉を必死で飲み込んだ。しかし、それでも抑えきれずに首を振る。頭を抱え、ついには物理的に耳をも塞ごうとしたのだが、なぜか、相方の声はなおも俺の頭へ……心臓へ……心へと、響いてきて止んではくれなかった。
「『せっかくの大会を〝こんなこと〟で台無しにするわけにはいきませんから』――と、あの人はこうも言ったんだ。今度こそ多くの人が目撃した不正行為を、その場の主催者である店長さんが咎めてくれた、その直後の言葉だ。私はな、……悔しかったよ。あの人は勝てたからあんなことを言えたんだ。そう、あの人は確かに、あのゲームに関してはあの場の誰よりも上手かった。言い換えてみれば、あの場の〝ルール〟に誰よりも適合できたからこそ、あの人の言葉がその場の方向性を決めることができたんだ。所詮、あの場のルールから零れ落ちた敗北者でしかない私たちは、その流れに逆らう力を――権利を、持っていなかった。
 勝負にも勝てない、これといって場を盛り上げることもできない、そんな取るに足らない存在にとっての脅威でしかなかった〝不正〟――つまりそれ自体取るに足らない〝不正〟に対して、愚直に向き合い、厳正に公平に対処するということは――〝せっかくの楽しい大会〟に水を差す、〝こんなこと〟でしかなかったんだ。あの日、あの場では。
 ……なあ、こんなに悔しいことがあるか?」
 相方が、さっきまでよりもより深く、俺の目を見詰めてきた。文字どおり覗き込むようにして、頭を抱えた俺の両腕を掻い潜るように窺ってくる。
 相方は、口では悔しいと繰り返しているのに、その表情は、俺の目にはどこまでも穏やかなようにしか映らない。そんなあいつから真っ直ぐに見詰められていると、だんだんと、俺の中の動揺も鎮まってくるように感じられた。
「……、……くやし、い」
「ああ、私もお前と同じ気持ちだよ。だから、」
 迷い路から導かれるように吐き出した、俺の不恰好な言葉を、あいつはあっけらかんと認め、共感を示し、そして同意した。俺が思わず目を細めて見た先で、力強い声が放たれる。
「私は〝正義〟の人になりたい。あのゲーム大会はもう終わってしまったことだし、今からそれについてどうこう言うつもりはないよ。だが、もしもまた似たような状況に出遭ってしまったとき――たとえば、不正をされて自分が不利な状況に追い込まれてしまったとき。若しくは、自分が誰かの不正に対して処遇を決めなければならない立場になったとき。そして、或いは……誰かが不正をしていても、私自身にはなんの不利益もないから、自分がそうしようと思いさえすれば、不正を見逃すこともできるというとき。――そんなときに、公正で公平な判断を下して、行動を起こせる人でありたい。そう、私は、そういう〝筋肉〟になると決めたんだ!」
 相方は笑っていた。その姿は、目を細めて見ていてもまだ眩しいくらいで、俺は心の内にもどかしさに似た気持ちが芽生えるのを感じた。
「……すごいな、君は」
 ぽつりと呟く。相方が、俺の言葉に不思議そうな顔をして瞬いた。
「俺は、……俺も、本当はずっと悔しくて、腑に落ちなくて気になって忘れられなかったのに、そのあいだずっと、君みたいに考えてみることは一度もできはしなかった。それどころか、こんなことをいつまでも気に病んで、根に持って、――自分はなんて器が小さいんだと、それこそさいつよのやつらが言っていた〝負けた言い訳〟をしているようなものじゃないかと、……そう、思えて仕方がなくて、……」
「……ああ、最近妙に必死な顔でトレーニングに耽っているなと思っていたが、それか」
 得心したように相方が頷くので、俺はぎょっとした。
「……ば、ばれていた、のか……?」
「そりゃあ……、うん。だって、いつもは本当に筋トレが大好きで、ただただ楽しくて仕方がないって顔で鍛えているやつが、このところずっと切羽詰まったように黙々とメニューをこなしているんだからな。まるで……必死に〝何も考えないようにしている〟ように見えた」
「……っ……。はは……、……はあ」
「もっと早くに、このことについては話し合いたいとも思っていたんだが」
「ああ」
「私も、自分の中で考えを纏めるのに時間が必要でな。何せ……今まで考えもしてこなかったようなことだったから」
「……そう、か」
 あの日までの足取りが、二人で大きく違っていたわけではないことを知って、俺は恥ずかしながら少し安堵してしまう。首を振る。これから遅れを取らないようにするために、顔を上げて真っ直ぐに相方の顔を見た。
「話してくれてありがとう。だが……どうして俺に話そうとしてくれたんだ? 知ってのとおり、俺は単純で……それに、筋トレに没頭していれば今まで本当にどんなつらいことだって忘れられた。だから今回だって、そのうち全部忘れていって、いつもの俺に戻ったかもしれないのに……どうして」
「ばかだな!」
 相方は俺を叱った。笑顔で叱った。
「お前だって、『筋肉こそ正義』を標榜した内の一人! 紛れもない、私の大事な相方だろ! ……だから、私が一人で考えたことが正しいのかは分からないけれど、お前に聞いてほしいと思った。それで、お前の思いも聞きたかったんだ。そうやって、考えよう二人で。これからも。私は、お前ともっと話がしたい」

 すっかり冷めてしまったチキンカツは、実のところ味がよく分からない。なのに、今まで食べたどんなものよりも素晴らしく美味いような気もして、不思議だ。
 俺たちは正義を成す筋肉になると誓った。たった今誓った。互いの意志にかけて。
 俺や、俺の信頼する相方が、公正でありたいと願うとき、そこでどれだけ俺たちの筋肉が役立つのかは分からない。役立てる必要もないのかもしれない、俺は、俺自身の誇るべき肉体に、そして俺の大好きな筋トレに、恥じない行いをするだけだ。少なくとも今はそう思う。

 筋肉〝こそ〟正義なのではない。正義を成さんとす意志をこそ、己が筋肉に宿せ。

 できると思う。今度こそ、心からの笑顔であるように。こいつとなら、そう進んでいける気がする。

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