「じゃあね、司くん」
「ああ、……」
繋いでいた手がふわ、と離れていく。
離れてしまう。ここまで歩いてくるのにずっと手を繋いでいて、笑顔でいて、自分も類も確かに満たされていた筈だったのに、肌に触れる体温がいざ失くなってしまうと、司は途端に心淋しくなってしまった。
「……また、学校でね?」
「……っあ、ああ」
駅に着いたのに歩き出さない司を、見かねたのか持て余したのか、類がそっと声を掛けて促してくる。顔を見ると、なんだかぎこちない笑みを浮かべていたから、困らせているのかもしれないし、呆れられたのかもしれなかった。
「……あ……類」
「ん?」
短く返ってくる声は、優しい。そういう人だ。そうだ、だからこんなに好きになったんだと、司は不意に泣き出したくなった。
「いや、違う、その、〝またあとで〟、だ」
「……え……?」
「夜、電話するからな。都合が悪ければメッセージだけでもいい。まだ、こうやって……お前と繋がっていたい」
離したばかりの手を、無意識にぎゅうっと握り締めていた。両手で包み込むように。べたな愛の告白シーンみたいな仕草だなということに、気付いて悲しくなる。類からの好意も、自分の中の愛も、信じられないわけではないのにどうしてこんなに、類に恋をしてから時々、悲しくなったり、淋しくなったり、打ちのめされたりするのかが分からなかった。
「……ん」
「……類、」
「待ってるね、電話」
その言葉に、弾かれたように顔を上げた。
ありがとう、と微笑む顔が、ほんとうに、本当に本当に何物にも代え難くかわいかった。司はこの瞬間、ワイヤーも射出装置もなくとも夕暮れの空高くどこまでも飛んでいってしまえそうな気がした。類がそんな司の顔を見詰めたまま、またへにゃへにゃっと相好を崩す。耳まで真っ赤に火照った笑顔は、甘くとろける蜂蜜のようで、ふわふわと舞う天使の羽根のようで、こうして司といることに安心しきっているのが、ありありと分かる表情だった。
「っる、類……っ。類……! こちらこそ、ありがとう! 電話する、必ず、待っててくれ、あいしてる、」
「う、うん……うん……」
両手で握り締めた手をぶんぶん振りながら司が言い募ると、類は照れたようにすーっと目を逸らしてしまう。それでもその顔が幸せそうに笑っていたから、司の心は、限界を超えてなおも果てしなく満たされていくようだった。
「――じゃあ……あとでな、類」
「うん……。またあとでね。司くん」
キスは人前ですることではないし、ハグは一度してしまえばそれこそ無限に離れられなくなってしまうから、司はそのどちらもしなかった。類も、したいのにしなかったのだったら、嬉しいのだけれど。司はそう願いながら、今度はきちんと自分から離れた。ガラス細工を扱うみたいにそうっと、包んだ類の手を下ろして、離して、一歩、二歩、……背を向ける。
「――……」
勢いに乗せて改札をくぐって、我慢できずに人波から外れた。ぎりぎりほかの人の邪魔にならないだろう位置で、歩調を落として、そっと振り返る。
「――……!」
司の視界に、ぱっと星が煌めいた。
(……るい……! るい!)
考えるより先に大きく手を振った。口の動きだけで名前を呼ぶ。類は目が合った瞬間、少し驚いたように目を丸くしたけれど、司が子どもみたいに手を振るのを見るうち、やっぱりその顔はふやふやと綻んでいって、終いには小さく手を振り返してくれた。かわいい笑顔で、こてんと首を傾げて。司は今すぐ駆け戻って今度こそその人を抱き締めてしまいたくなる。でもできないから、もっと手を振った。類の笑顔が苦笑に変わる。眉を下げた、照れたみたいな顔がやっぱりほんとうにかわいかった。
またね、と類の口が動くので、司は漸う頷いて、おもむろに前へと向き直った。
歩き出して、目的のホームへ上がるための曲がり角に差し掛かったとき、もう一度だけ、ほんとうにこれが最後のチャンスだから勿論ふいになんてできなくて、立ち止まった。
振り向く。……類はいてくれた。改札前の柱に凭れて、司の方へじっと見送る視線を向け続けてくれていた。
思わず司がぱっと笑顔になると、類はひらひらと手を振って見せた。さっき応えてくれたときのとはちょっと違う。たぶん、〝早く行け〟と言われている。高潔な猫が手の焼ける飼い主を諭しているみたいな仕草に、なんだか一瞬、くらっとなる。
司がさっきよりも小さく手を振ると、類は手の振り方を変えた。さっきと同じような、それは、甘い挨拶だ。二人の間に、距離はこんなにあるのに、まるで直に、類の手に胸の中の柔らかいところを優しく擽られているみたいな感覚がする。
好きだ。
好きだな、と思いながら、曲がり角を曲がった。
司にしては珍しく、きちんと前を見て歩かなかった。曲がり角の壁に遮られて、もうどうしようもなく類の姿が見えなくなってしまうまで、司は類のことを見詰めていた。そうして、暫く壁の向こう側を見詰めたまま歩いて、やがて漸く、のろのろと前を向いた。
……立ち止まる。
くるりと向きを変える。今なら間に合うだろうか。
少し早足で、来た道を戻る。人の流れに逆らっていることを気にする余裕もなかった。
あの曲がり角に出た。間に合え。殆ど願っていた。最初は、ふとした思いつきで、今だってこんな、切羽詰まるような事情も何もない筈なのに。司は焦っていた。焦がれていた。焦れていた。類に恋をしてから、わけもなくこんなことばかりなのだ。
「――……っ」
角を曲がって立ち止まる。
司は、細く息を吐き出した。一旦呑み込んでしまったそれを、深く、ゆっくりと。
――類の背中が見えていた。駅を去っていく類の背中。いつもよりも心做しかゆっくりした足取りで、けれど迷いもなく歩いていく、類の後ろ姿が。
(……間に、合った)
司は己の内の焦燥がさあっと澄んでいくのを感じた。もやもやと燻るように、胸の底にまつわりついていたものが、ほろほろ躊躇いもなくほどけて透明な泡に溶けていく。
類はもうこちらを振り返ることもなく、ただ司から遠ざかっていく。
それが、もしも永遠の別れだったならば、司とてこんなところでぼうっと突っ立っているわけはない。けれど、今はそうじゃないと分かっているから。だから司は、想い人が自分の帰り路を可能な限り見送ってくれて、見届けてくれたあとで、その場に淋しく取り残されることもなく、しかし他愛ない日常の用事を片付けたのとは少しだけ違う足取りでもって、真っ直ぐに彼の帰り路を歩いていってくれている姿に、こんなにも安心する。自分からただ遠ざかっていくだけの類の後ろ姿を、こんなにも満たされた気持ちで、愛おしいと思って、見送ることができるのだ。
(――……行こう)
類の背中がほんとうに見えなくなってしまって、漸く司は踵を返した。もうその足に躊躇いはない。目だってちゃんと前を向いた。ホームに差す日差しは、きらっと鮮やかに煌めいて、まるで愛しい人の瞳の輝きのようだった。
(早く帰って、いろいろとやることを片付けて、早く類に――電話を、類にしなくては。類に、……)