板芹

この夜を越えたら

「先輩ってぇ……なんっにもしてこないっすよねえ……」
 背後のソファへぼふっと背中を凭れながらの芹沢の言葉に、
「……は?」
 伊丹はいかな戯れ言でも一瞬間くらいはその意味を考えてやろうという気ではいるのに、にもかかわらず結局、早々に匙を投げてその一音のみを突き返すに至った。
 のろ、と上体を戻した芹沢が、テーブルの上のチューハイ缶をもそもそ引っ掴む。
「だって、こーんなに一緒にいるんですから……ね? 一夜の過ちくらい、一回くらいあってもいいのになーって。思いません?」
「……は?」
 一言目も整理されていないところへ、奇っ怪な言葉が続々と投げ込まれてくる。意味が分からない以外に言い様もなく、伊丹はやはり一音のみ絞り出した。
 潰れた、というほどでもないし寧ろその逆に見えたから、店で飲んだ後わざわざ自分の部屋まで引っ張ってきたのだ。いや、こいつの方がくっついてきたんだったかもしれない。どちらにせよ、自宅でもう一杯付き合わせても大丈夫、と伊丹が判断を下すくらいの、芹沢はそういう状態だった筈だった。
 横目でもう一度確かめる。隣で、自分と同じくソファを背凭れに床へ座り込んでいる後輩は、無論素面とは言えないものの泥酔している様子もない。寧ろ今日は、理性的な飲み方をキープできている方なんじゃないかとさえ思われた。
「……顔に出ねえ酔い方してんじゃねえよ」
 自分のグラスに視線を戻しながらそう吐きつける。芹沢のくせに、と畳み掛ければ、俺のくせってなんすかと頬を膨らませたような声音が返ってきて、伊丹はへっと口の片側で笑ってやった。
「……んー、でもほんと、酔ってるんでしょうね」
 案外あっけらかんと認める声がする。思わずちらりと向けた伊丹の視線を、気付いてすらいないように受け流しながら芹沢は日本酒の瓶を手に取った。
 動作で促されるままうっかりお酌を受けてしまい、伊丹は閉口する。せっかく今し方さりげなく空にしたばかりのグラスに、捉えどころのない透明な光の塊が満ちていた。
「今、俺たぶん、すんごい気が大きくなってるんですもん。なんというかこう……余計な勇気がむくむく湧いてきてる感じ?」
「余計、って自覚があるなら引っ込めとけ」
 伊丹は軽口を遣り返したものの、その言葉尻をみすみす見逃すほどには、この後輩に対して投げ遣りになっているわけではなかった。
 胸を大きく反らしてふふんと調子よく笑った芹沢は、そのまま緩やかにストレッチの体勢に移行して、うーん、と遠慮なく腕を伸ばし始める。伊丹はその間に、仕方なくちょっとグラスを呷った。
 勇気。芹沢はそう言った。
 勇気というと、ちょっとやそっとじゃできないと思うことを、それでもやってやるぞというような気持ちのことだ。ぶっちゃけやりたくはないけど、でもやらなきゃならないこと。それをやっつけた先へ何よりも辿り着きたいがために、じゃあやっつけてやるよと己の中で固める決意。
 そういうもののことだと伊丹は思う。
 とん、と置いたグラスが、いやに大きくテーブルを鳴らしてしまったような気がした。
「……なぁにが勇気だよ。わけ分かんねえこと勝手に一人でぺらぺら言ってんじゃねえ」
「……っ、だぁって! 先輩が、」
「俺だろうが!」
 伸びをやめてこちらに向き直った芹沢が、正面から食らう怒号にぴゅっと身を竦める。
 そのまま固まって、けれどもそのうち、こそこそと上目遣いにこちらの表情を窺おうとしてくる。そこまでの流れが通常どおり運ばれたことを密かに確かめてから、伊丹は素知らぬ振りでまた視線を外した。
「……俺に話してんだろうが、お前は。なら一人で完結してねえで、俺にお前の言ってることの意味をちゃんと共有しろ。分かるように話せ。……ったく、いい歳してそんなことも言われねえとできねえのかお前は」
