「司くんはかっこいいから、何を着ても素敵だよ」
類が柔らかい笑顔でついにそんなことを言うので、司は驚いた。
思わず背後を振り向き、
「寧々、……この状態の類を元に戻すにはどうすればいいんだ……」
困惑を露わに座員へ縋る。縋られた方は、
「それはわたしの知らない情報でしょ」
とにべない。
「寧ろ、いつもどうしてるわけ」
「いや……いつもは〝元に戻す〟必要がないから……どうもしていなくて……」
「……時と場所を選ばなかったのは今回が初めてってことか」
寧々は肩をすぼめるようにして溜息を吐く。司だって同じように小さくなりたい心地だった。
四人がいるのは、次回公演の衣装を考えるために巡っている服飾屋の店内。言ってみれば、今この時間は、ショーのための時間なのだった。四人でただふらふらと出掛けてみたり、まして司と類が二人きり、親友や恋人としてのデートをしている場面ではない。
「……」
「……」
寧々はちらっと類の顔を見上げはしたものの、結局何も言わずにまた司の後ろへと引っ込んでしまった。
「……あぁ……。あー……類?」
仕方なしに司が自ら声を掛ければ、
「司くん?」
応える類の、表情も声も、なぜかフルーツジュレのようにきらきらふわふわと蕩けていた。置き所がない。司はそう思った。自分の感情の置き所、視線の遣り場、そして、この状態の類をこの場面やこの場所に置いておいていいものなのかという、そういう居た堪れなさ。
司が曖昧に微笑み返すと、後ろから遣る瀬なさそうな溜息が小さく聞こえた。
「――ねえねえ、類くん! この服は!?」
入店と同時に姿を眩ましていたえむがやにわに通路の奥から飛び出してきたかと思うと、そのままの勢いで真っ直ぐ司の胸へと突進してきた。なんとか絶叫を殺して周囲への被害を最小限に受け止めた司は、反動で目を白黒させる。培われた反射神経で脇へ避けた寧々も、司と同じような顔をしていた。
「さっき買ったあのリボンと合わせたらくるくるふわしゅぴんっしゃらら〜〜ん……!! ふわさぁ……っ☆ ってなると思うんだけど……!!」
えむはまごうことなく類へと語り掛けながら、抱えてきた服は司の身体に当てがっている。
類は優しい手つきでその行動をアシストしながら「そうだね」と微笑んだ。
「とても素敵になる予感がするな」
「でしょでしょ〜!? それからこんなのも見つけたんだよ! これはね……ほら、こっちのボトムスと合わせて、さっきのしゅわしゅわスパンコールでアレンジして……!!」
「なるほど……うん、うん。すごくいいな。流石、既存のものに新しい魅力を見出すセンスがあるね、えむくんは」
「えへへへ……!!」
えむは一体どこから何着服を引っ張ってきたのか、それらを取っ替え引っ替え語り倒し、類はその補助を率先して引き受けながら、にこにこと甘い目で頷いている。
司と寧々は、張り詰めていた息をそれぞれ、細く重たく吐き出した。
……見てみろ。演出家がそんなだから、えむも今日はもうそういう方向性でいいのだと思って、こんなふうになってしまっているんだ。
普段の類は、何をしていてもショーのことが頭にある。ショーが全てに優先し、ショーが物事の前提になっている。だから、ショーが頭から抜け落ちた今の状態が、類の〝バグ〟なのだ。ショーの準備を忘れて、ただ〝司〟を見て慕わしそうにしているだけになってしまったこの状態こそが。普段どおりではない、類の異常事態で。だからこそ〝今〟は、彼のことを〝元に戻〟さなくてはならないと、司も寧々も、当たり前のように責任感を持って考えていて、だから、
「……いや、お前ら。これらの衣装は……今回のショーの趣旨からは少し、いやかなり、外れているんじゃないのか?」
司の遠慮がちではあるが疲れを隠すことはしない囁きに、えむと類は漸くぴたりと、話と動きを止めた。
