ガク刀

どうかした

「――んん〜……、……くぅ」
 にゃむにゃむ寝言みたいな声を発しながら、ガクくんが僕の肩口に堂々突っ伏してきた。
 配信中だから意味が分からなくて、普段だったら別にそんな騒ぐことではないんだけど、これは配信中だから、僕は異様におかしみを感じてめちゃくちゃ笑ってしまった。
「おい何だ、急に媚びんなって、伏見ガク」
 笑いながら言ったものの、何言ってるかは正直自分でよく分からない。お腹の底から笑っているからその所為で頭が働いてないんだと思ったけど、たぶん、ガクくんがこんなになっちゃったくらいの時間を一緒にいた僕の方も、自覚しているより眠くてふわふわしてんだろう。
「伏見ー、ぎゅうすんな、媚びたいなら伝わるようにやんないと」
 2Dじゃ何も見えてないよこれ、という自分の声を認識してから、ああ今の自分はかろうじて配信者としての意識を保っているらしいと知る。いやもう、よく分かんないけれど。もう正直よく分かんなくなりかけている、隣の相方がこんなんだし。それが異常におもしろいし、それをすごく心から笑えて止まらないくらい既に僕はふわふわとしている。
「こび、たら……解散て言ったすよね」
「おぉ、会話が成立するのか伏見ガク! そうね、言ったよねぇ、今日がその時なのかもな」
 意味の汲める言葉をいきなり発した相方のことがまたおもしろくて、また笑う。ただ、これはたぶん僕が楽しいだけだ、だってガクくんは僕の肩に顔を押し付けたまんま喋ってるもんだから、きっとそのにゃむにゃむ声はマイクには綺麗に乗ってないよ。
「――それはぁ、……媚びっていうのは、視聴者に向けたものではないんすか……?」
「うん……? ぅん、いや、ん? うん、それはそう……え?」
 何、おもしろ。戸惑いの間投詞を並べ立てながら、僕は胸中感心しきりだ。何この人ほんとうにおもしろい、その緩急、こわ、一緒になりてぇ。相方とかもう、越えて、一つになりたい。溶け合ってしまいたい。何なんだこいつは。
「視聴者に向けて、無い虚像を創り上げて見せたら、それは刀也さんの中でアウトな〝媚び〟ってことになるんすよね? だったらオレの――オレがとやさんに対して、刀也さんっていうオレの好きな人に対して、オレが、自分のこと意識してほしいなとかそういうふうに見てほしいなとか思ってアピールする、そういう意味での……オレの〝剣持刀也に対する〟媚びは、アウトな媚びとは一線を画すんじゃないれしょうか。つまりは今のこの状況のことなんすけれど。これは解散の引鉄たる媚びとは数えらんないんじゃないれしょぉか。どうなんすか。実況解説の剣持刀也さん。レフェリーの剣持刀也さん。どうなんれすか!」
 ……。
「んなははははは……!!!!」
「……にゃに笑ってんらよぉ……」
「んふふ、だって……らってぇ……」
「らってぇ、じゃないんだよ、剣持刀也ともあろう者が、随分と滑舌おねむさんだねぇ?」
「いやお前の滑舌の方が熟睡してんだろうがよさっきからよ」
 立板はおろか滝を落ちる濁流のようなコメント欄が、目には入ったけれど僕の脳にはもはやそれらを文字情報として処理することが叶わなかった。これは僕は悪くない、だってコミュニケーションというものは双方向であって、情報を与えたのだからそれを受け取って理解しなかった側が一方的に悪いとかじゃない、そもそも相手が取り落とすことなく受け取れるようにそちら側が情報を制御して投げ掛けてこなきゃいけないわけ、要はこれはキャッチボールなんだから、コミュニケーションというのは、だからそう、はい。僕が読めない量でコメント打つお前らがわるい。僕は早々にモニターから目を逸らした。
「……余所見してんの? とやさん」
「余所見って何だ。言っとくけどまだ配信中なんだからね。どっちかっていうと僕のことばっかり見てるガクくんの方が今この状況においてはおかしいんだから」
「……そぉやってすぅぐ話逸らすんだ」
「どこが……? いや、そもそも何が……?」
「……〝どうなんですか〟って、話ですよ」
 まだ、答えてもらってないよ。
 そう、ガクくんが言う。呟くみたいな声量で言って、でも、ちらっと僕の目を確かに窺って、そうしてすぐに逃げるみたいに視線を外した。
「どう、って……。……そうだよ」
「……何。ちゃんと言ってよ」
「……ぃや、だから、」
 ガクくんに答えようとする僕の声も、なんだかなんとなく萎んでしまう。こんなの今更何でもないのに。言葉にするために照れるようなことも、彼が受け取ってくれないんじゃないかと不安に思うようなことも何もないのにな。
 普段よりもにゃむにゃむしているガクくんが、変に気弱そうな仕草で擦り寄ったり見詰めてきたりしたのが悪かったんだ。そうだと思うんだ。ガクくんの態度に当てられてしまっただけで、ぼくは、大丈夫、今更きみに照れなきゃならないようなことも、不安にならなきゃいけないようなことも、何もない、だって僕は君のこと知っているから、君が僕に、君のことこれ以上ないってくらい信じさせてくれたから。……ね? そういうのがあるから、ね、だから。
「――セーフです。はい、この話はここで完全におしまいですよ」
 僕はマイクに向かって毅然と言い切った。
 ふわぁっと目を輝かせた相方の口を言葉でぴしゃり塞ぐ。口をきゅっと結んだまま嬉しそうにこくこくこくこく頷く狐は、形だけ見れば従順そうだがそこをほどいてしまえば果たして。
 まあ、そうは言ってもあなたは犬じゃあないんだし、お座りと待てだけいかに上手でもよくできましたはあげられないか。

 ――ただし、伏見選手には配信後、完全な一対一の状態においてのみ僕に対する申し開きを許可します。

 だから、ほら、ぽやっとしてねぇで今のうちに首でも洗っとけ。差し当たって今は、画面のあちら側へ向き合って口直しのトークでもゲームでも重ねてかなきゃなんない。マルチタスクは得意だろ。
 固より妖美な弧線を描く眦が、今夜、僕の隣ではなんだかひどく幼気に丸まっている。眠りの淵からすっかり引き上げた星影が、今やそのまなざしに幾つも幾つも瞬いては、次元を隔てた僕らの間に常よりも忙しない軌道を描いていた。

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