 呆れた口調で言い放って、また酒を呷った。どんどん角度をつけて、一気にグラスが空になる。手酌で注ぎ足す。乱暴に呷る。目に付いたのでわざわざ手を伸ばしてチキンサラダのチキンの部分を掻っ攫ったら「……ぇぁあ!?」と間抜けな声が耳をつんざいた。
 適当に竜田揚げを捻じ込んでやるとその口は少しの間黙った。ほんの少しの間だけ。
「……。分かるように話せ、って……それ、先輩が言いますかね」
「うるせえな。俺と絡みたくねえってんならとっとと帰れ、おらっ……おらっ!!」
「うわぁああっ蹴らないでくださいよ、ちょ……っとぉ!!」
 蹴ってない。肩を絶妙な力加減で押し遣りながら足先でちょっとつっついただけだ。大げさに喚く芹沢にむしゃくしゃした伊丹は、帰れと追い立てるのをやめる代わりにその頭をべしんと一回だけはたくことでどうにか気を収めた。
「いったー……やっぱ先輩、俺のことめちゃくちゃ好きじゃん……なんなんすかもお……」
 頭を両手でさすりながらぶつぶつ言っている。それは聞こえていないこととして、伊丹は「そんな甘っちょろいもんばっか飲んでねえでこっち飲め、こら」と自分の飲み止しへ適当に注ぎ足したものを芹沢の前へどんと置いた。間接キス、と呟いた頭には今度は平手じゃなく拳骨を落とした。わざとらしく揶揄いにきているのが丸分かりの声だったので。
 芹沢はおとなしくグラスに口を付けた。そこには言葉で示されたほどの気負いも嫌悪も、まして、恥じらい、のようなものも見受けられない。それはまったく自然で、なんの毛羽立ちもない動作だった。
 少なくとも伊丹の目にはそう見えた。
「先輩……」
 用意はしてあった二つ目のグラスに自分用の酒を作る。一口目を傾け、飲み下したところで、隣から声が掛かる。「……ああ」寄越された分だけこちらからも静かな声を返して、そちらを見ないまま、伊丹は待っていた。
「――俺、先輩に抱かれたいんですよね」
「……分かるように言えって言っただろ」
 しかし思わず隣を見て、そして見えた顔があまりにもいつもの芹沢だったために伊丹は一瞬にして脱力した。語勢荒く突っ込む気力も、はたまた相変わらず少ない情報から彼の意図を少しは推してやろうかというなけなしの健気さも散り去った。いや、目の前の生き物にそれら全て一息に吸い取られてしまったと言うが正しい。
 芹沢が不満そうに眉を寄せて身体ごとこちらに向き直ったのが分かる。しかしそんな彼の数十倍は既に皺の寄りきっているであろう己が眉間を、揉みしだいて宥めることに伊丹はもはや忙しいのだ。
「だからこれ以上ないくらい単刀直入に言ったじゃないっすか! ほかになんて言えばいいんです? 主語と述語が足りませんでした? じゃあ〝芹沢慶二は、伊丹憲一先輩に自分を抱いてほしいと思っています〟! これでいいんでしょ! 流石にもう分かんないなんて白々しいこたぁ言わせませんからね!」
「はー!?」
 だがしかしこの後輩は、時に伊丹をも辟易させるほどエキセントリックな言動をやらかすのだった。稀に放出されるそのボルテージを久々に真っ向から浴びて、げんなりと肘を突き、その手を額に当て、どころかそのまま頭を抱え込み、伊丹はずるずるとテーブルの上に溶けかけていく。そんな姿を労ろうともせずに食い下がって、芹沢はさらに素っ頓狂な声を上げた。
「え!? 嘘っ、もしかして〝抱く〟の意味が分かりません……!? 大丈夫すか先輩、いやマジで恋愛経験とか性交経験の有無じゃなくリテラシーの問題として、知らずにここまで生きてこられるもんなんですか!? いや、生きてこられたんですよね……!? えーっ、うわ、いやあよくぞご無事で――っていったぁー!!」
「バカが! 分かんねえってそういう意味じゃねえよ!!」