「つ、司の言うとおりだよ。二人とも今日、……なんていうか、ショーのことに集中してないっていうか……そもそも、類が変だから、えむまでノっちゃってるんじゃん」
「すまんがオレもそう思う。いつもならば一番、ショーのことしか考えていないお前が……今日は、いやさっきから、なんというか……い、一体なんのスイッチが入ってしまったというんだ……?」
しどろもどろに訴える両者を見、それからえむは類の顔をぽかんと見上げ、類は司の瞳を見下ろしてくる。
その静かさに司の心臓は一瞬ぐっと詰まったようになった。するとすかさず、背中に小さな体温が添わされる。その手のひらから、くじけるな座長、という寧々の必死の圧が伝わってきて、司は深呼吸という名の気合いを肺に取り込んだ。
「――っ……何か! 不満があったのか? それとも不安にさせてしまっていたか? 二人で過ごす時間が足りなかっただろうか? いや、オレの愛情表現が至らなかったのか、言葉で伝えていなさすぎたのか、或いは口先だけのような態度になってしまっていたのか、……すまない、本当に悪いとは思っているんだ、だが……うぅ……」
……自分では、どれだけ考えても分からなくて。
「だから、類。教えてくれないか。オレの何かが、お前を傷つけたり、心配させたりしてしまっているのだろう? オレは、お前の話をちゃんと聞いて、……理解して、お前がこんなふうになってしまわなくて済むように、きちんと原因を解決したいと思っている。本気でそう思っているんだ。――類のことを、心から愛しているからな」
告げ終わった瞬間、自分と類の顔をひっきりなしに見比べていたえむが息を潜めて拍手をし始めたのも、背中を支えてくれていた寧々の手がきゅっと自分の服を握り込んだのも、司の意識には上っていた。けれど、司は類の瞳だけをひたすらに見つめ返していた。……長い時間に思われた。えむの秘めやかな拍手が止んで、それと殆ど同時に類の唇がほどけた。眉尻がふにょふにょと下がり、小首を傾げる、そのはずみで見えた目許には、もう少しで流れ落ちそうな汗の滴が浮かんでいた。
なんだかぎょっとして、司と寧々は、緊張が支配していた自分たちの中に焦りの感情が戻ってくるのを感じる。何に焦っているのかは分からない。しかしそれでも、これは焦燥の所為に違いなかった。どきどきと脈拍が高鳴って、いきなり汗ばむほどに顔が火照って、目の前が眩しいような気がして、目を逸らしたくなって、逸らせなくて。
こんな、状態は――
「ありがとう、司くん。でも……〝こんなふう〟に、なってはだめなのかな? 何か、理由がないと……君の至らなさに抗議を示すような意図でもないと……僕は、ふとした瞬間に君への恋心を噛み締めて、ああ幸せだなあっていう思いに浸ることも、してはいけないのかい」
こがね色の。
柔らかく煮蕩ける視線。メープルシロップみたいな声。
困ったように作られた表情の下から、どうしようもなく甘く漏れ出している、照れた笑い方。
えむが類を抱き締めて。
寧々は呼吸を失って、
……司はだめになってしまった。
夢の中のわたあめみたいな顔をしている普段は相当クレイジーな演出家と、今はただただ静かなゆでだこになってしまった元座長とを引きずって、寧々はご迷惑をお掛けしていること甚だしい服屋さんからの退出を試みている。自身の頬も司を鼻で笑えないほど赤くなっていることを察しているので、毒舌は引き結んだ唇の奥にしまい込んだまま。
類の砂を吐くような台詞を聞き届けた直後、いの一番に瞳を潤ませ類の首許へ抱きついたえむは、茫然と突っ立ったままの座長がゆでだこになりゆく間、飛び降りるように類から離れたかと思うと入店時と同じようにどこへともなく消えていってしまった。
「――お待たせー! みんな!」
「……待ってたわけじゃ、ないんだけど……」
