亀右

幻想

『右京さんっ』

 だから一度は錯覚かと思ったのだ。
 否、正確に言うならば、正真正銘の一番最初、自分は〝確かに聞こえた〟という認識を抱いた。
 けれども、驚いて辺りを見渡せど声の主の姿はない。だからこそ右京はその次に、〝聞いたというのは自分の勘違いであった〟と認識を改めたのだ。

「右京さんっ!」

 それだというのに、いやはや、はたまた。
 よもや今し方改めた方のその認識ですら、またしても間違っていたというのだろうか?
 己の勘違いに首を振り、気を取り直して歩みを進める右京の耳へと、再び聞き馴染みの深い声が届いた。

 ――今度をもってして確信する。
 これは、明らかに〝聞こえて〟いる。

 否、実を言えばこの時点で、右京の中のその認識は、確信と言い切るにはまだ揺らいでいた。
 それでも、先ほどまでとは一線を画した。所詮は感傷と追想と憧憬と懐古と……とにかく諸々のものを否応なく呼び起こしてくる、この場所から、どうしようもなく、連想されて已まなかった己の記憶の中の存在を、現実にあれと無意識に求めてしまった結果に過ぎない主観的な現象なのだと、そう後ろめたく恥じ入るに留まっていた先ほどまでとは。
 この〝二度目の声〟を聞いたとき。少なくとも右京の中には、客観的事実を確かめたいという確固たる意志が生まれた。意識がクリアになったのだ。

 つかつかと迎賓楼の床を歩む。

 旧びた記憶を、まるで箪笥の奥底から引っ張り出してくるような、そんな仕事ではなかった。敢えて引っ張り出そうとするまでもなかった。彼の体格が身を潜められそうな場所。且つここまで声が届くような。彼の声量で先ほどの聞こえ方ならば、ここからの距離は、おおよそ……。
 右京はそのように、たった今得られた情報をもって推論を働かせたつもりだった。けれども〝彼を探す〟という目標に向かおうとするうち、自ずと本当に〝彼を捜す〟やり方になった。
 そう、あまりにも自然に、右京は現在この場所で〝彼を捜して〟いたのだ。

「――……あ、あれ?」

 殆ど瞬く間に、右京の〝目標〟は達成された。
 彼の方はといえば、今も出し抜いたと信じ切っている相手の姿を不覚にも見失ってしまったことで、大変素直に慌てている。
 右京からすればいつまでも不思議に思えて仕方のないほど、心底楽しそうに隠れん坊をしている彼の背中。それをまさに目と鼻の先に見たとき、ああ確かにそれは〝彼のやりそうなこと〟だったと、懐かしむような気付きが、殊更に深く深く、腑に落ちた。

「――……って、うおっ!?」

 無防備に振り向いた彼が、仰け反りながら驚く。

 顔が見えた。
 彼の表情。
 漸く目の当たりにしたそれは、ただの、本当にただ〝亀山君〟の姿だった。

 右京の方からは確かにそのように思われたのだが、しかし亀山君の方からこちらがどう見えているのかは、右京には終ぞ分からない。なので、できる限りの仏頂面を作り上げて彼の視線を待った。
 先ほど――こうなればもはやうんと遠い昔のことである――己が一人密かに恥じ入らざるを得ずにいた、そういった事実を、まさか彼が知る由もなかろうけれども念には念を入れて隠し遂せたいがために、右京は自覚しうる限りの感情を、表情の上から排して、彼の視線を受け止めた。

「――……へへ、びっくりしたでしょ?」
「突如、君の声がすれば……当然驚きますよ」
「あはははっ、そうでしょう!」

 そう、彼に知る由はない筈だ。
 しかしながら由がなくとも勘が働くのがこの亀山薫君であり、右京はそれをよく承知していて、だからこそ念入りに表情を作り込んだというのに、おそらく自分を見る彼のこの嬉しげな笑顔、そして、すげなく発したつもりのこちらの台詞に少しも動じないまま打ち返してくるこの態度――これらを鑑みるに、亀山君は右京の〝真実〟をとうに勘付いている。
 どれだけ右京が無愛想に睨み付けているつもりになっても、一向崩れない、どころか、ますます浮かれるように笑みを深くしていくかつての相棒の顔を見て、右京はついに鼻白み、しかしその感覚こそがどうにも自分の身にしっくりと馴染むように思われた。
 ほかでもない、今、目の前にいる右京にのみ宛てて、ぺらぺらと飽かず喋り続ける亀山君は、きっと右京がどんな言い訳を申し立てようがその表層をけっして真に受けてくれはしないと、もはや経験則で知れていた。だから右京は、とうにその下が見透かされている仮面を、あたかも素顔であるかのようにせめて被り通したまま、相変わらず嬉しげに語り掛けてくる彼の声をそれなりに聞くともなく聞き流すことに徹するのだ、いつものように。

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