 このバカはすごい。あれだけ戦意喪失していた筈のこの拳に瞬く間にこんな力を漲らせてくれるのだから。なかなか稀な才能だろうと伊丹は己の短気を棚に放り上げて舌打ちをした。
「くそっ……。だから……なんで、俺に……お前が……そんなことを……って話だろうが、先ず……!」
 順序がおかしいんだよ、と囁く程度に怒鳴りつければ、……すみません、と今までの暴れっぷりがまるで嘘だったかのように、芹沢もすとんと肩の力の抜けた案外殊勝な返事を寄越した。
「……えっ、と……、えーと……」
 目を伏せた芹沢は暫し、逡巡するように独りごちている。それを急かす気のない伊丹は、平生でも鋭利と見られがちな自分の視線を、殊勝な相手の俯いた旋毛に注ぎ続けているからにはせめて、なるべくまろやかに研いでおこうと密かに努めていた。
「……えー、その。……い、一体何を話せば……?」
 しかし、漸く聞こえてきた台詞に伊丹は瞠目した。
 てっきり話題が話題なだけに照れるなりして言い淀んでいるのかと思ったら、顔を上げた芹沢は己の言葉のとおりに、あまりにも屈託なくきょとんとした表情を浮かべているではないか。
 伊丹は気怠くこめかみをさすりながら、……動機、とだけぞんざいに返した。現実の取り調べというよりは、刑事ドラマの犯人の述懐みたいなイメージが頭に浮かんでいる。こちらがわざわざ箇条書きにした質問を幾つもぶつけなくとも、相手の方からなんとなくいい具合に、一から十まで過不足なく説明してほしいというわりと怠慢な期待を載せた言葉だった。
「動機……? 抱かれたいと思った動機ってことですか? そ、そんなの〝抱かれたいと思ったから〟としか言えなくないですか……??」
「い、言えなくないですかって、知らねえんだよこっちは」
 直截な表現に未だ慣れず、伊丹は慌てふためいた。それは、訊き返してきた芹沢の目に、挑発や揶揄いやはぐらかしといった邪気のある色がちっとも見当たらなかったからかもしれない。
 伊丹から見える芹沢はただ真っ直ぐに、困惑からであろう眉尻を下げて、不安を表すように唇を尖らせて、その円い双眸でひたすらにこちらを見上げていた。
 素直な性根をそのまま映し出した、くるくると豊かに動いて恥のない表情。
「……分かった。質問をもう少し具体的にしてやる」
 伊丹は三たび眉間を揉み解しながら、もう一方の手のひらを相手の方へ見せて立てた。
「あー助かります、ていうか最初っからそうしてくれたらよかったのに」
「あ゛?」
「いたっ」
 今日はまた久々に、こんなにぱかすか後輩の身体をしばき倒しているがいいのだろうか。ここ数年は、まあこいつも少しはしゃんとしてきたし、また彼の後輩の前で彼自身を叱責するわけにもいかないしというのでめっきりご無沙汰だった気がするけれども。
「……ともかく質問の一、先ず……お前の言うそれは、とにかく〝誰かに〟抱かれたいってことなのか? それとも敢えて〝俺に〟対して言う意味があるってことなのか?」
「……はひ!?」
 芹沢が目を剥いて、今夜何度目かの調律の狂った声を上げた。
 なんだなんだと伊丹が睨めつけた先で、芹沢は元から大きな目をさらに零れんばかりに見開いて、それと揃えるように口まであんぐりと開け放している。
「えっ……あ、……あー……!! なっ、なるほど、そっからっすね!? あー、あー、あー、はいはいはい完全に理解しましたよ今、もう完っ全に理解しました! いやあ了解!! そこからですね!! 了解!!」
 かと思えばその明けっ広げな口から、また枯れ知らずの大音量がわあわあと飛び出してくる。どうやら芹沢は、自分の意図が果たしてどのレベルから相手に伝わっていないのかという現状をようやっと理解できたようだった。