一刻も早く退店しようとしたけれど、長身二人が寧々の力ではあまりにも動かし難かっただけだ。引きずるのは無理があるので押し出せばよかったんだと気付いたのは、漸く戻ってきたえむがあまりにも自然に二人の背中を押して歩き始めてからだった。
「……ていうかえむ、なんか荷物多くない? 買い物してきたの?」
「うん、さっき司くんに合わせてた服、全部買ってきたよ!」
「……は?」
あのちょっとした山のようだった衣装は、寧々が我に返ったときには全部その場からなくなっていたから、えむが回収して店員さんにでも返しに行ってるんだとばかり思っていた。
「はい! これ、あたしから類くん司くんへのプレゼント! 司くんはこれ着て、類くんといっぱいいーっぱい、にっこにこなデートしてね!」
店を出たところで、えむは抱えてきた袋を丸ごと一つ、いや二つ、……三つ? 司の胸許へと押し付けた。心の温かさもさることながら、やはり懐も寧々とは段違いに温かいのだろう。
「……類と司へのプレゼントって聞こえた気がするけど。さっきえむが持ってきてたのって、司に合わせた服ばっかりだったよね?」
気を取り直して訊ねると、えむは嬉しそうに頷いた。
「司くんの、いろんな服が似合って、いろんなふうに素敵になってるところ! それを見てる類くんがね、すっごく……すっっっごく……えへへ、幸せそうだったんだあ」
話すえむは自分こそが擽ったそうに笑って、「ほわほわきゅんきゅんするの」と堪らなくなったようにくるりと一つターンする。
「だから、類くんがきゅんってした服を司くんにプレゼントするのが、類くんへのプレゼント! だよ! ……どうかな?」
少し眉を下げて、えむは気遣わしげに類の顔を覗き込む。声を潜めたえむに合わせるように、無意識か、類もそっと身を屈めた。
「……ありがとう、えむくん。とびっきりのプレゼントだ」
「……! えへへ、本当?」
「ああ。本当に嬉しいよ。……えむくんが、僕のことを想っていてくれて」
妙な言葉選びにぴくっと反応してしまった寧々と司を余所に、類もえむも、屈託ない微笑みを交わしている。一瞬でも神経をささくれ立たせてしまった自分たちのことがひどく恥ずかしくなった。
「うん……! あのね……あのね、類くんが幸せ〜って顔してると、あたしもすっごく……すっごーーく、幸せなの! だからね、あたしの方こそ、いつもありがとう。類くん。これからもずーっと、いっぱい幸せわんだほいでいてね!」
光が弾けるような笑顔で、惜しみなく愛情を贈るえむのことも、それを一身に受け止めて、確かに頷く類のことも、見ていると嬉しくて、けれど見ていられないくらいに照れくさくて、寧々は横目でちらちらとその光景を見届けていた。
「……ぁー……その、」
きらきらした空気の脇から、ふと、場違いに小さく掠れた声が割り込んだ。今まで驚くほど静かにしていた司が、居心地悪そうな小声のまま、両手に抱えたプレゼントの向こうから上目遣いに自分より小柄な相手を見ていた。
「……オレからも。ありがとうな、えむ。オレは類のことをちゃんと幸せわんだほいにしてみせるぞ……」
「うん!」
「オレからもっていうか、それ全部アンタが着るものなんだから、寧ろ司こそしっかりお礼するべきなんじゃない?」
ここぞとばかりに口を挟めば、ぐうという呻きが返った。
「それは確かに……というか、流石にこれだけの物をタダでは受け取れんから、お返しはさせてくれ。その……生々しい話になってしまうが、金額に見合うものを一息に、とは申し訳ないがいかなくてな。少しずつ返していくことになってしまうが……」
声音に、いつもの頼れる司が戻ってきている。寧々は少し気を緩めて息を吐いた。
「うーん、お兄ちゃんたちからも〝ここぞ! というときにお金は出し惜しむな!〟って教わってるし、全然気にしなくていいんだけどなー……。でもでも、司くんがそう言ってくれるなら、あたし、お返しにお願いしたいことがあるかも!」