 それを見る伊丹の手は、殆ど無意識にまた芹沢の方へ伸びていた。しかし触れる寸前ではたと迷う。別にそう何度も殴るほどのことではない気がした。かと言って、言葉の足らなさに己で気付けて偉いと褒めてやるようなことでもない。
 だから伊丹は結局、強いて言うならぶつと言うには甘く、また撫でると言うには乱暴な加減でもって、芹沢の頭の横へ軽く手のひらを押し当ててやるだけの曖昧な動作をした。
 芹沢は一瞬む、と目を瞑って、伊丹の手のひらが離れきってしまう前にはぱちりと瞼を上げた。どちらが吸い込んでいるのか分からない。ただとにかく、どちらからともなくお互いの目線が吸い付くのにまかせて、伊丹は芹沢の目を見詰めていた。
 せんぱい、と声がする。目を逸らさないことで応答した気になっている。そして芹沢にはそれで伝わっていて、だからこそ伊丹はそれでよかったのだ。
「俺、おれ……先輩のことが、好きです」
「……」
「好きって、ね? 抱かれたいって、さっきから言ってますけど、そういう意味ですよ」
 勿論ほかにも、仕事の先輩として尊敬してるとか、人としても、長く一緒にいたから愛着があるとか、よくしてもらった分信頼してるとか、そういう〝好き〟もあるし、こういう部分が魅力的だから、かわいいから、こういうとこがかっこいいから、こういうとこが憎めないから、そういった理由の〝好き〟も、結構いっぱいあって……それで、ね、いっぱい、先輩に対しての僕の好きって、いっぱい、あるんですけど、その中にね、あるんです、たぶん、たぶんこれ〝恋〟だなあっていう好きの形が。それでね、僕の中では、その〝恋〟と〝セックスしたい〟って気持ちとが、密接に、どうも、連関していて、
「だから、先輩の質問に答えるとしたら、僕は誰かにじゃなく〝あなたに〟抱かれたいのだし、その〝動機〟はって訊かれたら、〝あなたを好きだから〟、なのです。あなたに恋をしているからなのです。大好きな伊丹せんぱいに、……触ってほしいし、触らせてほしい、し、あわよくばあなたが俺に応えてくれるとしたら、その動機が俺のと同じだったらいいな、って……夢を見ているから……なのです……」
 よく回る舌だと、あの頃からいつも思っていた。ぽろぽろと取り繕う前に零れ出す言葉たちは、それはもうびっくりするほど軽々しく、けれども同時に、伊丹にとっては眩しいほどに生き生きとしていた。
 それは今もそうだ。ぺらぺらと臆することなく舌を回しながら、かと思うと最後の方にはだんだんと俯いて、両手で顔を覆って、何やら羞恥心というものを今になって漸く思い出したみたいな仕草で声を萎ませた。そんな、格好がついているとは到底言い難い姿に対してさえ、芹沢らしいと思えば伊丹の中では好感しか生まれ得ない。
 だからというわけではないけれど、伊丹は話を聞きたかった。自分がこいつのことを好きとかどうとかは別にして、平生ぺらぺら要らぬことまでよく喋る芹沢が今、嘘を言っていないことは確実に分かるから、伊丹はこの話題をまともに取り合う意味があると思ったのだ。
「芹沢。……お前、カノジョさんは」
 端的に訊けば、芹沢はちょっと顔を上げて、こくんと頷いた。上目遣いにこちらを見上げながら、「はい。それも勿論、ちゃんと話すつもりで、先輩にはここまで聞いてもらいました」とはっきり答えた。
「――彼女のことも、変わらず好きです。付き合ってもうだいぶ長いですけど、俺は今でもずっと彼女に恋してるって思います。先輩に恋し始めたのは、もう少し後になってからでしたけど……」
 これはね、どっちがどうとかじゃなくて、俺は、彼女のことが好きで、伊丹先輩のことが好きなんです。二人に向ける感情は全然〝同じ〟ではないけど、でも俺にとってどちらも確実に〝恋〟で、そこに当然だけど優劣もないんです。彼女には打ち明けました。俺のこと。どちらも〝浮気〟じゃないから。先輩に恋をしたことが、彼女への恋の終わりじゃなかったから。筋、通したいって思うじゃないですか。おかしいって言われるかもしれないし、言い訳だろって疑われるかもしれないし、事実だとしても受け入れられないって振られるかもしれなくても……ほんとに大切な人なんだから、長く付き合っていたいから、その場しのぎの嘘なんか吐けなかったんですよ。それに、隠したところでどうせそのうち……長く付き合って、いつか添い遂げるまでの間に、絶対、俺は先輩ともどうにかなりたいって気持ちを行動に移さずにはいられなくなるだろうから。そうしたら遅かれ早かればれちゃうことだし。
「……先輩は、どうですか」
 と、不意に訊ねられて顔を上げた。芹沢もちょうど、伊丹の方へ視線を向けたところだった。
「おかしい、って思ってもいいですよ。俺には少なくともこの世に一人、こういう俺のことを受け入れて、傍にいてくれる人がいますから。たとえあなたに理解されなかったとしても、俺は一人ぼっちになるわけじゃない。
 ただね、……そうすると、惜しくありません?」
 惜しいって、何が……伊丹がなんとなく察知した嫌な予感を押し殺しながら訊き返すと、芹沢は案の定にんまりとした、いつもの調子のいい笑みを作って答えた。
「だって、せっかくのチャンス! これ逃したら先輩の人生にもう二度とないですよ、断言します、こんっっっっなにあなたのことを好きな相手と、円満に確実に長期的に両想いになれるチャンスなんて! ねえ!?」
 きらきら。あほみたいに調子に乗っている。軽々しいくらい舌がよく回る。そして眩しいほど。眩しいほどに。
「先輩だって、好きでしょ? 僕のこと」
「はあ……?」
「こんなにもあなたに惚れてる俺が、今なら、って思って告白に踏み切れたくらいに。先輩ももうそろそろ、その気になってきてくれてたでしょ?」
「……はー……」
 伊丹は思いっきり深々と溜息を吐いてやった。
 つもりだったのだが、自分でも思った以上に呆れ果てていたからなのか、案外その吐息は薄かった。薄く、浅く、その所為か、やけに震えているような気さえもした。
「うるせえな、……もうそれでいいよ」
 眩しいほどに、ばかだった。
 えっ、わあっ、やったあ! 先輩! これからよろしくお願いしますねと、勢いよく振った炭酸みたいに途端はしゃぎだす後輩に、手を握られるまま握らせておきながら伊丹は疲れたように天井を仰いだ。〝それでいい〟の〝それ〟は何を指したのか、また〝いい〟とはどの程度の〝いい〟なのかはっきり伝えてもいないのに、芹沢は勝手にそれらを恋の告白へのOKだと捉えたらしい。ばかだった。ばーか。……バカかよ、ほんとに。
「ひぇっ!? せ、っんぱ、い」
 彼女と上手く行っていると聞いて心底安心した。芹沢には、たくさんの人から愛されていてほしいと思った。それが似合っているやつだと思った。そんなふうに思った自分に、伊丹は最も驚いた。きゅっと、捕らわれたままの指先を少しだけ握り返してみる。気付かれないかもしれないと思ったが、芹沢は明らかにびっくりして、身体ごとぴゃっと跳ね上がった。
「……それでいいけど、但し、抱く抱かねえの話は保留だ」
「あ……」
「そういうことを実際するにしろ止すにしろ……まあ、ちゃんといろいろと準備してからな」
 保留、という言葉に一瞬曇った笑顔は、しかし伊丹が顔を背けながら付け足したぶっきらぼうな声で、いとも簡単に輝きを取り戻した。
「あ……! はっ、はい……! そうっすよね! うん……うん……俺だって、実はまだ全然、心の準備とか……。でもっ、焦ることなんかないんですよね。だって、俺らにはこれからたっぷり二人の時間があるんですもん。……ですよね?」