ぱっと顔を輝かせたえむに、今更怯んだのか、司が少し仰け反る。けれどそれを見咎めた寧々の視線に気付いてか、即座に構え直した。
「ほう、なんだ? オレにできることなら全力で叶えさせてもらうぞ」
「ありがとー! あのねっあのねあのねのね」
「テンションが上がりすぎていて不穏だな」
「じゃじゃんっ! なんと……っ! 司くんと類くんに寧々ちゃんとあたしの服をコーディネートしてほしいのでーすっ!」
「っへ、」
気の抜けた声を出したのは寧々だ。突然、えむに両肩を抱かれて混乱した。
司も虚を突かれたように目をぱちぱちさせている。類は……温かいまなざしでこちらを見つめていて、それで漸く寧々はかっと頬を赤くした。「司くんたちが二人でデートするなら、その間あたしたちだって二人でしたいもんね! ねっ、寧々ちゃん!」――えむがきらきらした声で言うのが、どういう意味なのか、そういう意味があるのか、全然そうじゃないのか、分からなくて、寧々はとにかくえむの腕から脱しようとわたわた身体を動かした。
「い、いやっ……この二人に私服を任せるのだけは……わたしは、嫌……!」
照れ隠しというにはあまりにも別の本心が籠もりすぎた言葉に、類は肩を竦め、司はむっと眉根を寄せている。
肝心のえむは「ほえー……」と納得したんだかなんだか分からない声を漏らして、おもむろに寧々を解放した。……と思ったら手を繋いできた。なんで?
「じゃあじゃあ、ほかにも考えてるんだよ。服は自分で選んでいいから、みんなでお買い物したーい! とか、いつものファミレスで、司くんにパフェご馳走してほしいなー! とか、類くんのお部屋で、新しいロボットを作るところずっと見せてほしいなー、とか……」
えむは話しながら興が乗ってきたのか、寧々と繋いだ手をふんふんと振っている。振って、振って……顔を上げて、類を見て、寧々を見て、司を見た。
「ほんとはね、……なんでもいいんだ! あたし、みんなと一緒にいられたらそれが嬉しいから、……だから、司くんが少しずつ何かお返ししてくれるって言うなら、毎日、ちょっとずつでも、みんなとお話できる時間があって、それがずーっと長く……できるだけ長く、続いてくれたらいいなって。えへへっ、そう思っただけ」
えむが照れたように小さく笑った。言葉が終わる。手も、止まっている。
だから寧々は振った。えむと繋いだ手をふんふんと振った。えむがびっくりしたみたいにこっちを見た。「わたしも、」寧々はえむの目を見て言った。
「わたしもそう思うよ」
「っ……そうだな。オレも、えむと寧々と同じ気持ちだ。お返しとするにしては、オレの方に得がありすぎるくらいだな」
「僕だって、えむくんと寧々と司くんと、同じ気持ちだよ。となると、時間はたっぷりあるということだから……お返しについても、じっくり考えて、ゆっくりと返していけたらいいね」
寧々の手と繋がったえむの手に、きゅっと力が籠もる。
「……大丈夫。わたしたちみんな、一緒にいたいって思ってるんだから。だから……離れないよ。これからも」
えむが飛びつくように抱き締めてくる。いつもよりも勢いが強くて、ただでさえ司のようにいかない寧々は、後ろへたたらを踏んでしまう。
ぶれた視界の端に、慌てた様子で駆け寄ってこようとする司と類、そして、寧々が無事に踏み止まれたので安心したように途中で動きを止めた司と類、が見えた。
……こいとは、こころの、ばぐなのさ。
えむの呼吸を肌で感じて、温かい匂いが頬まで届く。
うれしくて、今、寧々に注がれている、そのどれもが、嬉しくて、嬉しくて、目の前がきらきらして、ぼやけていって、頭の中がぐるぐる回って熱を沸かす。
ずっとバグでいい。
まして、こんなバグが四つも揃っているなら。それが〝いつもどおり〟になる。それが〝大丈夫〟のしるしになれる。
こんなに幸せでいられるから。もう、ずっと、毎日ずっと、ちょっとずつ末長くバグっていよう。