 一人でこくこくと訳知り顔を頷かせていた芹沢が、けれども最後、しゅんっとおとなしくなったかと思うと、窺うような上目遣いでこちらを見上げてくる。伊丹は苦笑して、不格好に繋がったままだった手をぐいっと無雑作に引っ張ることで、芹沢を自分の傍に呼んだ。
「そりゃ、お前の気が変わらなけりゃな」
「なっ……! う、浮気じゃないんだって、ちゃんと説明したでしょ!? そんな簡単に心変わりしないし、したくてもできないんですってば! ……ていうか、あの……先輩は、先輩の気は、……変わったりしないんすね」
「ふん。俺はこうと決めたら一途なんだよ」
 そっけなく放った一言に、芹沢の目がぱっときらめいた。
 舌と同じくらいに雄弁な瞳の奥に、押し隠そうとしているのかいないのかちっとも殺せていなかった気配が、ぱっと火種を得て、瞬間に光を放った。まるでマッチを擦った伊丹の手から、火をもらって流れ星になったみたいな。
 芹沢の奥にあった、期待とか、不安みたいなものの気配たちが、伊丹の言葉であたかも着火して、こんなにも生き生きとしたうるさいくらいの星になった。鼻の先およそ数センチの距離で、伊丹はまざまざとその様を見た。
 ――奪われた。伊丹は思った。今までとは違う。奪われそうに自覚する度、何気ない振りをして取り返してきた。けれども今は違う。奪われるまま、もう、奪わせておいて、いいのだと、なぜだか伊丹は自分自身を長い長いなんらかの呪縛から漸く許してやれたような、そんな不思議な気持ちがした。
「……えへへ。そっすよね。はい、知ってます。知ってました!」
 せんぱい、と芹沢がなんだか擽ったそうに笑う。もっとそっち、行ってもいいんですか、と小さく訊くので、伊丹もなんとなく、おう来い、飲み直すぞというたったそれだけの台詞なのに、いやに声を潜めてしまった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……っと! ふふっ、幸せだなー!」
「おおい甘ったれすぎだろがこのスイーツ、こんのバカ、おい」
 単に距離を詰めるどころか身体に凭れ掛かってきた芹沢の頭を、容赦なく苛め倒して伊丹は毒吐く。ここまでしていいとは言った覚えがないのだから正当な応酬だと思ってのことだったが、直後、芹沢から返された言葉には意表を突かれて目の色を変えた。
「先輩、頭撫でるの下手くそっすね!」
「……はあ゛!?」
 撫でてない。
 今日はあまりにもぱかすか殴ってしまったから、流石にちょっとあれだったかと思って。適当に加減をしてやっただけで。全然撫でてない。こんなの。撫でてやるの内に入らない。
 だってこんなにがしがし地肌をこすり回して。髪型もこんなぐちゃぐちゃにして。何より、そんなふうにして触れられている本人が「下手くそ」という感想を持っているのだ。これが〝撫でる〟なわけがない。もしもこれが〝撫でる〟なんだとしたら、自分は相当〝撫でる〟が下手くそなだけの人間だ。
 だというのに。芹沢は「下手くそ」と感想を言ったきり、伊丹の手の下にいる。
 自分のことを苛めてくる手から逃れようともせずに、言葉に見合うほど嫌そうに顔を顰めることもなく、呆れも、嘲りもせずに、強いて言うなら笑っている。なんだかふわふわと、かと思えばとろとろと、そう、つまるところ、甘ったるく、喩えるとするならばこの世のあらゆる幸せなお菓子みたいに笑っているのだ。
 伊丹は唇を内側から噛んで耐えた。
 ――たとえば。
 たとえば今から、今すぐに、この瞬間、芹沢の頬を捕まえてその口にキスをしたとしたら。こいつは今自分が見ているのと同じ顔で笑ってくれはするのだろうか。
 馬鹿な衝動を噛んで殺す。すっ飛ばしてはいけない。そう、時間はある。準備をする必要がある。心も、身体もそうだけれども、それらとはまた別に、踏んでいくべき順序というものがあるのだと伊丹は理解していた。
「ふふん……安心しました」
「……は、……何が……」
 不可解に笑う芹沢の言葉を、伊丹は途方に暮れるような気持ちで聞いている。
「だって、先輩が人の頭撫でるの上手かったらそっちの方がびっくりですもん。……いたた、やっぱすっげー下手くそっすよ! でも、……うん、だから、安心しました。先輩、別に撫でること自体に手慣れてるわけじゃないんでしょ。じゃあなんで、俺のことは撫でてくれるんですか。撫でるよりよっぽど慣れてる筈の、殴るとかってやり方じゃなくて……わざわざこんな、触れ方、しようとしてくれたのって、なんでですか。……なんて」
 へへ、と芹沢は不意にはにかんだように笑った。
「その〝動機〟が俺のと同じだったらいいなって、……ね! そういうことっすよ」
 ……はにかんだ、……いや、ばつの悪そうなとでも言った方が正しいような気がする。急にそんな顔をして、空元気みたいな実のない声を出した芹沢に、伊丹は堪らなくなった。思わず己の額に手をやって「だから、それでいい、っつったろ」と跳ねつけるように返した。
 絞り出した声はやや掠れて、自分のぐらつく頭を支えるために取り戻した手のひらは無論、芹沢の頭を撫でることを放棄するしかなくなった。冷静になろうとしたのに、直前まで芹沢の髪に触れていた手から整髪料だかシャンプーだかの匂いが近く香って、却ってぞっと肝が冷える。
「芹沢」
 手の中で手が跳ねた。そう、離すタイミングを見失って繋がったままになっていた手が。
 ふらっと、なぜか今になってすり抜けていきそうになったそれを伊丹は力強く捕まえた。当惑したように、眼下の頭が身動ぐ。「え、……あの」と実際胸中を如実に表した声がする。そんな死にそうな声を出すな、芹沢の軽々しいくらいの光が曇っていくのを見ていられなくなる。伊丹はもうどうしようもなくなりそうだった。
「俺に二言はねえ」
 見詰めているのは、小さくなって俯く芹沢の旋毛だけだった。
 それでも穴が空くほどそこを見詰め続ける。そうすれば、足りない言葉に焦れたそいつは程なくして頭を上げて、思ったとおり、寸分違わぬこの位置でばっちりと目が合った。
 伊丹は、続けるつもりで待っていた言葉を、そうしてやっと継ぐ。言わずとも伝わっているならそれでいいと思った。けれども伝わっていなかったのなら、それらは当然まるで意味のないことだったのだ。だから。
「――〝保留〟っつったら、それは〝保留〟だ。〝却下〟じゃねえ」
 端的でそっけない声。自分でもそう思う。だからそれがどう捉えられているかは、相手の表情をもって推し測るしかない。そういう意味で、芹沢みたいな相手は伊丹にとってこの上ない指標だった。
 じわ、と大きな目が見開かれる。思わずといったその反応に次いで、遅れて理性がついてきたかのように、精悍な眉がやや顰められる。そして躊躇いがちに唇が震えて少し開いて、閉じようとしてはまた震えた。らしくなく強張った目許に視線が吸い付いて、伊丹はもう一押しの勇気を闇雲に奮い立たせた。
「必ず、返事はするから。……だから、泣かずに待ってろ」
 瞬間、目の前の表情がびっくりしたように唇をぎゅっと引き結んだ。零れんばかりの両目で伊丹の顔をじっと見上げて、かと思うといきなり弾かれたようにぱしぱしと瞬きを繰り返したのち、忙しなくあからさまに顔を背けた。
「な、? ……泣いて?? ませんけど?」
「いや泣けよ。……いや、泣くな。泣かなくていいから」
「どっちっすか。ほんと伊丹先輩てめんどくさい人だな……いて」
「うるせえよ。〝泣くな〟。〝泣くな〟に統一するから。だから、……、……だから……、……な、泣くな、ってことだよ」
 痛いと言われたから、頭に置いた手をもう少し、気持ち、やわらかめに動かしてみる。……そうしているつもりだ。ぎこちなくなる伊丹の言動を見上げて、また、大きな目がきょときょとと瞬く。その視線が少し、うるさくて、滑らせた手で目許の肌にそっと触れた。
 ……何か小さな光の粒が、くすくすと澄んだ音を立てながら、幾つも幾つも睫毛の縁から零れ落ちているような気がする。不思議な錯覚に囚われて、伊丹はまるで芹沢の流れてもいない涙を拭おうとするかのように、滑らかな頬骨の辺りを何度も何度も親指で擦った。
 そのうち芹沢の笑い声が大きくなって、彼の手が伊丹の腕へと、柔らかく触れる。
「はは、先輩っ、どう足掻いてもへたくそっ……」
 窘められているのかと思ったが、どうやらそうでもない。伊丹を詰るふうな台詞を吐きながら、同じ口で芹沢は「もっとして」とはっきり言葉にしたのだ。
「この際、俺で慣れてくださいよ。人を撫でるの。練習なら幾らでも付き合いますから。……だから……ね、俺に、してくださいね」
 せんぱい。
 甘ったれた声だと思った。甘ったれた……いや、甘えているのか。甘えられているのだ、自分は。こいつに。後輩として、……では、なくて。
「……考えとく」
 伊丹は甘苦く笑って、芹沢の髪を擽った。
 こめかみの辺りから梳き上げるように指を差し入れて、混ぜっ返すようにぐしゃぐしゃと掻き乱す。そんな益体ない繰り返しに、芹沢の目が屈託なく細められる。そして、酒でも容易に変わらなかったその顔色が、今、なぜか大袈裟なくらいの鮮やかな桃色に染まって、秘めやかに俯いていた。
「はい。待ってます。……でもあんまり待ちくたびれたら俺、今度こそ泣いちゃいますからね」
「泣かせねえよ」
 それだけ返すのがやっとだった。
 髪に絡んだ指をほどいて、その手で酒のグラスを、存在を忘れられかけていたそれを漸く引き寄せる。どことなく後ろ髪を引くような視線を、気の所為か意識の片隅に感じているような心地のまま、ぬるい酒を呷る。
 ……ここまでだ。
 伊丹は腹に決めていた。芹沢の告白を真に受けると同時に決めていたことだった。
 どこか寄る辺なさげな手を、同じくらいの心許なさを隠した手でぎゅっと握り締める。言葉にしてはいないけれども、言葉にするつもりはあると言った、そのことをどうか信じてほしかった。だって本当に、これはでたらめなんかじゃない。でたらめでないどころか、今の伊丹を支えている決意はそれしかないくらいだった。
 ――この夜を、何も犯さずに越えたい。大切に芹沢の言葉を受け止めたまま。酒の勢いを借りたように言っていた、その実どこまでも真摯でやわらかな彼の心を。
 大切にしたい。大切に受け止めたということを伝えたい。同じくらいに真摯に返したい。自分がそうしたいと思っているということを、何より、芹沢から信じられたい。
 だからこそ今夜はここまでだ。これ以上はしたくない。酒の勢いにしたくない。不本意に流されたみたいにしたくない。そんなふうに疑われたくない、このひとに、万が一にも、その言動が伊丹の本心ではなく戯れか空言だったんじゃないかなんて、少しでも疑わせてしまいうる余地を残したくない。
 決定的な言葉は言わない。ましてや抱かないし、キスもしない。次の夜。次の夜一番で伝えよう。勇気は自分から出してみせる、贈ってもらえた心にきっと見合うだけの誠実さで応えてみせるから。
 だから。だから、まだ今は――俺がお前の手を意地でも繋ぎ止めたままでいる、この不審な態度の意味だけを、どうか、ばかみたいに衒いなく受け取っていてくれ。

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